探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

近江源氏佐々木氏と京極氏

こんにちは、勘矢です。
今回は近江源氏佐々木氏と京極氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 近江源氏佐々木氏

 近江国蒲生郡滋賀県)には沙沙貴神社氏神とする佐々貴氏がおり、宇多源氏の成頼が佐々木に土着して佐々木を称し、のちに両氏が同化した。宇多源氏というのは、宇多天皇の孫雅信(成頼の祖父)が臣籍降下して源姓を賜ったことからはじまる。
 佐々木秀義は源義朝に仕え、平治の乱で敗れると近江国佐々木荘を追われ、相模国(神奈川県)の渋谷重国の庇護を受けた。義朝の子頼朝が挙兵すると定綱・経高・盛綱・高綱兄弟が参陣し、戦功をたてた。源平の戦いが終わると、十数ヵ国の守護に任じられた。
 嫡流は京都の六角に屋敷があったため六角氏を称し、戦国時代まで大名として続いた。<六角氏:近江六角氏 - 探検!日本の歴史
 
 
佐々木 秀義(ささき・ひでよし)【1112~1184】
 佐々木季定の子、母は安倍宗任の娘。
 平治の乱で敗れると近江国佐々木荘を追われて相模国の渋谷重国の庇護を受け、源頼朝の挙兵後に近江に帰り、伊賀平氏との戦いで討ち死にしました。享年73。
 
 
佐々木 定綱(ささき・さだつな)【1142~1205】
 佐々木秀義の長男。源頼朝が挙兵すると参陣し、戦功をたて近江守護となりました。1192年(51)に延暦寺衆徒の強訴にあって薩摩に流され、2年後に近江守護に復帰し、長門・石見・隠岐の守護も兼ねました。享年64。
 
佐々木 経高(ささき・つねたか)【?~1221】
 佐々木秀義の二男。源頼朝が挙兵すると参陣し、戦功をたて淡路・阿波・土佐の守護となりました。承久の乱では後鳥羽上皇方につき、敗れて自害しました。
 
佐々木 盛綱(ささき・もりつな)【1151~?】
 佐々木秀義の三男。源頼朝が挙兵すると参陣し、備前児島で平行盛をやぶるなどの戦功をたて、伊予・越後の守護となりました。頼朝の没後出家しましたが、越後城氏の反乱の鎮圧や平賀朝雅の追討に功績がありました。
 
佐々木 高綱(ささき・たかつな)【?~1214】
 佐々木秀義の四男。源頼朝が挙兵すると参陣し、高綱は梶原景季宇治川の先陣であらそった。長門の守護となりましたが、1195年に出家しました。 
 
佐々木 義清(ささき・よしきよ)【?~?】
 佐々木秀義の子。源頼朝が挙兵したとき、石橋山の戦いで平家方として戦いました。のち頼朝に仕えて、隠岐・出雲守護となりました。
 
 
佐々木 広綱(ささき・ひろつな)【?~1221】
 佐々木定綱の子。父の跡を継ぎ、近江・長門などの守護となり、承久の乱では叔父経高とともに上皇方につき、敗れて捕らえられて処刑されました。
 
佐々木 信綱(ささき・のぶつな)【1181~1242】
 佐々木定綱の四男。承久の乱では幕府側として戦い、戦功をたてました。近江守護となり、佐々木氏の主流となりました。幕府の評定衆に加えられました。享年62。
 
 
佐々木 重綱(ささき・しげつな)【1207~1267】
 佐々木信綱の長男。承久の乱では幕府側として戦い、のち近江国坂田郡大原荘の地頭職を得て大原佐々木氏の祖となりました。1243年(37)に父の遺領をめぐって弟泰綱を幕府に訴えました。享年61。
 
佐々木 高信(ささき・たかのぶ)【?~?】
 佐々木信綱の二男。近江国高島郡を本拠とし、高島佐々木氏の祖となりました。1235年に日吉神社神職と争った罪で豊後国に流されました。
 
