探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

旗本瀬名氏

こんにちは、勘矢です。
今回は今川一族の瀬名氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 瀬名氏とは

 今川氏の支流で、駿河国庵原郡瀬名(静岡県静岡市)の発祥。九州探題をつとめた今川了俊の子孫で、一秀のときに瀬名に住んで瀬名を称し、代々今川氏に仕えました。
 今川氏の没落後、瀬名政勝は徳川家康に仕えて旗本となり、采地三百石を賜りました。子の清貞のときに二百石を加えられて五百石となりました。
 
 清貞の長男貞正は、甲府藩主の徳川綱重に附属され千七百石を知行しました。その後、貞正は隠居して二男の信秀が継ぎましたが、妻の父親らが罪になったことにより連座して閉門となりました。赦免がないまま没したため絶家となりました。
 しかし、貞正の長年の勤労を慰され、他家から養子を迎えて、隠居料として与えられていた三百俵をもって家を継がせる恩命がありました。養子となった貞隅は、廩米をあらためて加増もあって采地五百石を知行しました。
 また、貞正の三男から始まる廩米三百俵の分家がありました。
 
 政勝の弟貞国は二百石を賜り、孫の義行のときに故ありて切腹となり絶家。貞国の二男広国から始まる廩米二百五十俵の分家がありました。
 

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瀬名氏略系図(1)
 
 

2. 旗本瀬名家

(1)旗本:瀬名源太郎家

(寛政年間までの当主)
初代 瀬名 政勝(まさかつ)【1566~1616】
 瀬名氏明の長男、母は今川氏真の家臣 葛山氏元の娘。
 1600年(35)に関ヶ原の戦いに供奉し、のちに大番となりました。享年51。
 
二代 瀬名 清貞(きよさだ)【?~1674】
 瀬名政勝の長男、母は小出氏。
 1600年の関ヶ原の戦いに供奉し、1616年に相続しました。そののち大番となり、1633年に下野国内で二百石を賜りましたが、のちに采地を廩米にあらためられました。1671年に切手御門番の頭に転じました。
 妻は旗本 松田貞平(定平)の娘。
 
瀬名 吉久(よしひさ)
 瀬名政勝の二男。小十人、御納戸の番士をつとめ、1648年に上野館林藩徳川綱吉に附属となり、小納戸をつとめました。1651年に隊下の同心が罪を被ったときに連座して改易となりました。
 
瀬名 氏貞(うじさだ) 【1640~1659】
 瀬名清貞の二男。父に先立って没しました。享年20。
 
瀬名 氏国(うじくに)【1645~1667】
 瀬名清貞の三男。父に先立って没しました。享年23。
 
三代 瀬名 弌明(かずあき)【1648~1732】
 瀬名清貞の四男。
 1674年に27歳で相続し、小普請となりました。1676年(29)に大番に列しました。1697年(50)に廩米をあらため、下総国内で采地を賜りました。1700年(53)に大坂の御鉄砲奉行に移り、1711年(64)に務めを辞しました。享年85。
 妻は旗本 有馬則故の養女(則故の弟 水野勝政の娘)。
 
瀬名 氏明(うじあき)【1667~1715】
 旗本 土屋知義の二男。1709年(43)に大番に列しました。享年49。
 
四代 瀬名 俊光(としみつ)【1690~1759】
 旗本 久保辰房の三男、母は大島光長の娘。
 1732年に43歳で相続しました。1747年に58歳で隠居しました。享年70。
 妻は瀬名弌明の養女(瀬名氏明の娘)。
 
五代 瀬名 貞雄(さだお)【1716~1796】
 瀬名俊光の長男、母は瀬名弌明の養女。
 1747年に32歳で相続しました。翌年に大番となり、1782年(67)に番を辞しました。1789年(74)に奥御右筆組頭の格となり、岡田寒泉とともに「続藩翰譜」の編纂を担当しました。1796年(81)に老齢を理由に職を辞して寄合となりました。享年81。
 妻は一橋の侍女堀井の養女。
 
 国立国会図書館デジタルコレクションに、貞雄が編纂に関わった吉文字屋版切絵図の「東都番町図」、「永田町之絵図」があります。
 
東都番町図(1755年)
 
永田町絵図(1759年)
 
 
六代 瀬名 貞如(さだゆき)【1744~?】
 瀬名貞雄の長男、母は一橋の侍女堀井の養女。
 1764年(21)に大番となり、1766年(23)に御小納戸に進みました。1776年(33)の十代将軍徳川家治の日光山詣でに供奉しました。1787年(43)に御役御免となって寄合となりました。1796年に53歳で相続しました。
 妻は分家 瀬名貞栄の娘、後妻は奥絵師 狩野高信の娘(中橋狩野家)。
 
