探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、藩や旗本などについて主に書いていきます。

高家旗本

こんにちは、勘矢です。

今回は高家旗本について調べたことをまとめました。

 

 

1. 旧族の子孫

(1)吉良家

 江戸時代の高家吉良家には二つの系統があります。足利一門の名門として有名な吉良義央(上野介)の本家は元禄赤穂事件で断絶しましたが、別系の「蒔田(まいた)吉良家」がその家号をつなぎました。この系統は、かつて奥州管領を務めた後に没落し、関東に住んで「蒔田」を称していました。徳川家康に召し出されて1657年に高家に列すると、本家断絶後の1710年に申請が認められ、再び「吉良」姓に復しました。

 

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(2)今川家

 高家今川家は、戦国大名として滅亡した今川氏真が徳川家康の庇護を受け、近江国内に五百石を与えられたことからはじまります。嫡孫の二代 直房の代に奥高家に列し、武蔵国内での加増を経て千石を知行しました。その後、三代 氏堯、四代 氏睦、五代 範高と他家や一族から度重なる末期養子を迎えて家系を維持。中盤以降は八代 義泰、九代 義彰、十代 義用、そして幕末の十二代 範叙まで歴代の多くが将軍に近侍する奥高家を務めました。範叙は幕末の1868年に若年寄を兼務するなど、かつての名門の格式を幕末まで保ち続けました。

 

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(3)品川家

 高家品川家は、今川氏真の二男高久が将軍家の命で「品川」に改名し、千石を与えられたことからはじまります。二代 高如、三代 伊氏が奥高家を務めましたが、四代 範増が2歳で早世し一度は断絶。しかし今川家の勲功によって叔父信方に三百石での再興が許され、表高家として存続しました。

 中盤以降は、前田家や竹中家、松平家などから相次いで養子を迎えて家系を繋ぎます。八代 氏維の逐電(行方不明)による出仕停止などの困窮を乗り越え、幕末には十一代 氏繁、十二代 氏恒が相次いで奥高家に列し、今川一門の格式を守り抜きました。

 

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(4)畠山家(管領家)

 高家畠山(河内畠山)家は、足利一門の名門・畠山政長の子孫です。中世に没落したのち、1624年に政信が徳川家康・秀忠らに召し出されて幕臣(摂津国内三百石)となり、高家として再興しました。二代 基玄は奥高家から側用人、御側衆を歴任し、最終的に五千石まで加増されて高家肝煎を務めるなど、一族の全盛期を築きます。以降も、歴代当主の多くが将軍に近侍する奥高家に列しました。

 

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(5)畠山家(能登守護)

 高家畠山(能登畠山)家は、室町幕府の守護大名・能登畠山氏の末裔です。戦国期に上杉謙信の侵攻で滅亡したのち、謙信の養子(上条上杉家)となっていた義春が徳川家康に仕えて旗本となり、畠山姓に復しました。三代 義里の代に奥高家に列し、のちに最高職の高家肝煎に就任。歴代当主の多くが奥高家として朝廷への御使などの重要な儀礼を担いました。中盤には米沢藩上杉家から義紀が婿養子に入るなど、かつて縁のあった上杉家との繋がりも深く、幕末の十代 義勇まで名門の格式を維持しました。

 

(6)上杉家

 高家上杉家は、能登畠山氏の血筋を引く上杉長員が徳川家康に仕えて旗本となった(下総・常陸国内で千四百九十石余)のが始まりです。三代 長貞の代に奥高家となりましたが、長貞は朝廷からの宣旨を紛失した責任を取って自刃しました。その後、四代 長之、五代 長宗が奥高家を務めるも夭折や早世が続き、中盤以降は畠山家や伊達家などから度重なる養子を迎えて家系を維持しました。九代 義寿の代に奥高家に復帰したのちは、幕末の十五代 義順まで表高家などとして名門の血統を繋ぎました。

 

