探検!日本の歴史

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臼杵藩の分家旗本 稲葉氏

こんにちは、勘矢です。
今回は豊後臼杵藩主稲葉家(前回:豊後臼杵藩 稲葉家 - 探検!日本の歴史)の分家旗本 稲葉氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 臼杵藩系旗本 稲葉氏

 稲葉貞通の三男通孝は、父が豊後臼杵に移るとその所領内で一万四千百五十石余を分け与えられました。その後、故あって伏見に退去したので、所領は本家に収められました。その子通照は1624年に召し出され、七百石を知行しました。七代通生は行状が悪く家政が乱れたため、二人のおばが1790年に小普請支配の高木正鼎に愁訴し、知行を半分に減らされて閉門となり、その後甲府に移されました。幕末の当主 辰之助は、1861年甲府勤番から書院番となりました。(稲葉伊織家)
 通照の二男通政は分家しましたが、孫の彦七郎以降については不明。(稲葉彦七郎家)
 稲葉一通の四男通任が1650年に召し出されて千百石を知行しました。幕末の当主 錞之助は旗本岡部家から養子に入りました。(稲葉主税家)
 

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旗本 稲葉氏(臼杵藩系)略系図
 
 

2. 旗本 稲葉家(臼杵藩系)当主

(1)旗本:稲葉伊織家

(寛政年間までの当主)
初代  稲葉 通照(みちてる)【1605~1656】
 稲葉通孝の長男。
 1624年(20)に召し出されて御書院番に列し、のちに蔵米五百俵を賜り、御小姓組に移りました。1633年(29)に二百石を加増され、蔵米を改められて常陸国内において七百石を知行しました。1640年(36)に辞職し、小普請となりました。享年52。
 
菩提寺は浅草海禅寺。

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浅草海禅寺
 
二代 稲葉 通義(みちよし)【?~1675】
 稲葉通照の長男。
 1656年に家督相続しました。1663年に御書院番に列しました。
 妻は旗本 大久保長重の娘。
 
三代 稲葉 安通(やすみち)【1659~1730】
 稲葉通義の長男。
 1675年に17歳で家督相続しました。1683年(25)に御書院番に列し、1685年(27)に落度により一時閉門となりました。1694年(36)に辞職しました。1725年に67歳で隠居しました。享年72。
 
四代 稲葉 栄通(よしみち)【1705~1736】
 稲葉安通の長男。
 1725年に21歳で家督相続しました。1730年(26)に御書院番となりました。享年32。
 
五代 稲葉 種通(たねみち)【1706~1738】
 稲葉安通の二男。
 兄栄通の養子となり、1736年に31歳で家督相続しました。翌年に西ノ丸の御小姓組に列しました。享年33。
 
六代 稲葉 通泰(みちやす)【1728~1787】
 稲葉種通の長男。
 1738年にわずか11歳で家督相続しました。1749年(22)に御小姓組となり、1760年(33)より進物役をつとめました。1764年(37)に中奥の番士に転じました。享年60。
 妻は旗本 山角親詮の娘(離婚)。
 
稲葉 通清(みちきよ)【?~?】
 稲葉通泰の長男。1776年に十代将軍 徳川家治に拝謁し、1786年に出奔しました。
 
七代 稲葉 通生(みちなり)【1771~?】
 稲葉通泰の二男、母は平井氏。
 1787年に17歳で家督相続しました。1790年(20)、行状が悪く家政が乱れたため、二人のおばが小普請支配の高木正鼎に愁訴し、知行を半分に減らされて閉門となり、その後甲府に移されました。二人のおばは本家の臼杵藩主 稲葉弘通に召し預けられました。
 
稲葉 通利(みちとし)【?~?】
 稲葉通生の長男、母は小河氏。妻は旗本岡部義利の娘。
 

(2)旗本:稲葉彦七郎家

(寛政年間までの当主)
初代 稲葉 通政(みちまさ)【1632~1691】
 稲葉通照の二男。
 1650年(19)に西ノ丸の御小姓組に列し、翌年本丸に移りました。1652年(21)に蔵米三百俵を賜りました。享年60。
 妻は旗本 阿倍重信の娘、後妻は旗本 菅谷範重の娘。
 
二代 稲葉 通倫(みちとも)【1666~1708】
 稲葉通政の二男。
 1691年に26歳で家督相続し、小普請となりました。1693年(28)に桐間番に列して以降、御近習番、御小納戸をつとめ、翌年御小姓となりました。1696年(31)に三百俵を加えられ、翌年に蔵米から知行に改められて相模国内で六百石を知行しました。享年43。
 
三代 稲葉 彦七郎【?~?】
 稲葉通倫の長男。1708年に家督相続しました。
 
 

(3)旗本:稲葉主税家

(寛政年間までの当主)
初代 稲葉 通任(みちとう)【1626~1710】
 豊後臼杵藩主 稲葉一通の四男、母は青山忠俊の娘。
 1650年(25)に西ノ丸の御書院番となり、のちに本丸に移りました。1652年(27)に蔵米三百俵を賜り、また、進物役をつとめました。1664年(39)に組頭にすすみ、翌年三百俵を加えられました。1682年(57)に上野・下野国内にて五百石の知行を賜りました。
 1684年(59)に御持筒頭に移り、1691年(66)に火附盗賊改加役をつとめました。1694年(69)に配下の者が罪科に処せられるとそれに連座して出仕をはばかりました。1695年に70歳で隠居しまし、隠居料として蔵米三百俵を賜りましたた。享年85。
 妻は丹波福知山藩主 稲葉紀通の娘。
 
二代 稲葉 通久(みちひさ)【1659~1702】
 稲葉通任の長男、母は稲葉紀通の娘。
 1691年(33)に御小姓組に列し、翌年に進物役をつとめました。
 1695年に37歳で家督相続しました。1697年(39)に金森頼旨が美濃郡上城を賜るとき、水野忠之とともに現地に赴いて仰せを伝えました。同年、蔵米六百石を改めて武蔵・下総・伊豆国内で六百石を賜り、合わせて千百石となりました。享年44。
 
三代 稲葉 通長(みちなが)【1685~1734】
 稲葉通久の長男。
 1702年に18歳で家督相続し、小普請となりました。1725年に41歳で隠居しました。享年50。
 
四代 稲葉 通大(みちふと)【1703~1738】
 豊後臼杵藩主 稲葉知通の三男、母は津屋氏。
 通長の養子となり、1725年に23歳で家督相続しました。1731年(29)に御書院番となりました。享年36。
 
五代 稲葉 通敦(みちあつ)【1723~1754】
 稲葉通大の長男。
 1738年に16歳で家督相続しました。享年32。
 
六代 稲葉 通済(みちなり)【1735~1792】
 豊後臼杵藩稲葉家家臣 稲葉通古の子、母は稲葉通大の娘。
 通敦の養子となり、1754年に20歳で家督相続しました。1764年(30)に中奥の番士に列し、1776年(42)に十代将軍 徳川家治の日光社参に供奉し、その後、御徒頭に進みました。享年58。
 妻は旗本 興津忠通の娘。
 
七代 稲葉 通碩(みつあつ)【1763~?】
 武蔵岡部藩主 安部信允の三男。
 通済の婿養子となり、1792年に30歳で家督相続しました。1796年(34)に御小姓組に列しました。
 妻は稲葉通済の娘。通済の娘は初め旗本 谷衛寿に嫁ぎ、離婚後に通碩の妻になりました。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 /  国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻(東洋書林
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。