探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

相模三浦一族

こんにちは、勘矢です。
今回は相模三浦一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 三浦氏発祥から宝治合戦まで

 三浦氏は桓武平氏の流れをくみ、相模国三浦郡三浦(神奈川県三浦市)の発祥。為継は源義家に従って後三年の役で功をあげ、以降清和源氏に代々属した。義明は三浦大介を称し、以後嫡流は三浦介を称した。源頼朝が挙兵して石橋山で敗戦すると義明は衣笠城に籠城し、畠山重忠らの来襲を受け討死した。
 その子義澄は頼朝の挙兵に初期から加わり、源平の戦い、奥州藤原氏攻めに活躍した。頼朝が征夷大将軍の除書を勅使から受け取る役をつとめ、幕府の重臣として重きをなした。頼朝没後は宿老の十三人のひとりとなった。
 
三浦 義明(みうら・よしあき)【1092~1180】
 三浦義継の子。享年89。
 
三浦 義澄(みうら・よしずみ)【1127~1200】
 三浦義明の二男。享年74。
 
 三浦義明の孫の和田義盛は、頼朝の安房落ちの際に侍所別当を請い、その職を得た。侍所別当御家人を統率する職であるため、庶家和田氏の統率下に惣領三浦介は置かれたことになる。義盛も宿老の十三人のひとりとなった。
 1213年、義盛の子 義直・義重、甥の胤長が泉親衡の乱に加担した罪により捕縛され、義盛の子二人は懇願により放免されたが、胤長は首謀者とされ流罪となり、のちに誅された。その後、和田一族は挙兵したが敗北した。
 
和田 義盛(わだ・よしもり)【1147~1213】
 杉本義宗の長男。享年67。
 
和田 胤長(わだ・たねなが)【1183~1213】
 和田義盛の甥。享年31。
 
 頼朝の死後、三浦義村梶原景時に対する御家人六十六名連署による弾劾状を整え、景時を失脚させた。義村の娘(矢部禅尼)は北条義時の嫡男泰時に縁組した。和田の乱では北条氏方について義村は三浦党の惣領として地位を確立させた。
 三代将軍源実朝が暗殺され、後継者として頼朝の姉の曾孫にあたる九条三寅(のち頼経)を鎌倉殿に迎え入れると三男光村が養育係となり、三浦氏は北条氏に次ぐ権門となった。
 義村の弟胤義は畠山重忠の追討、和田の乱で功をたてた。のちに在京して検非違使に任じられ、承久の乱では後鳥羽上皇方につき、兄義村を味方に誘うも失敗し、幕府方と戦い敗死した。義村は承久の乱の戦後処理と宮中の守護を命じられ、都にしばらく留まった。
 
三浦 義村(みうら・よしむら)【?~1239】
 三浦義澄の子。通称は平六。
 
三浦 胤義(みうら・たねよし)【?~1221】
 三浦義澄の子。通称は平九郎。
 
 義村の子泰村・光村兄弟は評定衆となった。1246年に執権北条経時が没すると名越光時が執権職と前将軍頼経の復活を狙った事件(宮騒動)が起き、光村も共謀者であった。頼経は都へ戻ることが決まり、光村や執権北条時頼の弟時定らが随行して都へ送り届けた。
 1247年執権時頼の外戚安達氏は三浦泰村の館に火を放ち宝治合戦は勃発した。泰村・光村兄弟は源頼朝が眠る法華堂に立て籠もり自害して果て、三浦氏惣領家は滅亡した。
 
三浦 泰村(みうら・やすむら)【?~1247】
 三浦義村の二男。
 
三浦 光村(みうら・みつむら)【1205~1247】
 三浦義村の三男。享年43。
 

三浦氏略系図

2. 佐原流三浦氏

 三浦義明の子 義連は兄義澄と共に源頼朝の挙兵に応じ、一ノ谷の戦いでは鵯越の先陣をきった。孫の盛時は宝治合戦で北条方に属し、乱後に家督をついで家名を存続した。また、盛時の兄光盛は三浦郡蘆名を領して蘆名を称し、子孫は陸奥国会津戦国大名となった。
 南北朝時代の三浦高継は足利尊氏に属し、惣領家三浦泰村の滅亡以来剥奪されていた相模守護職を戻された。高継の跡は嫡子高通が継ぎ、観応の擾乱が起こると足利直義方に付いたため、乱後に相模守護職は剥奪された。足利尊氏没後、高通は相模守護職に復帰し、以降高連、高明と世襲され、上杉禅秀の乱までこの職を独占した。
 高明の子の時高は関東公方足利持氏に仕え、永享の乱では幕府側に寝返って持氏を自害に追い込んだ。しかし、相模守護職は三浦家には戻らず、関東管領の上杉家のものとなった。
 時高は扇谷上杉持朝の子高救を養子に迎えた。1487年に扇谷上杉家の家宰太田道灌が謀殺されると、高救・義同父子は扇谷上杉家から離反し、扇谷の分国領域になっていた三浦郡を取り戻し、東相模の支配を確立した。
 北条早雲相模国に侵攻すると相模岡崎城(神奈川県伊勢原市)から新井城(神奈川県三浦市)に退き、1516年に義同・義意父子は新井城を攻められて滅亡した。
 