六角 泰綱(ろっかく・やすつな)【1213~1276】
 佐々木信綱の三男。六角氏を称し、佐々木氏の嫡流を継いで近江守護となりました。兄重綱に父の遺領をめぐって幕府に訴えられ、河野散財所領を没収されました。享年64。
 

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佐々木氏略系図
 
 

2. 京極氏

 佐々木信綱の四男氏信は京都の京極高辻に屋敷があったため京極氏を称した。
 南北朝の争乱では、五代高氏が足利尊氏にしたがって戦い、佐々木氏の嫡流六角氏をしのぐ活躍をみせ、京極氏が佐々木氏の惣領となった。高氏は一般的に佐々木道誉の名で知られる。近江・上総・飛騨・出雲・隠岐の守護を兼ね、山名氏・一色氏・赤松氏と共に室町幕府の侍所の所司に任ぜられる四職家のひとつとなった。
 十一代持清は応仁の乱で東軍に属し、西軍に属した六角高頼と争った。持清が没すると家督をめぐる内訌が続き、その間に出雲を守護代の尼子氏に簒奪され、北近江は被官の浅井亮政が台頭して実権を奪われた。
 十七代高次は織田信長豊臣秀吉に仕えて京極家を再興した。 
 

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京極氏略系図(戦国期まで)
 
初代 京極 氏信(きょうごく・うじのぶ)【1220~1295】
 佐々木信綱の四男。宝治合戦三浦泰村の追討に活躍しました。引付衆評定衆をつとめました。享年76。
 
二代 京極 宗綱(きょうごく・むねつな)【1248~1297】
 京極氏綱の四男。霜月騒動安達泰盛一族の追討に功を立てました。享年50。
 
三代 京極 貞宗(きょうごく・さだむね)【1286~1304】
 京極宗綱の子。享年19。
 
四代 京極 宗氏(きょうごく・むねうじ)【1269~1329】
 京極満信の子。享年61。
 
五代 京極 高氏(きょうごく・たかうじ)【1296~1373】
〔佐々木 道誉(ささき・どうよ)〕
 京極宗氏の子。はじめ北条高時につかえ、高時が出家したときに剃髪して道誉と号しました。後醍醐天皇が挙兵に失敗して隠岐に流されるとき、警護の任にあたりました。その後、足利尊氏にしたがって戦い活躍しました。近江などの守護をつとめ、政所執事をつとめました。また、その振る舞いから婆娑羅大名と呼ばれました。享年78。
 
京極 秀綱(きょうごく・ひでつな)【?~1353】
 京極高氏の子。侍所頭人などをつとめました。南朝方と戦いで戦死しました。
 
京極 秀詮(きょうごく・ひであき)【?~1362】
 京極秀綱の子。南朝方の楠木正儀らと摂津で戦い敗死しました。
 
京極 氏詮(きょうごく・うじあき)【?~1362】
 京極秀綱の子。南朝方の楠木正儀らと摂津で戦い敗死しました。
 
六代 京極 高秀(きょうごく・たかひで)【1328~1391】
 京極高氏の三男。兄秀綱・秀宗が先に没していたため家督相続しました。飛騨・出雲守護、侍所頭人などを歴任しました。享年64。
 
七代 京極 高詮(きょうごく・たかのり)【1352~1401】
 京極高秀の子。明徳の乱応永の乱に功をたてました。飛騨・出雲・隠岐・石見守護、侍所所司をつとめました。享年50。
 
八代 京極 高光(きょうごく・たかみつ)【1375~1413】
 京極高詮の子。飛騨・隠岐・出雲守護、侍所頭人をつとめました。享年39。
 
九代 京極 持高(きょうごく・もちたか)【1401~1439】
 京極孝光の子。はじめ持光。飛騨・隠岐・出雲守護、侍所頭人をつとめました。享年39。
 
十代 京極 高数(きょうごく・たかかず)【?~1441】
 京極高詮の子。1411年、病弱な兄にかわち飛騨国姉小路尹綱の追討に出陣しました。甥持高の没後に家督相続し、近江半国・飛騨・隠岐・出雲守護となりました。嘉吉の乱で六代将軍 足利義教とともに討ち死にしました。
 
