探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本 妻木氏~下郷妻木家とその分家~

こんにちは、勘矢です。
今回は前回(旗本 妻木氏~上郷妻木家と上総妻木家~ - 探検!日本の歴史)続きで、下郷妻木家とその分家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 下郷妻木氏

 妻木貞徳の三男 重吉は美濃国内で千石を領し、子の重直は御使番や長崎奉行となり、三千石に加増されました。三代 頼保は御使番、奈良奉行をつとめ、四代頼隆は浦賀奉行をつとめました。
 分家として妻木重吉の二男 重門から始まる五百石の妻木小源太家がありました。幕末の頼矩は目付や一橋家老などをつとめました。
 

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旗本妻木氏略系図3

2. 旗本 妻木一族

(1)旗本:妻木平四郎家(下郷妻木家)

初代 妻木 重吉(しげよし)【1571~1638】
 妻木貞徳の三男、母は土岐三兵の娘。
 幼少のころ、森忠政の許にいました。その後、松平忠吉徳川家康の四男)に仕え、その没後に家康に仕えて、美濃可児郡で千石を賜りました。1616年(46)に御書院番となり、1633年(63)に上野国内で二百石を加増され、その後辞職して小普請となりました。享年68。
 妻は旗本 長崎元通の娘。
 
二代 妻木 重直(しげなお)【1604~1683】
 妻木重吉の長男、母は長崎元通の娘。
 1621年(18)より御書院番をつとめ、のちに三百石の知行を賜りました。1633年(30)に二百石を加増されました。翌年の三代将軍 徳川家光の上洛に際して宿割をつとめました。
 1638年に35歳で家督相続し、先に与えられた知行は収められました。1655年(52)に朝鮮通信使来朝に備えて東海道を巡見しました。1658年(55)に陸奥国仙台に目付代として赴きました。1659年(56)に御使役となり、翌年に長崎奉行に転じました。1662年(59)に勘定奉行となり、相模・美濃国内で千八百石を加増され、合わせて三千石となりました。
 1667年(64)に家光の十七回忌で日光に赴きました。1669年(66)に上総・下野・武蔵等で新田開発地を検査しました。1670年(67)に辞職して寄合に列しました。1672年に69歳で隠居し、隠棲の料として三百俵を賜りました。享年80。
 妻は信濃上田城真田昌幸の娘。
 
三代 妻木 頼保(よりやす)【1640~1707】
 妻木重直の長男、母は真田昌幸の娘。
 1659年(20)に御小姓組に列しました。1672年に33歳で家督相続しました。1679年(40)に土佐藩主 山内豊昌に預けられていた伊達宗勝が没すると検使に指名され土佐国に赴きました。
 1689年(50)に御使番となり、信濃高遠藩主 鳥居忠則が改易となると仮に御目付に代わって信濃高遠に行きました。1692年(53)に日光山に赴き、御目付のことつとめました。
 1694年(55)に毛利就勝(のち吉広)が幼稚たるにより、長門国萩へ赴き国政を監督しました。1696年(57)に奈良奉行となり、1707年にこの地で没しました。享年68。
 妻は旗本 牧野永成の娘。
 
四代 妻木 頼隆(よりたか)【1669~1745】
 妻木頼保の長男、母は牧野永成の娘。
 1707年に39歳で家督相続しました。翌年に御使番となり、1710年(42)に松平(大河内)輝貞が越後村上城を賜るときに城引渡し役となって越後国村上へ赴きました。翌年、松平(奥平)忠雅が伊勢桑名城を賜ると城引渡し役として伊勢国桑名に赴きました。
 1717年(49)に九州各国を巡見し、1724年(56)に浦賀奉行に移り、1733年(65)に西ノ丸御留守居に転じました。1736年(68)に務めをゆるされて寄合に列し、一時出仕を憚りました。享年77。
 妻は旗本 柴田康利の娘。
 
五代 妻木 頼直(よりなお)【1699~1745】
 旗本 松平(五井)忠明の四男。
 頼隆の養子となり、1713年(15)に七代将軍 徳川家継に拝謁しました。1730年(32)に西ノ丸の御書院番に列し、1732年(34)に御小納戸となりました。1738年(40)に故あって出仕を止められ、のちに赦免されると小普請に貶されました。
 1745年に47歳で家督相続し、寄合に列しました。享年47。
 妻は旗本 水谷勝阜の五女、後妻は妹の勝阜の六女。勝阜の妻は頼隆の妹。
 
六代 妻木 頼栄(よりなが)【1722~1797】
 妻木頼直の長男、母は水谷勝阜の六女。
 1745年に24歳で家督相続しました。1747年(26)より火事場見廻りをつとめ、1757年(36)に御使番となり、尾張藩徳川宗勝への御使を承って名古屋に行きました。
 1760年(39)に小普請支配に移り、1772年(51)に仙洞附きに転じ、1774年(53)に辞職しました。1788年(67)に小普請支配となり、翌年に御小姓組番頭に進みました。1791年(70)に御書院番頭にうつり、1796年(75)に西ノ丸に移りました。享年76。
 妻は旗本 松平(五井)忠根の娘。
 
妻木 頼豊(よりとよ)【1748~1771】
 妻木頼栄の長男。父に先立ち没しました。享年24。
 
妻木 頼功(よりかつ)【?~?】
 美濃郡上藩主 青山幸道の六男。頼栄の婿養子となるも、故あって離縁となりました。妻は妻木頼栄の娘。
 
七代 妻木 頼篤(よりあつ)【1779~?】
 旗本 松平(五井)忠命の三男。彦右衛門。
 頼栄の婿養子となり、1797年に19歳で家督相続しました。
 1824年に46歳で隠居しました。
 妻は妻木頼栄の娘(頼功の妻の妹)。
 
