探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、藩や旗本などについて主に書いていきます。

松平諸家

こんにちは、勘矢です。

今回は家康以前に分家した松平諸家について調べたことをまとめました。

 

 

1. 松平郷松平家と十八松平家

 松平氏三代 信光が発祥地である松平郷(現・愛知県豊田市松平町)から岡崎平野へ進出する際、兄 信広が足の不自由さもあり松平郷の家督を相続した。その子孫の由重は1590年の家康の関東移封には従わず、松平郷に残留したが一時期所在不明となる。その子 尚栄は1600年の関ヶ原の戦いで軍功を挙げ、のちに松平郷へ復帰して四百四十石を領した。以降は特別に「交代寄合」格とされ、旗本でありながら参勤交代を行う家柄となった。

 一方、信光の子孫は三河国内に土着・分派し、これらを総称して「十八松平」と呼ぶ(数には諸説あり、十四松平ともいわれる)。家康が戦国大名化していく過程でその傘下(家臣団)に組み込まれ、徳川の天下統一にともない多くの家系が大名や旗本に列せられた。

 

2. 松平信光系の分家

(1)竹谷松平家

 松平信光の長男 守家を祖とする。三河国宝飯郡竹谷(現・愛知県蒲郡市竹谷町)を拠点とした。永禄年間、当時の当主 清善は今川方の拠点であった上之郷城主 鵜殿長照を滅ぼす武功を挙げた。1590年の家康の関東移封にともない、家清が武蔵国八幡山一万石を与えられる。関ヶ原の戦い後には三河国吉田藩三万石へ加増転封となったが、その子 忠清が嗣子なく無嗣断絶となった。のちに弟の清昌が三河国西之郡 五千石の交代寄合として家名を再興し、のちの分知により四千五百石となって明治に至った。

 

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(2)形原松平家

 松平信光の四男 与福を祖とする。三河国宝飯郡形原(現・愛知県蒲郡市形原町)を拠点とした。永禄年間に家康に仕え、1590年の家康の関東移封にともない、家信が上総国五井 五千石を与えられた。関ヶ原の戦い後に旧領(形原)に復帰し、その後の加増によって大名に昇格。以降も加増と転封を繰り返し、江戸中期の1749年以降に丹波国亀山藩 五万石を領して定着した。幕末の当主 信義は老中に就任し、生麦事件などの外交処理を担当した。

 

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(3)大草松平家

 松平信光の五男 光重を祖とする。光重の子 昌安は岡崎城主であったが、家康の祖父である松平清康と戦って敗れ、のちに娘を清康の妻とさせて岡崎城を譲り渡した。子孫の康安は家康の嫡男 松平信康に仕え、のちに家康、秀忠に仕えて大坂の陣ののちに六千石の旗本となった。その子 正朝は駿河大納言 徳川忠長に附属(御附家老)となり、忠長の改易後は水戸徳川家の家老となった。しかし、その子 正永が嗣子なく無嗣断絶となった。

 

(4)五井松平家

 松平信光の七男 忠景を祖とする。三河国宝飯郡五井(現・愛知県蒲郡市五井町)を拠点とした。伊昌の代に家康に仕え、その子 忠実の代に六千石の旗本となった(のちに分知により五千五百石)。忠実の次男 忠尚は1620年に別家として召し出されて五百石を知行し、のちに忠実の遺領からさらに五百石を与えられて千石の旗本となる。その養子 則采の代にさらに加増があり、千五百石となった。

 

(5)深溝松平家

 五井松平家 忠景の次男である忠定を祖とする。三河国額田郡深溝(現・愛知県額田郡幸田町深溝)を拠点とした。家康に仕えた家忠は、当時の貴重な一級史料である「家忠日記」の著者として、また関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いにて鳥居元忠らとともに城を死守し、玉砕したことで知られる。この忠義が家康に高く評価され、子孫は加増と転封を繰り返し、最終的に肥前国島原藩七万石を領して定着した。また、この一族からは複数の旗本家が分立した。

 

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(6)能見松平家

 松平信光の八男 光親を祖とする。三河国額田郡能見(現・愛知県岡崎市能見町)を拠点とした。家康に仕えた重勝は、関ヶ原の戦い後に家康の六男 松平忠輝の付家老となった。忠輝の改易後は幕臣(旗本)に戻り、子孫は加増と転封を繰り返し、英親の代に豊後国杵築藩 三万七千石を領して定着した。また、この一族からも複数の旗本家が分立した。

 

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(7)長沢松平家

 松平信光の八男(あるいは九男)とされる親清を祖とする。三河国宝飯郡長沢(現・愛知県豊川市長沢町)を拠点とした。家康の時代に直系の当主が絶えたため、家康の六男 忠輝が名跡を継いで家名を存続させた。しかし、のちに忠輝が改易されたため長沢松平家の本流は断絶した。なお、この一族から分かれた複数の旗本家は明治まで存続した。

 

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3. 松平親忠系の分家

(1)大給松平家

 松平親忠の次男 乗元を祖とする。三河国加茂郡大給(現・愛知県豊田市大給町)を拠点とした。1590年の家康の関東移封にともない、家乗が上野国那波 一万石を領し、その後は加増と転封を繰り返し、1764年に三河国西尾藩 六万石を領して定着した。この宗家からは乗寿、乗邑、乗寛、乗全ら多くの老中を輩出した。

 

○傍流(岩村藩): 乗寿の次男 乗政の系統は、加増と転封を経て美濃国岩村藩三万石を領して定着した。

 

