こんにちは、勘矢です。
1. 美濃高須藩 松平家とは
高須松平家は、尾張藩二代藩主 徳川光友の二男義行が1681年に信濃高取で三万石を与えられたことからはじまります。1700年に領地の半分を美濃国内に移され、高須(岐阜県海津市)に陣屋を置いて美濃高須藩となりました。高須陣屋は現在の岐阜県立海津明誠高等学校付近にあったといわれます。また、信濃の領地は、竹佐(長野県飯田市)に陣屋を置いて支配しました。
七代 勝当が没すると義直の血筋は途絶えました。養子の八代 義居は一橋家からの養子で、義居が在任中の尾張藩主は徳川斉朝で、斉朝は義居の甥にあたるため、宗藩と支藩の両方が八代将軍吉宗の血筋の当主となりました。
九代 義和は水戸藩からの養子相続しました。その子義建は子だくさんで、特に慶勝、茂徳、容保、定敬の4人は幕末維新に活躍し、高須四兄弟と呼ばれました。
2. 美濃高須藩主一覧
初代 松平 義行(よしゆき)【1656~1715】
1681年(26)に信濃国内で三万石を与えられ、1700年(45)に信濃国内の一万五千石を美濃国内に交換し、美濃国石津郡高須に陣屋を構えました。この前年に実兄 綱誠が没し、甥の吉通が尾張藩主となりましたが、幼少であったため、その補佐をしました。
二代 松平 義孝(よしたか)【1694~1732】
1701年(8)に義行の養子となり、1715年に22歳で美濃高須藩を相続しました。享年39。
三代 松平 義淳(よしあつ)【1705~1761】
川田久保家 松平友著の長男、母は側室 お繁(湯本氏)。
四代 松平 義敏(よしとし)【1734~1771】
松平義淳(徳川宗勝)の三男、母はおとせ(馬場氏)。
1739年に父義淳が尾張藩を相続したため、わずか6歳で美濃高須藩を相続しました。1757年(24)に領内が水害に見舞われ、その後もたびたび出水するので、1763年(30)陣屋を移すことを幕府に願い出て、1765年(32)に駒野村に移りました。享年38。
五代 松平 義柄(よしえ)【1760~1793】
松平義敏の長男、母は松平(水戸)頼寛の娘 幾姫。
六代 松平 義裕(よしひろ)【1762~1795】
松平義敏の二男、母は松平(水戸)頼寛の娘 幾姫。
七代 松平 勝当(かつまさ)【1737~1801】
松平義淳(徳川宗勝)の七男、母は馬場氏。
甥義裕に子がなかったため、1795年に59歳で美濃高須藩を相続しました。享年65。
八代 松平 義居(よしすえ)【1785~1804】
御三卿 一橋治済の六男、母は丸山氏。
勝当の婿養子となり、1801年に17歳で美濃高須藩を相続しました。享年20。
正室は松平勝当の養女 薫姫(松平義裕の娘)。
九代 松平 義和(よしより)【1776~1832】
義居の養子となり、1804年に29歳で美濃高須藩を相続しました。享年57。
藩主就任前に生まれた三男は、会津松平家に引き取られ、藩主 容住の子 容敬として幕府に届け出されました。
十代 松平 義建(よしたつ)【1799~1862】
松平義和の二男、母は平松氏。
十一代 松平 義比(よしちか)【1831~1884】
松平義建の五男、母は側室 美佐尾(尾崎氏)。
十二代 松平 義端(よしまさ)【1858~1860】
徳川茂徳の長男、母は丹羽長富の娘 政姫(政子)。
1858年にわずか1歳で美濃高須藩を相続しました。享年3。
実際の生まれは1855年で、病弱のため1858年生まれと届けられました。
十三代 松平 義勇(よしたけ)【1859~1891】
松平義建の十男、母は古森氏。
十四代 松平 義生(よしなり)【1855~1920】
丹波園部藩主 小出英教の二男、村瀬氏。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
徳川一族大全(廣済堂出版)
高須四兄弟 新宿荒木町に生まれた幕末維新(新宿歴史博物館)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。