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(7)宮原家

 高家宮原家は、古河公方の血筋を引く足利晴直を祖とし、初代義照の代に宮原を称して下野国内で千四十石を賜りました。二代 義久の代に高家となり、武田勝頼の娘を妻に迎えたことで、それ以降の当主は武田家の血脈も受け継ぐことになります。しかし幕末の十代 義直の代には、せっかく迎えた養子が次々と早世する事態に見舞われます。そのため、祖母の生家である佐土原藩島津家から義敬、一族の喜連川家や毛利家を介して熊本新田藩細川家から義以、さらに宇土細川家の縁から旗本岡部家の義路と、縁戚関係を必死に手繰り寄せて遠縁から養子を迎えました。

 

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(8)京極家

 高家京極家は、丹後宮津藩主を務めながらも改易された大名・京極高国の系統です。一族は他藩へのお預け処分を経て赦免され、1690年に長男高規が召し出されたことで高家として再興。安房国内で千五百石を知行しました。初代 高規や三代 高本は将軍に近侍する奥高家に列し、中盤には他家からの養子や幼少での家督相続が続きながらも、幕末の七代 高福まで名門の格式を繋ぎました。

 

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(9)土岐家

 高家土岐家は、美濃守護 土岐頼芸の息子たちから始まる2つの家系があります。

1つ目の土岐兵庫家は、二男 頼次が徳川家康に仕えたのち、子の頼勝の代に高家に列しました。四代 頼晴が奥高家を務めましたが、五代 頼泰の代に罪を得て改易(大名預け)となり、本家は断絶しました。

 

2つ目の土岐滽之助家は、四男 頼元から始まります。四代 頼元(大膳)の代に表高家に列しました。のちに七代 頼方が高家職へ就任、将軍の御使として度々上洛するなどして幕末まで名門の格式を繋ぎました。

 

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(10)大友家

 高家大友家は、豊後を本拠とした守護大名大友氏の末裔です。江戸初期に一度は改易されたものの、1657年に宗麟の孫・佐子の局らの尽力により家名が再興されました。

江戸時代には幕府の儀礼を司る「高家(こうけ)」の家柄となり、歴代当主は将軍に近侍する奥高家(おくこうけ)を多く輩出。四代義珍は最高職である高家肝煎を務めるなど、幕末まで名門の血統を繋ぎました。

 

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(11)大沢家(遠江堀江)

 高家大沢家(堀江大沢氏)は藤原北家持明院流の血筋で、南北朝期に遠江国に移り地名に因んで大沢を称しました。戦国期の基胤が徳川家康に仕え、その子基宿は1603年の家康の将軍宣下時に諸公家との交渉役を命じられ、高家の元祖となりました。代々加増を重ね、遠江国内で三千五百五十石を知行します。

 しかし、明治維新時の当主基寿は、浜名湖の埋立予定地を含めて一万石余と領地を詐称し「堀江藩」を立藩。一度は華族となるも、1872年の再調査で詐称が発覚し、士族降格のうえ禁固刑に処されました。

 

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(12)織田家

 高家織田家は、いずれも織田信長の血脈を引く3つの家系から成り立っています。

 1つ目の織田謙之助家は、信長の次男 信雄の系統です。その孫にあたる大和松山藩主の三男 長政から始まり、三代 信栄や七代 信愛が将軍に近侍する奥高家を務めました。

 

 2つ目の織田大膳家は、信長の七男 信高を祖とします。五代 信倉が最高職の高家肝煎を務めたほか、六代 信直や八代 長裕が奥高家として幕府の儀礼を支えました。

 

3つ目の織田主計頭家は、信長の九男 信貞から始まる家系です。二代 貞置をはじめ歴代の多くが奥高家に列し、七代 信由と八代 信順の2名が高家肝煎に就任するなど、3家の中でも特に重用され、名門の格式を幕末まで伝えました。

 

(13)武田家

 高家武田家は、戦国大名として滅亡した甲斐守護 武田氏の末裔です。武田勝頼の代で宗家は途絶えましたが、一族の武田信興が五代将軍 徳川綱吉の時代に召し出され、高家として家名を再興しました。