 頼篤の大叔母が養父頼栄の妻で、曽祖父松平忠根の弟が養祖父の頼直です。
 

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妻木氏と松平(五井)氏と水谷氏の関係図
 
八代 妻木 頼徳【?~?】
 妻木頼篤の子。平四郎。
 1824年に家督相続しました。1837年に寄合から使番となり、1840年に病免しました。1844年に隠居しました。
 
九代 妻木 頼欽【?~?】
 妻木頼徳の子。民之助、主計。
 1844年に家督相続しました。1863年に寄合より火事場見廻となりました。翌年、寄合肝煎となりました。
 1866年に組合銃隊頭となり、翌年に御役が廃止となり御役御免となりました。
 
屋敷は赤坂薬研坂あたりにあり、現在の弾正坂を登った突き当りの山脇学園あたりにありました。

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妻木平四郎家屋敷跡付近

(2)旗本:妻木小源太家

(寛政年間までの当主)
初代 妻木 重門(しげかど)【?~1646】
 妻木重吉の二男、母は長崎元通の娘。
 徳川家光に仕えて御小姓組をつとめ、蔵米三百俵を賜りました。その後、御書院番に移り、1633年に二百石の加増されて、蔵米を知行地に改められ、常陸国内で五百石を知行しました。同年、進物役を勤めました。
 
二代 妻木 頼長(よりなが)【1631~1710】
 妻木頼利の二男。
 重門の婿養子となり、1647に17歳で家督相続し、小普請となりました。1654年(24)に御書院の番士となりました。1692年に62歳で隠居しました。享年80。
 妻は妻木重門の娘。
 
妻木 伝八郎【1650~1681】
 妻木頼長の長男、母は妻木重門の娘。1667年(18)に御小姓組の番士となり、のちに辞職しました。享年32。
 
三代 妻木 頼帯(よりおき)【1658~1701】
 妻木頼利の四男。
 兄頼長の養子となり、1692年に35歳で家督相続しました。1696年(39)に御書院番となりました。享年44。
 妻は肥前大村藩 大村家の家臣 大村権左衛門の娘。
 
四代 妻木 頼勝(よりかつ)【1696~1769】
 旗本 水谷勝阜の五男、母は妻木頼保の娘。頼保は初代重門の甥。
 1頼帯の養子となり、1701年にわずか6歳で家督相続しました。1719年(24)に御書院番に列し、のちに辞職しました。1738年(43)に西ノ丸の御小姓組となり、1755年(60)に辞職しました。1756年に61歳で隠居しました。享年74。
 妻は旗本 赤井時尹の娘。
 
妻木 通純(みちずみ)【?~?】
 交代寄合 岩松富純の五男。頼勝の婿養子となるも、故あって実家に戻りました。
 
五代 妻木 頼紀(よりのり)【1733~1793】
 大和新庄藩主 永井直円の十男。
 頼勝の婿養子となり、1756年に24歳で家督相続しました。1759年(27)に西ノ丸の御書院番に列し、1783年(51)に辞職しました。1784年に52歳で隠居しました。享年61。
 妻は妻木頼勝の娘(元通純の妻)。
 
六代 妻木 頼時(よりとき)【1758~?】
 妻木頼紀の長男、母は妻木頼勝の娘。
 1784年に27歳で家督相続しました。1789年(32)に御小姓組の番士となり、1793年(36)に辞職しました。1794年(37)に隠居しました。翌年、逐電しました。
 妻は旗本 依田信富の娘(離婚)、後妻は旗本 西尾定氏の娘(この西尾家は遠江横須賀藩の分家)。
 
七代 妻木 頼秀(よりひで)【1777~?】
 妻木頼時の長男、母は依田信富の娘。喜太郎、小源太。
 1794年に18歳で家督相続しました。1796年(20)に父が逐電したことにより一時出仕を止められました。
 
○寛政以降の人物
妻木 頼門【?~?】
 小源太。1841年に御小姓組から与頭となりました。1843年に病免し、寄合となりました。1858年に隠居しました。
 
妻木 頼矩【1825~1891】
 妻木頼門の子。中務、田宮、多宮、主一、棲碧(せいへき)。
 1855年(31)に甲府学問所の学頭となり、翌年、両御番へ番入しました。
 1858年(34)に家督相続しました。1859年(35)に御小姓組となり、学問所教授方出役より、1860年(36)に奥右筆となりました。1861年(37)に両番格となって目付に移り、外国掛をつとめました。さらに蕃書調所御用を兼帯し、外国立合貿易筋御用も取り扱い、その他の臨時御用(目付)役はすべて御免となりましたが、翌年病気にのため辞職しました。
 1867年(43)に大坂で姫君用人格の目付となり、翌年に大目付となりました。さら一橋家老を兼帯しました。
 
屋敷は牛込若宮にあり、現在の神楽坂の毘沙門天善國寺に近いところにありました。

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毘沙門天善國寺
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 /  国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 寛政譜以降 旗本百科事典 第3巻(東洋書林
 土岐市史 二
 幕末維新大人名事典 下巻(新人物往来社
 東近江市史 愛東の歴史 第二巻 本文篇
 もち歩き 江戸東京散歩(人文社)
 続徳川実紀 第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(国立国会図書館デジタルコレクション)
 日本人名大辞典(講談社
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。