こんにちは、勘矢です。
今回は摂津高槻藩 永井家について調べたことをまとめました。
1. 高槻藩 永井家
永井直勝の二男直清からはじまる。直清は大坂夏の陣で活躍し、1633年に加増されて二万石となり山城長岡藩(京都府長岡京市)を立藩した。1649年に加増されて摂津高槻(大阪府高槻市)に三万六千石で入り、以降廃藩置県まで続いた。
2. 摂津高槻藩主一覧
初代 永井 直清(なおきよ)【1591~1671】
永井直勝の二男、母は阿部正勝の娘。
1604年(14)に徳川秀忠の小姓となり、その後御書院番となりました。大坂の両陣にも出陣し、1615年(25)に上総・下総国内で五百三十石を賜りました。1626年(36)に父の遺領より上総・下野国内で三千五百石を分け与えられました。1632年(42)に御書院番頭に列し、上総国内で三千石を加増され、旧領と新墾田を合わせて八千石となりました。
1633年(43)に山城・摂津国内で一万二千石を加増されて二万石となり、諸侯に列し山城長岡を立藩しました。1642年(52)に実兄で山城淀藩主 永井尚政と共に京・大坂の窮民救済にあたりました。また、京都所司代や大坂城代不在時の代役をつとめました。
1649年(59)に摂津国内で一万六千石の加増を受けて三万六千石となり、摂津高槻へ移封されました。1653年(63)に禁裏炎上の際に直ちに入京し、兄尚政、五味豊直と三人で処理にあたり、その後、兄とともに禁裏造営奉行に任じられました。1655年(65)に禁裏が完成すると参内の命を受け、造営の功として後妻天皇から薫物と太刀を与えられました。
享年81
永井 直吉(なおよし)【1617~1669】
永井直清の子、母は高木正次の娘。
1635年(19)に三代将軍 徳川家光に初お目見えしました。その後、病弱により廃嫡されました。享年53。
正室は旗本 高木正綱の娘。正綱は生母の伯父。
二代 永井 直時(なおとき)【1638~1680】
永井直吉の子、母は高木正綱の娘。
三代 永井 直種(なおたね)【1658~1695】
山城淀藩主 永井尚征の四男。
1677年(20)にはとこの直時の養子となりました。1680年に23歳で摂津高槻藩を相続しました。享年38。
四代 永井 直達(なおたつ)【1689~1706】
大和新庄藩主 永井直円の長男、母は松平忠継の娘。
正室は永井直種の娘。
五代 永井 直英(なおひで)【1695~1715】
永井直種の二男。
義兄直達の養子となり、1706年に12歳で摂津高槻藩を相続しました。享年21。
六代 永井 直期(なおざね)【1703~1765】
従兄直英の養子となり、1715年に13歳で摂津高槻藩を相続しました。1716年(14)に近江国内の幕府領の検地を担当しました。直期の代以降、代々永井家は京都火消役をつとめました。また、この頃から藩財政は悪化しました。1748年に46歳で隠居しました。享年63。
七代 永井 直行(なおゆき)【1730~1758】
永井直期の長男。
1748年に19歳で摂津高槻藩を相続しました。享年29。
八代 永井 直珍(なおよし)【1742~1770】
永井直期の三男。
兄直行の養子となり、1758年に17歳で摂津高槻藩を相続しました。享年29。
九代 永井 直進(なおのぶ)【1761~1815】
永井直珍の長男、母は本多康恒の娘。
1771年に11歳で摂津高槻藩を相続しました。1793年(33)に藩祖直清を祭神に勧請して城内に永井神社を創建しました。1809年に49歳で隠居しました。享年55。
十代 永井 直与(なおとも)【1785~1846】
永井直進の長男、母は松平信礼の娘。
1809年に25歳で摂津高槻藩を相続しました。村入用への反権力の介入とそれに反対する入箇騒動が起きました。1842年に58歳で隠居しました。享年62。
十一代 永井 直輝(なおてる)【1827~1874】
永井直与の二男、母は松浦清の娘。
兄直寛が早世したため嫡子となり、1842年に16歳で摂津高槻藩を相続しました。1848年(22)に永井神社の社殿を修復し、このとき新たに門と拝所が造営されました。1851年(25)に江戸藩邸で火災、1855年(29)に安政の大地震、1860年(34)の大風雨の三度の災害に見舞われて藩財政は一層窮乏しました。
また、桜田門外の変で井伊大老が斃れるとに篠山・淀・膳所の各藩とともに京都四口の警備を命じられ、翌1861年(35)には江戸麻布善福寺のアメリカ仮公使館の警備を担当しました。同年に隠居しました。享年48。
十二代 永井 直矢(なおつら)【1842~1865】
豊後杵築藩主 松平(能見)親良の二男。
十三代 永井 直諒(なおまさ)【1849~1919】
旗本 永井左門家: 永井直次の三男。
直矢の養子となり、1865年に17歳で摂津高槻藩を相続しました。1867年(19)に十五代将軍 徳川慶喜が大政奉還したとき直諒は江戸におり、あくまで幕府の命令に従うという意思を表しました。翌年の鳥羽伏見の戦いで高槻藩は幕命に従って洞ヶ峠の警備を担当しましたが、戦火を交えることはなく、その後新政府に従いました。
3. 高槻藩永井家の養子関係
(1)十二代 直矢
嗣子がいなかった十一代 直輝は、豊後杵築藩主 松平(能見)親良の二男直矢を養子に迎えました。この時点で永井一門に適齢の男子がいなかったことから他家より養子を迎えたものと考えます。
調べてみると直輝と直矢は遠い親戚関係になるようです。直輝の正室は上野七日市藩主 前田利之の娘で、その姉妹が上総鶴牧藩主 水野忠順に嫁いでいます。忠順のいとこが越後長岡藩主 牧野忠恭に嫁ぎ、その姪が直矢の父松平親良の正室になっています。
(2)十三代 直諒
十二代直矢は相続して約3年で早世したため、永井家は養子を迎える必要がありました。次に迎えたのは永井一族の旗本、永井直次の三男 直諒です。
直諒が養子に迎えられたとき、先々代直輝は存命でした。直輝と直諒の関係を見ると、直輝の曽祖父直珍の姉妹が大和新庄藩主 永井直温に嫁いでいて、直温の孫娘が旗本直応に嫁いでいます。直応の孫が直諒となります。直輝の父直与と直諒の祖父直応がはとこの関係です。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。