○傍流(奥殿藩・田野口藩): 真乗の次男である真次の子孫は三河国奥殿 一万六千石を領した。幕末の当主 乗謨(のちの大給恒)は陸軍総裁や老中を歴任し、幕末に信濃国田野口(のちの竜岡藩)に陣屋を移した。

 

○傍流(府内藩): 乗元の孫の代に分かれた「親清流」の系統。はじめは大給宗家の家臣であったが、1590年の家康の関東移封にともない、近正が幕府の御家人(直臣)となって上野国三ノ倉 五千五百石を領した。その子 一生が大名に昇格。加増と転封を繰り返し、1658年に豊後国府内藩 二万二千二百石を領して定着した。この他にも大給松平家からは多くの旗本家が分立した。

 

【嫡流】

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【親清流】

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4. 松平長親系の分家

(1)福釜松平家

 松平長親 二男 親盛を始祖とし、三河国碧海郡福釜(愛知県安城市)を拠点とした。家康の 松平長親の次男 親盛を祖とする。三河国碧海郡福釜(現・愛知県安城市福釜町)を拠点とした。1590年の家康の関東移封にともない、康親が下総国内で領地を与えられ、関ヶ原の戦い後に旧領へ復帰。その子 康盛の代に千百石に加増されたが、後継の康永が幼少で没したため嗣子なく無嗣断絶となった。ただし、別家として数家の旗本家が残った。

 

(2)桜井松平家

 松平長親の三男 信定を祖とする。三河国碧海郡桜井(現・愛知県安城市桜井町)を拠点とした。始祖の信定は宗家の家督を激しく狙い、家康の父 広忠の代まで宗家最大のライバル(敵対勢力)として立ち塞がった。のちに家次の代に家康に臣従。1590年の家康の関東移封にともない、家広が武蔵国松山 一万石を領し、その後は加増と転封を繰り返し、1711年に摂津国尼崎藩 四万石を領して定着した。

 

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(3)東条松平家

 松平長親の四男 義春を祖とする。その子 家忠が三河国東条城主となったことから東条松平と呼ばれた。1581年に家忠が嗣子なく没したため、徳川家康の四男 松平忠吉がその名跡を継承した。1592年に武蔵国忍藩 十万石を与えられ、関ヶ原の戦いでの戦功により尾張国清洲藩 五十七万石余の大領を得たが、忠吉が嗣子なく没したため無嗣断絶となった。

 

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(4)藤井松平家

 松平長親の五男 利長を祖とする。三河国碧海郡藤井(愛知県安城市)を拠点とした。二代信一は信長の上洛のときに徳川の援軍の首将として軍功を挙げた。養子の信吉は家康の異父妹多劫君の子。家康の関東移封の際に下総布川で五千石を与えられ、関ヶ原の戦い後に常陸土浦で三万五千石を与えられた。宗家は忠之の狂気により改易されたが、その弟信通の系統が出羽上山に定着した。また、信吉の二男忠晴の系統は信濃上田五万八千石に定着した。

 

 松平長親の五男 利長を祖とする。三河国碧海郡藤井(現・愛知県安城市藤井町)を拠点とした。二代 信一は織田信長の上洛の際、徳川軍の援軍の将として目覚ましい軍功を挙げた。養子の信吉は、家康の異父妹である多劫姫の子である。1590年の家康の関東移封にともない下総国布川 五千石を与えられ、関ヶ原の戦い後に常陸国土浦藩 三万五千石の大名となった。

 

○宗家(上山藩): 宗家はのちに当主 忠之の乱心(狂気)を理由に改易処分となったが、その弟 信通の系統が出羽国上山藩 三万石を領して定着した。

 

○傍流(上田藩): 信吉の次男 忠晴の系統は、加増と転封を経て信濃国上田藩五万八千石を領して定着した。

 

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5. 松平信忠系の分家

(1)三木松平家

 松平信忠の次男 信孝を祖とする。三河国碧海郡三木(現・愛知県岡崎市上三ツ木町)を拠点とした。兄 松平清康の不慮の死(森山崩れ)の後、幼少の甥 広忠(家康の父)の岡崎城復帰に尽力し、その後見役を務めた。しかしのちに広忠と対立して追放される。その子 重忠は家康に忠実に仕えたが、孫の忠清が嗣子なく没したため無嗣断絶となった。のちに弟の忠利が別家として取り立てられ、五百石の旗本として血統を残した。また、この家からさらに一心の分家が分立している。

 

6. その他松平家

 出自(系譜)に諸説ある松平一族。

(1)滝脇松平家

 初代 乗清は、松平親忠の九男とも、大給松平家 乗元の庶子とも伝えられる。この直系子孫は六百石の旗本となった。また、この家からさらに分家が一家分立している。

 

○伝系不詳(旗本流): 確実な系譜は不明ながら、家伝で滝脇系を称した松平政次の系統は、千五百石の旗本となった。

 

○伝系不詳(小島藩): 同じく系譜不詳ながら家伝で滝脇系を称した松平正勝の子孫は、1689年に諸侯(大名)に列し、駿河国小島藩 一万石を立藩して明治に至った。

 

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(2)宮石松平家

 大給松平家から分立したと伝える一族。三河国額田郡宮石(現・愛知県岡崎市宮石町)を拠点とした。康次の代に家康に仕え、その孫 正成の代に二千石、その子 正勝の代に二千五百石の旗本となった。また、康次の四男である直次の系統も千四百石の旗本として幕府に仕えた。

 

参考文献:

 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社)

 名門・名家大辞典(東京堂出版)

 家康と松平一族(安城市歴史博物館)

 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

 日本史諸家系図人名事典(講談社)

 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)

 葵のふる里の歴史 中根 大・著(「松平の里」観光協会)

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。