 貞如には弓術と絵画の才能があり流鏑馬興行で射手を勤めたり武芸上覧の騎射をつとめるなどして褒美を受けました。
 絵画では1796年に伊勢貞春が武器図説を編集する際にその挿画を担当するように命じられました。国立国会図書館デジタルコレクションに、武器図説1~12巻があります。
 
武器図説
 
 また、埼玉県横瀬町の町指定有形文化財(絵画)札所六番の紙本着色荻野堂縁起絵巻というのがあるそうで、そこに「天明元年(1781)辛丑初冬平塚平偽善書 瀬名源貞如畫」と款記されているそうです。貞如が描いたものと思われます。
 
 
 
 

(2)旗本:瀬名伝右衛門家

(寛政年間までの当主)
瀬名 貞正(さだまさ)【1624~1698】
 瀬名清貞の三男、母は黒川氏。
 1641年(18)に大番となり、1643年(20)に廩米二百俵を賜りました。
 1648年(25)に甲府藩主 徳川綱重に附属となって傅となり、のちに小姓組の番頭に転じました。しばしば加増されて千七百石を知行しました。そののち隠居し、隠居料として廩米三百俵を賜りました。子の信秀が没すると、養子の貞隅に隠居料を与えて家を継がせました。享年75。
 妻は旗本 溝口吉勝の娘。
 
瀬名 信秀(のぶひで)【?~?】
 瀬名貞正の二男、母は溝口吉勝の娘。
 家を相続するも、妻の父親らが罪になったことにより連座して閉門となりました。赦免がないまま没したため絶家となりました。
 妻は甲府藩の家臣 神部保平の娘。
 
初代 瀬名 貞隅(さだすみ)【1672~1727】
 旗本 西山昌春の五男、母は安藤忠次の娘。
 甲府藩邸において小姓組をつとめ、のち中奥の小姓を経て小姓組の組頭に転じました。そののち、貞正の隠居料三百俵を賜り、書院番の頭に進み、二百俵を加増されました。
 1704年(33)に甲府藩藩主 徳川綱豊(のち家宣)が将軍世子として西ノ丸に移るときに従い、西ノ丸焼火間番の組頭なりました。1706年(35)に廩米をあらためて、武蔵・上野国内に采地五百石を賜りました。翌年、西ノ丸桐間番の組頭に移りました。1713年(42)に寄合に列し、1719年(48)に小十人の頭となりました。享年56。
妻は旗本 芝山正重の娘、後妻は甲府藩の家臣 太田盛任の娘。
 
二代 瀬名 義珍(よしはる)【1706~1761】
 瀬名貞隅の二男、母は甲府藩の家臣 太田盛任の娘。
 1727年(22)に御書院番の番士となり、同年に相続しました。翌年、八代将軍徳川吉宗が日光山に詣でるときに供奉しました。1746年(41)に仰せを受けて、島田和氏とともに東海道の諸国を巡見しました。1754年(49)に御徒の頭となり、1757年に御目付に移りました。享年56。
 妻は旗本 池田長俊の娘(離婚)、後妻は旗本 上田政方の娘(離婚)、旗本 三田守浄の養女(小倉正光の娘)、旗本 落合道富の娘(離婚)。
 
三代 瀬名 義正(よしまさ)【1728~1772】
 旗本 松平(大給)正輔の二男。
 1761年に34歳で相続し、小普請となりました。同年、御書院番の番士に列しました。享年45。
 妻は瀬名義珍の娘、後妻は御家人 川井信興の娘、後々妻は旗本 西山昌詮の娘。
 
四代 瀬名 貞刻(さだとき)【1759~?】
 瀬名義正の長男、母は瀬名義珍の娘。
 1772年に14歳で相続しました。翌年、御書院番の番士となりました。1776年(18)に十代将軍徳川家治の日光山詣でに供奉しました。1785年(27)に西ノ丸の御徒の頭となり、翌年本丸の勤仕となり、1796年(38)若君(徳川家慶)に附属となりました。
 妻は旗本 山中広亮の娘(離婚)、後妻は旗本 久留正次の養女(藤本氏の娘)。
 
瀬名 貞観(さだみ)【?~?】
 旗本 横田延松の四男、母は松平忠行の養女。
 妻は瀬名貞刻の娘。
 

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瀬名氏略系図(2)

(3)旗本:瀬名才次郎家

(寛政年間までの当主)
初代 瀬名 信次(のぶつぐ)【1658~1689】
 瀬名貞正の三男氏。
 1678年(21)に召されて御書院番となり、1680年(23)に廩米三百俵を賜りました。享年32。
 
