こんにちは、勘矢です。
今回は常陸麻生藩新庄家について調べたことをまとめました。
1. 旗本新庄家
(1)旗本:新庄鹿之助家
新庄直頼の二男直綱ははじめ会津蒲生家の世話になり、1633年に召されて御書院番に列し、甲斐国内で千石を賜った。二代直方のとき、甲斐国内から上総国内に知行地を移された。
三代直恒は御小納戸をつとめた。直恒の妻は紀州家付家老水野家の分家出身で、長男重期は母方大伯父の水野重上の養子となり、紀州家付家老水野家を継いだ。そのため二男直弘が四代目となった。直弘は西ノ丸御書院番などをつとめた。
初代 新庄 直綱(なおつな)【1585~1642】
新庄直頼の二男、母は佐久間盛重の娘。享年58。
妻は松平下野守家臣家臣外池信濃某の娘。
二代 新庄 直方(なおかた)【1611~1699】
新庄直綱の長男、母は松平下野守家臣外池信濃某の娘。
1642年に32歳で家督相続。1695年に85歳で隠居し、蔵米三百俵を賜った。享年89。
妻は旗本 進藤正成の娘。
三代 新庄 直恒(なおつね)【1654~1722】
新庄直方の長男、母は進藤正成の娘。
1695年に42歳で家督相続。享年69。
妻は旗本水野良全の娘、後妻は旗本 三枝守清の娘。
四代 新庄 直弘(なおひろ)【1700~1734】
新庄直恒の二男、母は水野良全の娘。
1722年に23歳で家督相続。享年35。
妻は旗本 筧正尹の娘。
五代直内は御使番や西ノ丸御目付、御槍奉行などをつとめた。弟茂雅は清水家に仕ええた。長男直孝、二男直慶は早世し、三男直権は病のため嗣子とならず、四男直利が跡を継いだ。
六代直利は大坂目付代、西ノ丸目付などをつとめ、1823年に松平外記の刃傷に関連して御役御免となった。七代直温は嫡孫承祖し、1848年に御小納戸、1854年に御使番となった。その後、目付や御先鉄砲頭などをつとめ、1867年に日光奉行となった。
五代 新庄 直内(なおうち)【1718~?】
新庄直弘の長男、母は筧正尹の娘。
1734年に17歳で家督相続。
妻は小堀政良の娘、後妻は細井勝為の娘。
新庄 直孝(なおたか)【1750~1766】
新庄直内の長男、父に先立ち没した。享年17。
新庄 直慶(なおよし)【1751~1785】
新庄直内の二男、父に先立ち没した。享年35。
妻は旗本 秋田季通の娘。
六代 新庄 直利【?~?】
新庄直内の四男。斧七、鹿之助。
1801年に父の隠居により家督相続。大坂目付代、西ノ丸目付などをつとめ、1823年に松平外記の刃傷に関連して御役御免。
新庄 彦八郎【?~1837】
新庄直利の養子。越中守。御小納戸、御小姓。父に先立ち没した。
七代 新庄 直温(なおはる)【1831~?】
新庄彦八郎の子。寿三郎、右近将監。
(2)旗本:新庄勝三郎家
新庄直頼の四男直房は1613年に父の遺領から常陸国内で三千石を分け与えられた。大坂の両陣には兄直定と共に供奉した。その後御目付などをつとめ、1633年に甲斐国内で千石を加増され、のちに御書院番の番頭となった。
二代直長は家督相続時に弟直時、直徳にそれぞれ五百石を分与したので三千石を知行した。御小姓組番頭などをつとめた。三代直賢は御小姓組番頭に列したが、1689年に妻の実家鳥居家が改易された際に一時拝謁を止められた。その後御書院番番頭に転じたが、隊下の大久保忠賀が罪を犯したことにより閉門となった。
五代直矢は宗家の麻生藩から婿養子に入った。七代直容は先手鉄砲頭、西ノ丸留守居をつとめた。八代直敬は御小姓、新番頭をつとめ、1867年に本家麻生藩相続した。
初代 新庄 直房(なおふさ)【1595~1649】
新庄直頼の四男、母は佐久間盛重の娘。享年55。
妻は旗本 川口近次の娘。
二代 新庄 直長(なおなが)【1623~1677】
新庄直房の長男、母は川口近次の娘。
1649年に27歳で家督相続。享年55。
三代 新庄 直賢(なおかた)【1657~1733】
新庄直長の長男、母は秋田俊季の娘。
1677年に21歳で家督相続。1717年に61歳で隠居。享年77。
妻は信濃高遠藩主 鳥居忠春の娘。後妻は肥前平戸藩主 松浦鎮信の娘。
四代 新庄 直澄(なおずみ)【1675~1727】
新庄直賢の長男、母は鳥居忠春の娘。
妻は旗本 滝川利錦の娘。後妻は旗本 大久保教福の娘。
五代 新庄 直矢(なおとし)【1704~1765】
常陸麻生藩主 新庄直詮の十五男。
直澄の婿養子となり、1727年に24歳で家督相続。1762年に59歳で隠居。享年62。
妻は新庄直澄の娘。
