探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

戦国 朝倉一族

 

こんにちは、勘矢です。
今回は朝倉義景とその一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 朝倉氏とは

 平安時代末期、日下部宗高が但馬国養父郡朝倉荘(兵庫県養父市)に住んで朝倉を称したといわれる。
 鎌倉時代末期に足利尊氏丹波で挙兵した際に、朝倉広景はそれに従いました。その後は斯波高経に従って越前に移りました。それ以降代々斯波氏の重臣でしたが、応仁・文明の乱の頃の孝景は、斯波氏の内紛に乗じて越前を実質的に支配しました。
 一乗谷に居館を構え、孝景以降、氏景・貞景・孝景・義景と世襲して戦国大名としてありました。義景のときに足利義昭一乗谷に迎えました。その後、盟友浅井氏と連携して織田信長と戦いましたが、最終的に信長に攻められて自刃し滅亡しました。
 

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朝倉氏略系図
 
 

2. 朝倉一族

(1)朝倉家当主

朝倉 高景(たかかげ)【1314~1372】
 朝倉広景(越前朝倉氏の祖)の子。
 斯波高経の子斯波義将が二代将軍 足利義詮の執事になると、越前の守護代となりました。享年59。
 
朝倉 教景(のりかげ)【1380~1463】
 朝倉為景の子。孫は戦国大名朝倉氏初代 朝倉孝景
 六代将軍 足利義教の命により一色義範を討ち、永享の乱関東公方 足利持氏・義久父子を攻め、その後の結城合戦にも参戦しました。享年84。
 
朝倉 孝景(たかかげ)【1428~1481】
 戦国大名朝倉氏初代。朝倉教景(家景)の子。初名 教景、のち敏景。
 越前守護の斯波氏内紛が起こると、守護代の甲斐氏と結んで渋川氏出身の斯波義廉を擁立して、当主の斯波義敏を追いやりました。応仁の乱では当初義廉の西軍につきましたが、のちに東軍に転じました。
 その後、一乗谷を本拠にし、甲斐氏の勢力を駆逐して越前の支配を固めました。「朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)」という家訓を制定しました。享年54。
 正室は叔父鳥羽将景の娘。
 
朝倉 貞景(さだかげ)【1473~1512】
 戦国大名朝倉氏三代。朝倉氏景の子。
 朝倉元景ら一族の内紛をおさえ、加賀一向一揆の侵攻を撃退して朝倉氏の越前支配を確立しました。1499年、将軍職を追われ越中に居た足利義稙が貞景を頼り、将軍復帰のために兵を出すことを求められましたが、飢饉を理由に兵を出すことは拒否しました。享年40。
 正室は美濃守護代 斎藤利良の叔母。貞景の娘は、美濃守護 土岐頼武に嫁ぎました。
 
朝倉 孝景(たかかげ)【1493~1548】
 戦国大名朝倉氏四代。朝倉貞景の子。享年56。
 正室は若狭の大名 武田元信の娘。
 
朝倉 義景(よしかげ)【1533~1573】
 戦国大名朝倉氏五代。朝倉孝景の子。初名は延景で、十三代将軍 足利義輝の一字を頂き、義景と名乗りました。義輝亡き後、その弟義昭を越前に迎え入れました。その後、義昭は織田信長を頼り越前を去りました。
 1570年、姉川の戦いには自身は出陣せず、朝倉景鏡を近江に派遣し、盟友の浅井長政を援けて織田・徳川連合軍と戦うも敗れました。その後、近江国を中心に織田軍との戦いを繰り返しましたが、1573年に浅井氏は滅ぼされ、その勢いで越前まで侵攻され、一族の朝倉景鏡の裏切りによりあっけなく滅ぼされました。享年41。
 正室細川晴元の娘、継室は近衛稙家の娘。
 

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一乗谷館跡
 

(2)朝倉一族

朝倉 元景(もとかげ)【?~1505】
 戦国大名朝倉氏初代 孝景の子。初名景総。異母弟 朝倉教景(以千宗勝)を殺害して越前を去って、京の細川政元に仕えました。1503年、従兄弟の朝倉景豊と共に宗家の朝倉貞景に謀反を企てるも露見して景豊は自刃、元景は翌年に越前へ侵攻するも敗れました。娘は朝倉景豊に嫁ぎました。
 
朝倉 宗滴(そうてき)【1474~1555】
 戦国大名朝倉氏初代 孝景の八男。諱は教景、宗滴は法名。朝倉家の軍政を取り仕切る重臣で、加賀・能登越中一向一揆勢との九頭竜川の戦いでは寡兵ながらも撃破し、その後も近隣の諸勢力を相次いで軍門に下すなど、朝倉家を支えました。
 また、朝倉貞景、孝景、義景の三代を後見しました。「朝倉宗滴話記」という談話を筆録させたものがあります。享年82。
 妻は朝倉景冬の娘(景豊の姉妹)。
 
朝倉 景鏡(かげあきら)【1525~1574】
 朝倉景高の子。従兄弟の朝倉義景に仕え、重臣の筆頭格として重用されました。1564年の一向一揆の征伐や1570年の金ヶ崎の戦いの織田軍追撃戦、志賀の陣などで総大将を任されました。
 その後、義景との間に溝が生まれてゆき、1573年に織田信長が浅井氏攻めたときは出陣を拒否し、一乗谷に織田軍が迫ると義景に反旗を翻し、義景を自刃に追い込みました。その後、土橋信鏡と改名して信長に従うも、一向一揆に攻められ自刃しました。享年50。
 

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一乗谷朝倉氏遺跡 復元町並み1

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一乗谷朝倉氏遺跡 復元町並み2
 
参考文献:
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 戦国大名家臣団大全(Standards)
 最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
 NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 麒麟がくる 明智光秀とその時代(NHK出版)
 中世武士選書33 足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍(山田康弘著/戎光祥出版
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。