二代 瀬名 氏庸(うじつね)【1678~1705】
 旗本 松田清貞の三男。
 1689年に12歳で相続し、小普請となりました。享年28。
 
三代 瀬名 貞栄(さだよし)【1691~1766】
 旗本 松田清貞の五男。
 兄の養子となり、1705年に15歳で相続しました。1718年(28)に御書院番に列し、1750年(60)に組頭となりました。1762年(72)に西ノ丸の御先弓の頭に転じました。享年76。
 妻は旗本 戸田直寿の娘、後妻は旗本 余語勝之の娘。
 
四代 瀬名 貞頭(さだとも)【1723~1780】
 旗本末高正峯の三男 政則の三男、母は森正慶の娘。
 1766年に44歳で相続しました。翌年、御小姓組の番士となりました。1776年(54)に徳川家治の日光山詣でに供奉しました。享年58。
 妻は瀬名貞栄の娘。
 
五代 瀬名 貞福(さだなか)【1751~1792】
 旗本 京極高庭の七男。
 1780年に30歳で相続しました。1782年(32)に御小姓組に列しました。享年42。
 妻は瀬名貞頭の娘、後妻は筧正敏の娘(離婚)。
 
六代 瀬名 貞宣(さだのぶ)【1772~?】
 旗本 大岡直賢の四男、母は大岡直往の養女。直賢は京極高庭の五男。
 叔父の養子となり、1792年に21歳で相続しました。
 妻は旗本 蜂屋可護の養女(本家 瀬名貞如の娘)。
 
 

(4)旗本:瀬名十右衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 今川 貞国(さだくに)【1576~1664】
 瀬名氏明の二男、母は今川氏真の家臣 葛山氏元の娘。
 1603年(28)に徳川家康にまみえて采地二百石を賜りました。大坂の両陣に従い、のちに大番となりました。享年89。
 
二代 瀬名 貞利(さだとし)【?~1676】
 瀬名貞国の長男。
 1664年に相続しました。1666年に今川を称していたのを瀬名に復しました。
 
三代 瀬名 義行(よしゆき)【?~1689】
 瀬名貞利の長男。
 某年に大番に列し、その後、御納戸番に転じました。1676年に相続しました。1681年に組頭にうつり、翌年に百俵を加えられました。1688年に御納戸の頭にすすみ、二百五十俵の加増がありました。翌1689年に不出仕や不作法などがあり、切腹となりました。
 その子吉十郎は1678年に大番となっていましたが、父に連座して弟十次郎と共に本堂玄親に召し預けられ、その後、死を命じられました。
 

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瀬名氏略系図(3)
 
 

(5)旗本:瀬名弥三郎家

(寛政年間までの当主)
初代 瀬名 広国(ひろくに)【1676~1675】
 今川貞国の二男。
 1650年に召されて西ノ丸の小十人となりました。月俸十口を賜り、1652年に廩米百俵を賜りました。
 
二代 瀬名 貞能(さだのり)【1662~1738】
 瀬名広国の長男。
 1675年に14歳で相続しました。1681年(20)に小十人となり、1686年(25)に御小納戸番に移りました。翌年に廩米百俵を加えられ月俸は収められました。1697年(36)に新番に転じ、五十俵を加えられ、合わせて二百五十俵となりました。享年77。
 
三代 瀬名 貞利(さだとし)【1714~1756】
 旗本 加藤光豊の二男、母は西尾長久の娘。
 1735年に22歳で相続しました。翌年に大番となり、1740年(27)に御納戸番に移り、1744年(31)に新番に転じました。享年43。
 妻は瀬名貞能の娘、後妻は旗本 日向成常の娘、後々妻は代官 布施胤條の娘。
 
四代 瀬名 貞明(さだあきら)【1738~1769】
 瀬名貞利の長男、母は瀬名貞能の娘。
 1756年に19歳で相続しました。1761年(24)に大番となりました。享年32。
 妻は旗本 井出正相の娘(離婚)、後妻は旗本 佐藤安信の娘。
 
五代 瀬名 貞正(さだまさ)【1752~?】
 旗本 八木直明の四男、母は木村清賢の養女。
 1769年に18歳で相続しました。1775年(24)に甲府勤番となり、甲府に移り住みました。
 妻は甲府勤番 権太成信の養女(甲府勤番 小栗信宝の娘)、後妻は甲府勤番 渡邊正順の娘。
 
※旗本各家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 家紋・旗本八万騎(秋田書店
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。