十一代 京極 持清(きょうごく・もちきよ)【1407~1470】
 京極高光の三男。近江半国・飛騨・隠岐・出雲守護、侍所所司をつとめました。応仁の乱では東軍に属しました。享年64。
 
京極 勝秀(きょうごく・かつひで)【1433~1468】
 京極持清の長男。父持清とともに応仁の乱で東軍に参陣し、のち父の命により南近江の六角氏を攻め、その陣中で没しました。享年36。
 
十二代 京極 孫童子丸【1466~1471】
 京極勝秀の子。父が没したのち、祖父持清の後見で家督継がされるも早世しました。享年6。
 
京極 政光(きょうごく・まさみつ)【1450~1473】
 京極持清の二男。分家の黒田清信の養子となりました。父の命により兄勝秀の庶子童子丸(のち高清)を後見しました。享年24。
 
十三代 京極 政経(きょうごく・まさつね)【1453~1502】
 京極持清の三男。初名は政高。後見していた甥孫童子丸の没後、幕府の命により家督相続し、近江・飛騨・隠岐・出雲守護となりました。しかし、家臣のなかには兄政光を推すものもあり、政光・高清派と抗争をくりかえしました。1478年に近江・飛騨は高清、出雲・隠岐守護は政経がなることで決着しました。政経は出雲に移りましたが、同族の尼子経久が勢力を拡大したため、その権威は落ちました。享年50。
 
十四代 京極 高清(きょうごく・たかきよ)【?~?】
 京極勝秀の子。家督相続をめぐり、政経派と抗争をくりかえしました。1478年に近江北半国と飛騨となりました。1490年に所領横領の理由で幕府から討伐を受け、敗れて坂本に逃れました。翌々年、幕府から京極氏惣領を継ぎ、政経を討つ命を受け、1493年に美濃の斎藤利国と図って北近江を取り戻しました。
 その後、家臣の浅井亮政が台頭し、亮政が築いた小谷城の一郭(のちに京極丸と称される)に高清父子は迎えられました。
 
十五代 京極 高峯(きょうごく・たかみね)【?~1546】
 京極高清の子。名は高延、高広ともいう。家臣浅井亮政に実権を握られ、京極氏は衰退していきました。
 
十六代 京極 高吉(きょうごく・たかよし)【1504~1581】
 京極高清の子。一説に政経の子材宗の子とも。名ははじめ高慶または高佳。
 南近江の六角氏とともに浅井氏と戦いました。のちに菩提寺の清瀧寺に隠棲しました。その後、織田信長に招かれるも応じず、子の高次を人質におくり、隠居しました。晩年に妻とともに洗礼を受けました。享年78。
 妻は浅井久政の娘 京極マリア【?~1618】。夫ととともに安土で洗礼を受けました。
 
十七代 京極 高次(きょうごく・たかつぐ)【1563~1609】
 京極高吉の長男、母は京極マリア
 織田信長に仕え、本能寺の変後に明智光秀に属しました。光秀が羽柴秀吉に敗れると身を隠し、妹竜子が秀吉の側室となった縁でゆるされて近江大津城主となりました。関ヶ原の戦い後に若狭小浜に移されました。享年47。
 

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大津城跡
 
松丸殿(まつのまるどの)【?~1634】
 京極高吉の三女。名は竜子。はじめ若狭の武田元明に嫁ぎましたが、元明が秀吉に滅ぼされると秀義津の側室となりました。秀吉の没後は兄高次の近江大津城、京都誓願寺にうつりすみました。
 
参考文献:
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 佐々木京極氏と近江清瀧寺(西村清雄 著/サンライズ出版
 出雲尼子一族(米原正義著/吉川弘文館
 日本名字家系事典(東京堂出版
 日本人名大辞典(講談社
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。