こんにちは、勘矢です。
1. 斯波氏とは
家氏の曾孫高経は足利尊氏に従って越前守護となりました。高経の子義将は三度管領をつとめました。それ以降、義将の子孫と細川氏、畠山氏が交互に管領をつとめ、三管領と称されました。義将の孫義淳のときに越前、尾張、遠江の三ヶ国の守護となりました。
その後、実子のない義達の後継をめぐって一族の義敏と渋川義鏡の子義廉による家督争いが起こり、応仁・文明の乱の一因となりました。しかし、この長期間の戦いによって斯波氏は没落していきました。本拠とする越前は守護代甲斐氏に代わって守護代となった朝倉氏に奪われ、遠江もまた甲斐氏を経て今川氏のものとなりました。
2. 斯波氏の主な人物
斯波 家氏(いえうじ)【?~?】
斯波 高経(たかつね)【1305~1367】
斯波宗氏の子。
尊氏の死後、四男義将を執事に推し幕府の実権を握りました。しかし、讒言にあって追討され越前にのがれました。享年63。
斯波 家兼(いえかね)【1308~1356】
斯波 家長(いえなが)【1321~1337】
斯波高経の長男。
斯波 氏経(うじつね)【?~?】
斯波高経の二男。
斯波 義将(よしまさ)【1350~1410】
斯波高経の四男。
1362年に父の後見のもと13歳で二代将軍 足利義詮の執事となりました。1379年(30)に管領細川頼之を追放して管領となり、三代将軍 足利義満の補佐をしました。その後、1393年(44)から5年と1409年(60)2度管領となり、越前守護などをつとめました。享年61。
斯波 義種(よしたね)【1352~1408】
斯波高経の五男。
斯波 義教(よしのり)【1371~1418】
斯波義将の長男。初名は義重。
前守護をつぎ、のちに尾張・遠江守護をかねました。1405年(35)に父の庇護のもとに管領となり、1409年(39)に父と子の義淳が相次いで管領となりましたが、翌年の父の死により政務を離れました。1414年(44)に四代将軍 足利義持の怒りにふれ、高野山に蟄居となりました。享年48。
斯波 義淳(よしあつ)【1397~1433】
斯波義教の長男。
1409年に父の後見のもと13歳で管領となるも翌年に辞任しました。父の死後、越前・尾張・遠江の守護となりました。1429年(33)に六代将軍 足利義教のもとで再び管領となりましたが、主導権をとれず、また、領国の経営も甲斐氏、朝倉氏、織田氏らの重臣ににぎられました。享年37。
斯波 義郷(よしさと)【1410~1436】
斯波義教の二男。
斯波 義健(よしたけ)【1435~1452】
斯波義郷の子。
斯波 義敏(よしとし)【1435~1508】
一族斯波持種の子。
その後、斯波家を継いだ義廉と対立し、応仁の乱の一因となりました。義敏は東軍に付きました。享年74。
斯波 義寛(よしひろ)【?~?】
斯波義敏の子。名は義良(よしすけ)とも。
斯波 義廉(よしかど)【?~?】
渋川義鏡の子。
1461年に八代将軍 足利義政の命により斯波家を継ぎ、越前・尾張・遠江の守護となりました。1468年に山名宗全の推挙で管領となりました。その後、家督をめぐり義敏と対立し、応仁の乱の一因となりました。義廉は西軍に付きました。
斯波 義達(よしたつ)【?~1521】
斯波義寛の子。
斯波 義統(よしむね)【1513~1554】
斯波義達の子。
斯波 義銀(よしかね)【1540~1600】
斯波義統の子。
斯波 義永(よしなが)【?~1584】
斯波義統の子。名は義冬、近治とも。
参考文献:
名門・名家大辞典(東京堂出版)
最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
それでは、今日はここまで。
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