探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

徳川歴代将軍について

こんにちは、勘矢です。
令和元年がはじまりましたね。
今回は、徳川将軍について調べたこと書きます。

 

 

1.歴代将軍の一覧

まずは徳川将軍の一覧です。

f:id:SGM335:20190501100241p:plain

徳川歴代将軍一覧

 黒丸は養子を示します。カッコの数字は数え年を示します。

 徳川将軍は、家康から慶喜まで15代続きました。いずれも父方をたどると家康にたどり着きます。

 就任時の平均年齢は28.9歳で、最高齢は家康の62歳で、40代の就任が家宣・家慶の2人、30代の就任が綱吉・吉宗・家重・家定・慶喜の5人、20代の就任が秀忠・家光・家治の3人、10代の就任が家綱・家斉・家茂の3人、最年少が家継の5歳となっています。

 養子で相続した人は6人います。家斉を除いて他家の当主を務めていて、「家」のつかない名前を持っています。家宣と家茂のみ将軍家に養子に入ったあと「家」のつく名前に改名しています。

 吉宗と慶喜は養父よりも年長の養子となっています。吉宗は秀忠系の血筋が絶えたために紀州藩から徳川宗家継ぎました。家茂までは吉宗の血筋です。慶喜は幕末の混乱の最中に徳川宗家を継ぎました。

 歴代将軍の平均寿命を調べてみると51.5歳となります。最後の将軍慶喜を除いて14人中5人が隠居して大御所となっています。この表をつくってわかりましたが、家康、吉宗、家斉の3人は60代になってから隠居していますが、秀忠は45歳で隠居しています。

 

f:id:SGM335:20190501103824j:plain

江戸城 大手門

2.将軍家の相続

 初代家康が在職2年ほどで隠居すると三男の秀忠が継いで二代将軍となり、そのあとを次男の家光が継ぎました。十五代の将軍のうち家光のみが父を将軍、母が正室お江与・近江の戦国大名浅井長政の娘で織田信長の姪)でした。ほかに母が正室の将軍は初代家康と十五代慶喜がいます。残りの将軍は側室の子供でした。当時は乳幼児に死亡率が高かったので血筋を残すためには側室制度は不可欠でした。

 三代家光のあとを長男の家綱が継ぎましたが子がなかったため、弟の綱吉(家光の四男)が五代将軍となりました。しかし、綱吉も跡継ぎに恵まれなかったため、甥の家宣(家光三男綱重の長男)を養子に迎えました。家宣のあとは四男の家継が継ぎましたがわずか8歳で亡くなり、秀忠系統の将軍はここで絶えました。

f:id:SGM335:20190501100541p:plain

家康から吉宗までの略系図

 七代将軍家継のあとを御三家の紀州藩主の吉宗が継ぎ八代将軍となりました。吉宗は家康のひ孫にあたります。吉宗のあとを長男の家重が継ぎ九代将軍となり、そのあとを長男の家治が継ぎました。家治には家基という男子がいましたが18歳で急死したため、一橋家から家斉が養子に入り十一代将軍となりました。家斉は吉宗のひ孫にあたります。

f:id:SGM335:20190501100616p:plain

吉宗から家斉までの略系図

 家斉は約半世紀将軍職にあり、子供も55人も儲けました。当時は乳幼児の死亡率が高くて多くは早世しました。成長した男子は御三家・御三卿などの一門に養子に出され、女子は有力大名家に輿入れしました。家斉の隠居後、次男の家慶があとを継ぎ十二代将軍となりました。家慶も父に劣らず多くの子供を儲けましたが、ほとんどが早世しました。たった一人残った四男の家定が十三代将軍となりました。 

 家定は子がなく病弱であったため将軍継嗣問題がおき、南紀派と一橋派が争いましたが、最終的に紀州藩主の慶福が跡継ぎに決まり、名を家茂と改め十四代将軍となりました。家茂は家定とは従兄弟であり祖父が家斉です。

 第2次長州征伐の最中に家茂が亡くなると、家茂を補佐していた慶喜が十五代将軍となりました。慶喜は御三家の水戸家出身で御三卿の一橋家に養子に入っていました。将軍家側との縁戚関係は、慶喜の生母が有栖川宮家出身で伯母が十二代家慶の正室、伯父の斉脩の正室が十一代家斉の娘でした。

f:id:SGM335:20190501100652p:plain

家斉から慶喜までの略系図

 

それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。