こんにちは、勘矢です。
1. 讃岐高松藩 松平家
讃岐高松藩の家祖 松平頼重は水戸藩主 徳川頼房の長男として生まれました。その当時、頼房の兄尾張藩主 徳川義直と紀州藩主 徳川頼宣にまだ子がなかったことから頼房は兄に遠慮して頼重を家臣 三木之次に預けました。その後、之次の娘が嫁いだ京都の公家 滋野井季吉に養育され、嵯峨の天竜寺の子院慈済院内に仮住まいしました。
二代 頼常は水戸藩主 徳川光圀の長男として生まれました。光圀は同母兄の頼重を超えて水戸家の世子になったことを遺恨に思い、頼重の長男 綱方と二男 綱条を養子に迎え、自身の子頼常を頼重の世子としました。なお、綱方は1670年に22歳で没し、弟の綱条が水戸藩を相続しました。
三代頼豊、四代頼桓は高松藩の一族からの養子で頼重の血筋に戻りました。五代頼恭は水戸藩一門の陸奥守山藩からの養子に入り、八代 頼儀まで守山藩系の血筋が続き、九代 頼恕は水戸藩から迎えて頼重の血筋に戻り、十代は頼儀の子 頼胤、十一代は頼恕の子 頼聡と交互に藩主となり、廃藩置県を迎えました。
2. 讃岐高松藩主一覧
初代 松平 頼重(よりしげ)【1622~1695】
徳川頼房の長男、母は側室 谷氏。
1639年(18)に常陸下館五万石を賜り、1642年(21)に讃岐高松十二万石となりました。城下町の拡充・整備に着手し、旱魃に備えて領内各地に溜池をつくり、屋島に塩田を造成しました。また、京都粟田口の陶工作兵衛を招いて「理平焼」、京都の織物師北川伊兵衛常吉に「保多織(讃岐上布)」をつくらせました。1673年に52歳で隠居しました。享年74。
二代 松平 頼常(よりつね)【1652~1704】
1673年に22歳で讃岐高松藩を相続しました。先代からの藩財政の逼迫や旱魃・風水害などによる不作が続きました。1695年(44)に厳しい倹約令を実施し、開墾による産業開発で藩財政の建て直しにつとめました。1704年に53歳で隠居し、それから間もなく没しました。享年53。
三代 松平 頼豊(よりとよ)【1680~1735】
松平頼重の五男 頼候の子、母は公家 樋口信康の娘。
1703年に頼常の養子となり、翌1704年に25歳で讃岐高松藩を相続しました。1716年(37)紀州藩主の徳川吉宗が将軍職に就くと、その拝謝のために参内しました。また、風水害・地震・旱魃などが相次いで起こり、藩財政は窮乏に陥り、藩士らの俸禄を減じたりし、領民の救済につとめました。享年56。
正室は公家 正親町実豊の娘 豊姫。
四代 松平 頼桓(よりたけ)【1720~1739】
松平大膳家 松平頼熈の長男、母は側室 佐野氏。
頼豊の長男 宗尭が水戸藩の養子となり、その後世子となった三男頼治も早世したため、頼豊の婿養子となりました。
1735年に16歳で讃岐高松藩を相続しました。実父頼熈が後見をつとめました。享年20。
正室は松平頼豊の娘 春姫。
五代 松平 頼恭(よりたか)【1711~1771】
頼桓の養子となり、1739年に29歳で讃岐高松藩を相続しました。頼恭の頃も風水害・などが相次いだため、藩財政は窮乏し、藩士の俸禄を減じました。1770年(60)には大旱魃に襲われたため、莫大な米銀を供出して領民の救済に当てました。
また、平賀源内の才能を認め、城下の栗林荘に薬草を栽培させ、医者向山周慶に製糖を学ばせました。1753年(43)に屋島亥の浜塩田を築造しました。藩財政の建て直しに成功し、高松中興の英主とたたえられました。享年61。
六代 松平 頼真(よりざね)【1743~1780】
松平頼恭の長男、母は細川宣紀の娘。
七代 松平 頼起(よりおき)【1747~1792】
松平頼恭の四男、母は側室 荒川氏。
八代 松平 頼儀(よりのり)【1775~1829】
松平頼真の長男、母は側室 中山氏。
叔父頼起の養子となり、1792年に18歳で讃岐高松藩を相続しました。1794年(20)に白砂糖製造に成功しました。その後、藩財政が次第に弛緩していき、江戸屋敷の火災や屋島東照宮の造営に莫大な建築費を使ったため藩財政は完全に破綻し、江戸や大坂の商人から借財しました。1821年に47歳で隠居しました。享年55。
九代 松平 頼恕(よりひろ)【1798~1842】
頼儀の婿養子となり、1821年に24歳で讃岐高松藩を相続しました。藩財政の建て直しに全力を注ぎ、砂糖生産の保護奨励と改良や溜池の築造、信用の低下した藩札を回収し、新たな藩札を発行するなど、高松藩の天保改革を行いました。その後、藩財政は回復していきました。享年45。
正室は松平頼儀の娘 倫姫。
