こんにちは、勘矢です。
今回は米沢藩上杉家について調べたことをまとめました。
1. 米沢藩上杉家とは
戦国大名の上杉謙信が祖。越後守護代の長尾景虎が、関東管領の上杉憲政から家督を譲られたことから始まります。景虎は上杉政虎と改名し、のちに将軍足利義輝の一字を与えられ輝虎と改名し、出家後は謙信と号しました。
養子の景勝は豊臣秀吉の五大老のひとりとなり、会津若松で百二十万石を領しました。関ヶ原の戦いで西軍に属したため、出羽米沢三十万石に減封されました。さらに孫の綱勝が世子なく急死すると、綱勝の甥で高家 吉良義央の長男綱憲が末期養子として相続するも十五万石に減封となりました。戦国以来の家臣を抱えたままであったので、非常に財政は厳しいものでした。
幕末に三万石の加増がありましたが、奥羽列藩同盟に参加したため、 四万石を減封され十四万石となりました。分家の米沢新田藩は1869年に所領を宗藩に返上しました。米沢藩最後の藩主 茂憲は知藩事となり、廃藩置県を迎えました。
2. 米沢藩主一覧
初代 上杉 景勝(かげかつ)【1555~1623】
叔父謙信の養子となり、謙信の急死後、もう一人の養子景虎(北条氏康三男)と家督相続を争い(御館の乱)、これを滅ぼして家督相続しました。本能寺の変で織田信長が斃れると、豊臣秀吉に臣従して五大老のひとりとなりました。1598年(44)に越後から陸奥会津若松に国替えとなり百二十万石を領しました。
秀吉の没後、謀反を疑われて会津討伐を受け、最上義光・伊達政宗の軍と交戦しました。関ヶ原で西軍が敗れると徳川家康に降伏しました。1601年(47)に出羽米沢三十万石となりました。大坂の両陣に出兵し、山形の最上氏が改易となると山形城の請け取りを命ぜられました。享年69。
二代 上杉 定勝(さだかつ)【1604~1645】
上杉景勝の長男、母は四辻公遠の娘。
三代 上杉 綱勝(つなかつ)【1638~1664】
上杉定勝の二男、母は側室 近衛家の家司 斉藤本盛の娘。
1645年にわずか8歳で出羽米沢藩を相続しました。1664年(27)に世子なく急死しました。享年27。
四代 上杉 綱憲(つなのり)【1663~1704】
1664年に伯父の急死によりわずか2歳で出羽米沢藩を相続しましたが、所領は半分の十五万石となりました。1702年(40)の赤穂浪士による吉良邸討ち入りに際しては、藩士を派遣しようとしましたが、老中に差し止められました。翌1703年に41歳で病気のため隠居しました。享年42。
吉良家についてはこちらをご覧ください。
五代 上杉 吉憲(よしのり)【1684~1722】
上杉綱憲の長男、母は側室 清寿院。
1703年に20歳で出羽米沢藩を相続しました。1719年(36)に弟勝周に新墾田一万石を分与しました。元禄期以降、藩財政は窮乏し、参勤交代の費用にも困るほどでした。享年39。
六代 上杉 宗憲(むねのり)【1714~1734】
上杉吉憲の長男、母は側室 山中氏。
1722年にわずか9歳で出羽米沢藩を相続しました。享年21。
七代 上杉 宗房(むねふさ)【1718~1746】
上杉吉憲の二男、母は側室 山中氏。
1734年に17歳で出羽米沢藩を相続しました。享年29。
八代 上杉 重定(しげさだ)【1720~1798】
上杉吉憲四男、母は側室 山中氏
1746年に27歳で出羽米沢藩を相続しました。1753年(34)に東叡山中堂普請助役で多額の費用負担があり、その後の大凶作で飢餓に苦しむ領民が富商を襲う事件が起きて、領地返上を決意しましたが、義父の徳川宗勝の諭されて翻意しました。この事態を乗り切るため、近習頭兼郡代の森平右衛門を登用するも専制的で、重臣たちとの対立を深め、後に森は暗殺されました。1767年(48)に改革派により藩主隠退を強要されました。享年79。
九代 上杉 治憲(はるのり)【1751~1822】
1760年(10)に重定の養嗣子となりました。1767年に17歳で出羽米沢藩を相続しました。相続後、ただちに藩政改革に着手して、竹俣当綱を奉行に登用して代官制度改革、農村復興、殖産興業の開発、藩校興譲館の創設を進めました。さらに藩士に対しては質素倹約を命じ、自らも倹約を徹底的に実行しました。
1773年(23)に改革に反対する重臣ら七人を処罰しました(七家騒動)。1781年(31)に改革の最大の功労者竹俣当綱の不行跡を理由に蟄居を命じる処分を行いました。
1785年に35歳で隠居しました。このとき、養子の治広に家訓「伝国之辞」を贈りました。1802年(52)に総髪して鷹山(ようざん)と称しました。享年72。
正室は上杉重定の娘 幸姫。
十代 上杉 治広(はるひろ)【1764~1822】
