こんにちは、勘矢です。
今日は、徳川吉宗以降の将軍家と御三卿の姫たちの婚姻関係について調べたのでまとめました。
1. 姫たちの婚姻先
吉宗から幕末までに将軍家と御三卿の姫たちうち、婚姻(婚約も含む)した女性は42人で、将軍家の娘は19人(うち養女5人)、田安家の娘は17人、一橋家の娘は5人でした。
内訳は、徳川吉宗:養女2人、徳川家治:娘1人・養女1人、徳川家斉:娘12人、徳川家慶:娘1人・養女2人、田安宗武:娘7人(うち1人は家治の養女となった)、田安斉匡:娘11人、一橋宗尹:娘1人、一橋治済:娘1人、一橋斉敦:娘3人となります。
42人のうちの半数が、家斉、斉匡、斉敦兄弟の姫たちで合わせて26人。1800年代前半に婚姻の時期を迎ました。
将軍家の姫の嫁ぎ先(婚約も含む)をみてみます。徳川一門にへ11、有力外様大名へ9、譜代大名へ1となります。将軍家と釣り合いの合う格式の家となると御三家をはじめとした一門と有力外様大名となります。特に御三家筆頭の尾張家とは婚約も含めて3回の縁組がありました。外様大名の多くは西日本に領地を持つ家が選ばれました。譜代は酒井雅楽頭家で、酒井家は松平家以来の古参の家臣なので、譜代でも別格の家なので選ばれたのではないでしょうか。
続いて、御三卿(田安家・一橋家)の嫁ぎを婚約も含めてみてみます。有力外様大名へ13、徳川一門へ7、譜代大名へ3となります。半分以上を外様有力大名との縁組が占めます。一門では田安と一橋の間での婚姻が多いです。田安宗武の息子で養子に出た定国(伊予松山藩)、定信(陸奥白河藩)の息子たちに田安家に養子入りした斉匡の娘たちとの縁組がありました。御三家とは尾張家のみ婚姻がありました。譜代は徳川四天王の酒井家で2回ありました。残りのケースは奥平家で、家康の長女亀姫が嫁いだ家の子孫です。奥平昌暢の父が島津家出身で祖母が一橋家出身という縁があるため選ばれたのではないでしょうか。
竹姫が島津家に嫁いで以来、徳川家と島津家は互いの娘を嫁がせました。幕末に薩摩藩の発言力が高かったのは、このような婚姻関係があったことが大きいのではないかと思います。徳川家と島津家の関係をまとめました。
2. 姫から見た年齢差
全体的に見ると夫の年齢が年上のケースが多い結果でした。5歳ごとに区切ってみると、プラスマイナス5歳の範囲が大半を占めます。
11歳以上の年齢差:3人、6~10歳の年齢差:7人、1~5歳の年齢差:12人、同い年:1人、-1~-5歳の年齢差:15人、-6歳の年齢差:3人。
一番の年齢差は田安斉匡の末娘 筆で、16歳年上の
佐賀藩主鍋島斉正の継室となりました。斉正の
正室は将軍家斉娘の盛姫で、直正より3歳年上でした。筆が斉正に嫁いだのが10代後半であるので、当時としては適齢でしょう。幕末に差し掛かった時期で、西国雄藩の一つ
佐賀藩とつながりを持っておきたかったという考えが、幕閣にあったのかもしれません。
正室との子がいなかったことも関係があるかもしれません。
将軍家と
御三卿の姫が嫁ぐ相手となるとそれなりの格式がある家である必要があり、相手との年齢やこれまでの婚姻関係、各大名家の事情などを考慮したうえで、幕閣が決めるのでしょう。しかし、家斉と斉匡兄弟がそろって子だくさんであったため、幕閣がその処遇に頭を悩ませたのは想像に難くありません。
3. 姫様一覧
(1)将軍家
◆吉宗の姫
竹姫【1705~1772】享年68
清閑寺煕定の娘で綱吉の側室寿光院の姪。綱吉の養女。
松平正邦と婚約。(正邦【1696~1708】享年13。
陸奥会津藩世子〔
親藩〕)
吉宗の養女として島津家に嫁いだ。
島津継豊室。(継豊【1701~1760】享年60。薩摩鹿児島〔外様〕)
利根姫【1717~1745】享年29
徳川宗直の娘で吉宗の養女。伊達宗村室。(宗村【1718~1756】享年39。
陸奥仙台〔外様〕)
◆家治の姫
萬寿姫【1761~1773】享年13
徳川治休婚約。(治休【1753~1773】享年21。
尾張名古屋〔御三家〕)
種姫【1765~1794】享年30
◆家斉の姫
淑姫 鎮子【1789~1817】享年29
徳川五郎太婚約。五郎太は徳川治行の子。(五郎太【1781~1794】享年14。
尾張名古屋〔御三家〕)
徳川斉朝室。(斉朝【1793~1850】享年58。
尾張名古屋〔御三家〕)
峯姫 美子【1800~1853】享年54
徳川斉脩室。(斉脩【1797~1829】享年33。
常陸水戸〔御三家〕)
浅姫 㵾子【1803~1857】享年55
伊達周宗婚約。(周宗【1796~1812】享年17。
陸奥仙台〔外様〕)
松平斉承室。(斉承【1811~1835】享年25。越前福井〔
親藩〕)
元姫 幸子【1808~1821】享年14