三浦 時高(みうら・ときたか)【1416~1494】
 三浦高明の子。享年79。
 
三浦 義同(みうら・よしあつ)【?~1516】
 三浦高救の子。法名は道寸。
 
三浦 義意(みうら・よしおき)【1496~1516】
 三浦義同の子。享年21。
 

3. 正木氏・紀州藩家老三浦氏

 三浦時高の子とされる通綱は房総に移り住み、里見氏に仕えた。里見義豊と叔父実尭の内紛に巻き込まれて討死した。通綱の子 時忠は兄時茂とともに里見義尭・義弘に従って、国府台などで北条氏とたたかった。
 
正木 通綱(まさき・みちつな)【?~1533】
 三浦時高の子とされる。名は時綱とも。
 
正木 時忠(まさき・ときただ)【?~1576】
 正木通綱の子。
 
正木 憲時(まさき・のりとき)【?~1581】
 伯父正木時茂の跡を継いだ。
 
正木 時茂(まさき・ときしげ)【?~1630】
 里見義頼の二男。憲時の跡を継ぐ。名は時尭とも。
 

正木氏略系図
 頼忠の娘お万は、蔭山氏広の養女となり徳川家康の側室となり、頼宣・頼房を産んだ。お万の兄為春は三浦と改称して紀州藩の家老となり一万五千石を与えられ、代々家老をつとめた。明治維新後に男爵。為春の子のうち、為時は家老を継ぎ、為永・春澄・為廉は頼宣に仕え、為次は頼房、為連は駿河大納言忠長に仕えた。
 
三浦 為春(みうら・ためはる)【1573~1652】
 正木頼忠の二男。享年80。
 
三浦 為脩(みうら・ためのぶ)【1759~1789】
 紀州藩徳川宗将の子。紀州藩家老。享年31。
 
わかやま歴史館 夏の企画展示 三浦 為脩~紀州徳川家から養子入りした家老~
 
三浦 権五郎 【1833~1903】
 三浦為章の子。諱は為質。享年71。
 

紀州藩三浦氏略系図
 
 お万の方の弟康長は召し出されて二代将軍徳川秀忠に仕えて御書院番をつとめ、武蔵国内で七百石を知行した。の旗本となった。二代康可も御書院番をつとめ、三代住成は御小姓組の番士となったがのちに辞職した。住成の婿養子となった康度は御小姓組に列したが父に先立って没した。四代康村は御小姓組の番士に列した。
 五代康恒は御書院番、御徒頭などを経て大目付となった。十代将軍徳川家治の日光社参に供奉した。その後、御旗奉行に転じ、常陸国内で三百石を加増されて千石となった。六代康満は御小姓組に列した。
 
●旗本正木左近家(寛政年間まで)
初代 正木 康長(まさき・やすなが)【1590~1666】
 正木頼忠の四男。享年77。
 妻は木造左馬介の娘。
 
二代 正木 康可(まさき・やすよし)【1621~1684】
 旗本大久保忠当の三男、母は久世広宣の娘。
 1666年に46歳で家督相続。享年64。
 妻は水戸家の家臣 松平重成の娘、同家家臣 松平政朝の娘。
 
三代 正木 住成(まさき・すみなり)【1658~1719】
 正木康可の長男、母は松平重成の娘。初名康重。
 1684年に27で家督相続。享年62。
 妻は旗本 大久保忠昌の養女(旗本 大久保忠重の娘)。
 
正木 康度(まさき・やすのり)【1660~1711】
 榊原家家臣 竹本長之の子。住成の婿養子となるも父に先立って没した。享年52。
 妻は正木住成の養女(正木康可の娘)。
 
四代 正木 康村(まさき・やすむら)【1697~1721】
 正木康度の長男、母は正木住成の養女。
 1719年に23で家督相続。享年25。
 妻は旗本 河野通重の娘。康村の没後押田住勝と再婚。
 
五代 正木 康恒(まさき・やすつね)【1710~1787】
 旗本 朝比奈泰尚の四男。
 1721年に12歳で家督相続。享年78。
 妻は旗本 小出勝縄の養女(常陸土浦藩 土屋家家臣 鈴木長重の娘)。
 
正木 康納(まさき・やすのり)【1739~1775】
 正木康恒の長男。父に先立って没した。享年37。
 妻は旗本 内藤正甫の娘(離婚)、後妻は旗本 桑山一承の娘(離婚)、松平親清の娘。
 
六代 正木 康満(まさき・やすみつ)【1753~?】
 正木康恒の三男、母は小出勝縄の娘。
 1787年に35歳で家督相続。
 妻は旗本 小堀政弘の養女(旗本 渡辺貞綱の娘)。
 

旗本正木氏略系図
 
参考文献:
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 日本人名大辞典(講談社
 相模三浦一族とその周辺史 その発祥から江戸期まで(鈴木かほる 著 / 新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川諸家系譜 第二(続群書類従完成会
 華族大系(系譜社出版部 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 現代華族譜要(維新史料編纂会 編 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。