六代 新庄 直武(なおたけ)【1732~1783】
新庄直矢の長男、母は新庄直澄の娘。
1762年に31歳で家督相続。享年52。
妻は旗本 井上正朝の娘。
七代 新庄 直容(なおかた)【1774~?】
新庄直武の三男、母は亀井氏。
1783年に10歳で家督相続。
妻は常陸麻生藩主 新庄直規の娘。
新庄 直孝(なおたか)【?~?】
新庄直容の長男、母は 新庄直規の娘。父に先立ち没した。
八代 新庄 直敬(なおなり)【1821~1872】
新庄直孝の長男、母は本多飛騨守の娘。
1854年に祖父より家督相続。1867年に本家麻生藩相続。享年52。
正室は松平信意の娘。
新庄直敬の跡を誰が継いだのかは定かではないが、「復古記巻四十七 明治元年戊辰三月十四日( 国立国会図書館デジタルコレクション)」から新庄鋼五郎直与が相続したのではないかと推測される。この日は五箇条の御誓文が出された日で、誓約に署名した人々の名が記されている。公家、大名に続いて中下大夫の人々の名がある。中下大夫とは旧幕府の交代寄合、高家、千石以上の旗本で新政府に帰順した者に与えられた称号である。この中に新庄鋼五郎直与が記されている。
新庄家で千石以上は新庄鹿之助家(千石)と新庄勝三郎家(三千石)のみで、鹿之助家の直温は日光奉行で、「維新史料綱要 巻9 明治元年五月( 国立国会図書館デジタルコレクション)」に、東山道先鋒総督府に捕らえられ江戸に送られたと記載があることから、鋼五郎直与が直敬の後継者とみていいと思う。
(3)旗本:新庄数馬家
新庄直房の四男直徳からはじまる新庄勝三郎家の分家。1649年に父の遺領から甲斐国内で五百石を分け与えられた。1677年に兄で常陸麻生藩主の直時が大坂在番中に没すると、仰せによって大坂に赴きその家臣を率いて帰った。
二代直方は嗣子がなく、旗本都筑為昌の四男直久を婿養子に迎えたが先立たれ、同五男直英を養子に迎えた。三代直英も嗣子がなく、実弟直良を末期養子にした。
四代直良は西ノ丸御書院番、五代直救は御書院番をつとめた。直救は嗣子がなく、本家直矢の五男直常を婿養子に迎えた。直常は十代将軍家治の日光社参に扈従した。
(4)旗本:新庄安太郎家
新庄直昌の二男直忠からはじまる。豊臣秀吉に仕え、近江・伊勢国内で一万四千六百石余を領し、近江の秀吉蔵入地の代官をつとめたが、関ヶ原の戦いで知行を失った。1614年の大坂冬の陣の際に家康に召し出され、甥直定とともに今里の附城を守り、翌年に旧領近江国坂田郡柏原の旅館守護と付近の幕領の代官を命じられた。
二代直氏は大坂の陣後に蔵米五百俵を賜った。三代直興は大番などをつとめて蔵米二百俵を加えられた。四代直安は嗣子がなく、宗家の麻生藩から直道を末期養子に迎えた。
五代直道は蔵米を改めて常陸・伊豆国内で七百石を賜った。七代直宥は御小納戸、御目付など経て一橋家の家老となり、のちに大目付も兼任した。八代直清は御小姓組に列した。
新庄 直忠(なおただ)【1542~1620】
新庄直昌の二男、母は久我大納言某娘。享年79。
妻は堀秀重の娘。
新庄 直宥(なおやす)【1725~1779】
新庄直行の子。初名直富。享年55。
妻は常陸麻生藩主 新庄直祐の娘。
(5)旗本:新庄采女家
新庄直定の二男直之からはじまる。1616年に常陸国内で千石を賜り、御小姓組の組頭や御先鉄砲頭などをつとめ、のちに千四百石となった。二代直旧は相続時に新墾田四百石を義兄直政に分け与えたので千石を知行した。1685年に嗣子なく絶家。
(6)旗本:新庄六郎左衛門家
新庄直政は新庄直治の長男で、嗣子がなかった伯父直之の婿養子となったが、直旧が生まれたため嫡子を辞退した。1678年に御小姓組に列し、1680年に蔵米三百俵を与えられた。同年に養父直之が没したときに新墾田四百石を分け与えられて別家し、蔵米は収められた。
二代直親は御書院番、三代直賀と四代直富は西ノ丸御小姓組をつとめた。
(7)旗本:新庄内蔵助家
新庄直定の三男直治からはじまる。1635年に御小姓組に列して蔵米三百俵を賜った。二代直勝は御書院番に列したが、1705年に不法によって改易となった。旗本筑紫家から直門を婿養子に迎えていたが、直門も連座となったため絶家。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
寛政譜以降 旗本百科事典 第3巻(東洋書林)
続徳川実紀 第1篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。