松平容衆室。(容衆【1803~1822】享年20。
陸奥会津〔
親藩〕)
文姫 結子【1809~1837】享年29
松平頼胤室。(頼胤【1810~1877】享年68。讃岐高松〔
親藩〕)
盛姫 國子【1811~1846】享年36
鍋島斉
正室。(斉正のち直正【1814~1871】享年58。
肥前佐賀〔外様〕)
和姫 操子【1813~1830】享年18
毛利斉広室。(斉広【1814~1836】享年23。
長門萩〔外様〕)
溶姫 偕子【1813~1868】享年56
前田斉泰室。(斉泰【1811~1884】享年74。加賀金沢〔外様〕)
末姫 貴子【1817~1872】享年56
浅野斉粛室。(斉粛【1817~1868】享年52。安芸広島〔外様〕)
嘉代姫 都子【1818~1844】享年27
酒井忠学室。(忠学【1808~1844】享年37。播磨姫路〔譜代〕)
永姫 賢子【1819~1875】享年57
一橋斉位室。(斉位【1818~1837】享年20。〔
御三卿〕)
泰姫 益子【1827~1843】享年17
池田斉訓室。(斉訓【1820~1841】享年22。
因幡鳥取〔外様〕)
◆家慶の姫
暉姫【1826~1840】享年15
田安慶頼婚約。(慶頼【1828~1876】享年49。〔
御三卿〕)
精宮 韶子【1825~1913】享年89
有栖川宮韶仁親王王女で家慶の養女。有馬頼咸室。(頼咸【1828~1881】享年54。
筑後久留米〔外様〕)
線宮 幟子【1835~1856】享年22
(2)御三卿 田安家
誠【1741~1759】享年19
伊達重村婚約。(重村【1742~1796】享年55。
陸奥仙台〔外様〕)
淑【1744~1815】享年72
鍋島重茂室。(重茂【1733~1770】享年38。
肥前佐賀〔外様〕)
仲【1751~1779】享年29
池田重寛室。(重寛【1746~1783】享年38。
因幡鳥取〔外様〕)
節【1756~1815】享年60
毛利治親(治元)室。(治親【1754~1791】享年38。
長門萩〔外様〕)
脩【1756~1820】享年65
酒井忠徳室。(忠徳【1755~1812】享年58。出羽鶴岡〔譜代〕)
定【1767~1813】享年47
松平治好室。(治好【1768~1825】享年58。越前福井〔
親藩〕)
◆田安斉匡の姫
近【1800~1830】享年31
一橋斉礼室。(斉礼【1803~1830】享年28。〔
御三卿〕)
鑅【1805~1860】享年56
松平定通室。(定通【1804~1835】享年32。伊予松山〔
親藩〕)
鋭【1807~1820】享年14
津軽信順婚約。(信順【1800~1862】享年63。
陸奥弘前〔外様〕)
猶【1807~1872】享年66
田安斉荘室。(斉荘【1810~1845】享年36。〔
御三卿〕)
鐐【1808~1890】享年83
酒井忠発室。(忠発【1812~1876】享年65。出羽鶴岡〔譜代〕)
欽(金)【1809~1851】享年43
津軽信順室。(信順【1800~1862】享年63。
陸奥弘前〔外様〕)
猗【1811~1817】享年7
松平定和婚約。(定和【1812~1841】享年30。伊勢桑名〔
親藩〕)
愛【1818~1832】享年15
徳川斉温室。(斉温【1819~1839】享年21。
尾張名古屋〔御三家〕)
千重【1821~1860】享年40
松平武成室。(武成【1825~1847】享年23。石見浜田〔
親藩〕)
純【1821~1906】享年86
立花鑑寛室。(鑑寛【1829~1909】享年81。
筑後柳河〔外様〕)
筆【1830~1886】享年57
鍋島斉正継室。(斉正のち直正【1814~1871】享年58。
肥前佐賀〔外様〕)
(3)御三卿 一橋家
◆一橋宗尹の姫
保【?~1769】
島津重豪室。(重豪【1745~1833】享年89。薩摩鹿児島〔外様〕)
◆一橋治済の姫
紀【1785~1861】享年77
細川斉樹室。(斉樹【1797~1826】享年30。肥後熊本〔外様〕)
◆一橋斉敦の姫
静(幹)【1801~1824】享年24
有馬頼徳室。(頼徳【1797~1844】享年48。
筑後久留米〔外様〕)
英子【1805~1858】享年54
島津斉彬室。(斉彬【1809~1858】享年50。薩摩鹿児島〔外様〕)
栄(国子)【1811~1886】享年76
奥平昌暢室。(昌暢【1809~1832】享年24。
豊前中津〔譜代〕)
参考文献
歴史読本 2003年7月号 特集江戸300藩 大名家の夫人たち
歴史読本 2004年10月号 特集300藩 大名夫人の幕末維新
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。