上杉重定の三男、母は側室 小川氏。
十一代 上杉 斉定(なりさだ)【1788~1839】
上杉勝熙の長男、母は側室 高田氏。勝熙は重定の二男。
広島藩についてはこちらをご覧ください。
十二代 上杉 斉憲(なりのり)【1820~1889】
上杉斉定の子、母は側室 畠山義周の娘。
1839年に20歳で出羽米沢藩を相続しました。1848年(29)異国船警備のため銃隊を越後に派遣しました。また、軍制改革を行いました。1863年(44)、十四代将軍 家茂に供奉して上洛する際、観兵式で西洋操練を見せました。1865年(46)京都警固を命ぜられたが、病のため嫡男茂憲を名代として上洛させました。翌年、斉憲は江戸警固、茂憲は京都警衛を命ぜられたため、藩財政を圧迫しました。このため幕府から三万石を与えられ、十八万石となりました。
戊辰戦争が勃発すると東北諸藩と共に会津征討を命ぜられたが、仙台藩などと共に会津藩の赦免を奥羽鎮撫総督に嘆願するも却下されました。奥羽越列藩同盟の結成のときは指導的役割を果たしましたが、いち早く新政府軍の軍門に下りました。1868年(49)に官位を奪われ、四万石を没収されて隠居を命ぜられました。享年70。
十三代 上杉 茂憲(もちのり)【1844~1919】
上杉斉憲の子、母は側室 於磐の方。
1865年(22)に父の名代として京都警衛につきました。1868年(25)に奥羽列藩同盟の会談に従い、越後に出兵しましたが降伏し、その後新政府軍に従軍し鶴岡・会津に進撃しました。同年、四万石減封されて米沢藩を相続し、翌年に版籍奉還して米沢藩知事となりました。1871年(28)に廃藩置県を迎えました。
3. 米沢新田藩主一覧
初代 上杉 勝周(かつちか)【1696~1747】
上杉綱憲の四男、母は側室 樫田氏。
1719年(24)に兄吉憲から新墾田一万石を分与されて、米沢新田藩を立藩しました。藩庁は米沢城二の丸に置き、藩政は宗藩と同一でした。兄吉憲の没後、幼主宗憲の後見をつとめ、江戸城鍛冶橋の門番役、駿府加番などをつとめました。享年52歳。
二代 上杉 勝承(かつよし)【1735~1785】
上杉勝周の嫡男、母は片桐貞起の娘。
三代 上杉 勝定(かつさだ)【1769~1821】
上杉重定の四男、母は側室 小川氏。
1783年(15)に勝承の養嗣子となりました。1785年に17歳で米沢新田藩を相続しました。1815年に47歳で隠居しました。享年53。
四代 上杉 勝義(かつよし)【1792~1858】
上杉勝熙の四男。
1815年に24歳で米沢新田藩を相続しました。1842年に51歳で隠居しました。享年67。
正室は上杉勝定の娘 初。
五代 上杉 勝道(かつみち)【1826~1896】
上杉斉定の四男。
1842年に17歳で米沢新田藩を相続しました。1863年(38)からしばしば米沢藩主の名代として藩政を代行しました。1868年(43)の戊辰戦争では、奥羽列藩同盟に参加した米沢藩主の兄斉憲とは別行動をとり、新政府軍に従って越後方面に出陣し、戦後は斉憲の謝罪に奔走して、米沢藩の難を救いました。1869年(44)に所領を米沢藩に返上しました。享年71。
4. 米沢藩上杉一門
上杉 憲孝(のりたか)【1692~1708】
上杉綱憲の三男、母は樫田氏。享年17。
上杉 勝延(かつのぶ)
上杉綱憲の五男、母は樫田氏。娘のお豊は治憲の側室。
上杉 勝熙(かつひろ)
上杉重定の二男、母は側室 小川氏。
上杉 顕孝(あきたか)【1779~1794】
上杉治憲の二男、母は上杉勝延の娘。
1782年(4)に兄治広の養嗣子となりました。父に先立ちました。享年16。
5. 上杉氏と吉良氏の関係
義央の三人の娘たちは、兄綱憲の養女となりました。
三女は旗本 酒井忠平の妻となり、忠平が没した後に公家の大炊御門経音の妻となりました。酒井家は若狭小浜藩の分家で四千石でしたが、後に断絶しました。
上杉綱憲の二男は祖父の養子となり吉良義周となりました。
上杉氏と吉良氏の関係を寛政重修諸家譜などを使ってさかのぼって確認してみました。吉良義央の祖母、曽祖母は今川家の出身で、今川家を何代かさかのぼると扇谷上杉家と八条上杉家との婚姻関係がありました。吉良義央は母方で上杉の血を引いていました。その子上杉綱憲以降の藩主は母方で上杉の血を引いていることになります。
下図の緑が上杉氏の血筋で、青が母方で上杉氏の血筋の人物。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
上杉家の至宝(米沢市上杉博物館)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。