十代 松平 頼胤(よりたね)【1810~1877】
松平頼儀の四男、母は側室 藤木氏。
1844年(35)の将軍家慶の日光社参のときに江戸城を守りました。また、同年、守山藩主 松平頼誠と府中藩主 松平頼縄とともに、水戸藩主 徳川斉昭に隠居・謹慎を伝える使者をつとめました。また、新藩主 徳川慶篤の後見を1849年(40)までをつとめました。
十一代 松平 頼聡(よりさと)【1834~1903】
松平頼恕の七男、母は側室 浅田氏。徳川斉昭の甥。
1853年(20)に頼胤の養子となり、1861年に28歳で讃岐高松藩を相続しました。1863年(30)3月にはじめて朝覲し、ついで石清水八幡宮行幸に供奉しました。翌年も際上洛し、禁門の変では小御所を守備し、第一次長州征伐では安芸国徳山口へ出兵しました。1865年(32)の長州再征が発令されると藩兵を大坂に進めるも出陣はしなかった。1868年(35)の鳥羽伏見の戦いで在坂の藩兵が幕府軍に協力して新政府軍との戦いに参戦したため、朝敵として追討されることになり、官位を剥奪されました。家老2人を切腹させ、自身は浄願寺で謹慎し、恭順の態度をとって謝罪し、軍資金十二万両を献金したため、官位を回復しました。藩兵は奥羽方面に従軍しました。1869年(36)に版籍奉還て高松藩知事に任ぜられ、1871年(38)に廃藩置県を迎えました。享年70
3. 松平大膳家
松平大膳家は松平頼重の六男頼芳からはじまり、代々高松藩に仕えました。三代頼珍、四代 頼央は相次いで阿波蜂須賀家に養子入りしました。幕末の頼覚は高松藩主 松平頼聡の代理として上洛しました禁門の変が起こると御所の守衛に当たりました。
初代 松平 頼芳(よりよし)【1667~1706】
松平頼重の六男。1676年(10)に三千石を賜りました。享年40。
二代 松平 頼熈(よりひろ)【1699~1737】
松平頼芳の子。1704年にわずか6歳で家督相続しました。石高は二千石。享年39。
長男 頼桓は高松藩の養子に入りました。
三代 松平 頼珍【1721~1780】
松平頼熈の二男。1736年に16歳で家督相続しました。石高は三千石。1739年(19)に老中の指図で阿波蜂須賀家に養子入りし、蜂須賀宗鎮と改名しました。享年60。
四代 松平 頼央【1736~1754】
松平頼熈の三男。1739年わずか4歳で兄頼珍の跡を相続しました。1754年(19)に兄宗鎮が阿波藩主を隠居するため蜂須賀家に養子入りし、至央と改名しました。しかし、阿波藩相続後まもなく没しました。享年19。
蜂須賀家についてはこちらもご覧ください。
五代 松平 頼昌(よりあつ)【1752~1789】
松平頼恭の五男。1754年にわずか3歳で大膳家を相続しました。石高は二千石。1785年(34)に五千石を賜りました。
六代 松平 頼格(よりさだ)【1777~1836】
大久保頼裕の長男。1789年(13)伯父頼昌の養子となりました。享年60。
七代 松平 頼覚(よりあき)【1807~1867】
松平頼格の三男。大膳。1836年に30歳で家督相続しました。1863年(57)1月に十四代将軍徳川家茂が上洛すると高松藩主 松平頼聡は二条城警固の命を受けましたが病のため、藩主代理として 大膳が兵を率いて上洛しました。
1864年(58)4月に内勅が高松藩に下り、海岸防御を命ぜられて帰国しました。5月に千石を加増され、国政相談を命ぜられました。7月に一橋慶喜の命により二男哲松(頼纉)を伴って上京し、禁門の変が起こると御所の守衛に当たりました。1865年(59)に隠居しました。享年61。
八代 松平 頼利(よりとし)【1833~?】
松平頼覚の長男。1865年に33歳で家督相続しました。
4. 高松藩松平一族
松平 頼候(よりとき)
松平 頼治(よりはる)【1711~1730】
松平頼豊の三男。1725年(15)に八代将軍 吉宗に初お目見え。父に先立って没しました。享年20。
松平 頼該(よりかね)〔松平左近〕【1809~1868】
松平頼儀の子。頼胤の兄。
藩主頼胤より蔵米千五百石を与えられました。水戸藩主徳川斉昭に傾倒して尊王の志が厚く、志士たちと交わって王事に尽瘁しました。1868年(60)に鳥羽伏見の戦い後に朝敵として追討されることになると、左近の尽力により藩論を恭順に決して兵禍を免れた。享年60。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川一族大全(廣済堂出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。