 格式を重んじる高家として、三代 信明、五代 信典、六代 信之、七代 崇信が将軍に近侍する奥高家を務め、そのうち信典と信之は最高職である高家肝煎に就任して幕府の儀礼を統括しました。

 血統の面では、三代 信明と六代 信之が側用人 柳沢吉保の子孫、五代 信典が水戸藩支藩の松平家出身、七代 崇信がその信典の実子であるなど、有力な譜代大名や親藩から養子を迎えることで、武田の誇り高い家格を幕末まで維持しました。

 

(14)由良家・横瀬家

 高家由良家は、清和源氏新田流です。かつては上野国金山城を拠点とした国人(領主)でしたが、戦国期に北条氏へ降伏し、豊臣秀吉の小田原征伐後に常陸国へ移され、江戸時代に旗本・高家となりました。

 本家は、二代 貞房をはじめ歴代の多くが将軍に近侍する奥高家を務め、五 代貞整と九代 貞靖の2名が最高職の高家肝煎に就任して幕府の儀礼を統括しました。

 また、二代 貞房の次男 貞顕からはじまる分家は「横瀬」を称しました。この横瀬家も本家に劣らぬ活躍を見せ、初代 貞顕をはじめ歴代の多くが奥高家に列し、七代 貞征と八代 貞固が連続して高家肝煎を務めるなど、本家・分家が揃って幕府の重要儀礼を代々支え続けました。

 

 

2. 公家の出身

(1)戸田家

 高家戸田家は、公家の六条有純の子 氏豊(母は大垣藩戸田家の血筋)が幕府に召し出され、1650年に高家に列したのが始まりです。二代 氏興の代に二千石へ加増され、最高職である高家肝煎に就任。五代 氏朋や六代 氏倚も肝煎を務め、天皇即位や将軍の官位昇進に伴う朝廷への御使、日光山への代参など、幕府の重要儀礼で中核を担いました。中盤以降は内藤家や土屋家から養子を迎えつつ格式を維持し、幕末の九代 氏貞までその地位を全うしました。

 

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(2)六角家

 高家六角家は、公家烏丸光広の二男広賢が京都から日光山へ随従したことを契機に東下し、子の広治の代に高家(下野国内 千石)に列したのが始まりです。三代 広豊の代には武蔵・上野国内で二千石まで加増されましたが、その後は嗣子に恵まれず、日野家や大沢家などから度重なる養子を迎えて家系を繋ぎました。

 六代 広孝は、天皇即位や大嘗祭、徳川家斉の将軍宣下などの重要儀礼で度々上洛して御使を務め、1775年には最高職の高家肝煎に就任して活躍しました。しかし、広孝以降も養子入りが続き、世子 広胖が寺社関係の手続きにおける不手際(勤柄不束)を理由に御役御免の処分を受けています。

 八代 広泰の代には、知行地である下野国小中村の財政改革に尽力した田中富蔵・正造親子と関わりを持ちます。正造はのちに名主となりますが、江戸屋敷の普請計画と先納金を巡って六角家側と対立し、1868年に名主を免じられて投獄されました。この田中正造は、のちに足尾銅山鉱毒事件の直訴で知られる人物です。その後、九代 広運の代に明治新政府へ帰順して朝臣となりました。

 

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(3)前田家(押小路流)

 高家前田家(押小路流)は、公家押小路氏の血筋を引く玄長が1702年に徳川綱吉に召し出され、縁のある「前田」を称したのが始まりです。相次ぐ加増で千四百石を知行し、1709年に高家となりました。

 初代 玄長と二代 房長は最高職の高家肝煎を務め、歴代の多くが奥高家として幕府に重用されました。維新時の長礼は朝廷に帰順して朝臣となり、のちに士族に編入されています。

 

(4)前田家(高辻流)

 二つ目の高家前田家(高辻流)は、公家高辻氏の血筋を引く長泰が1707年に徳川綱吉に召し出されたことからはじまります。1709年に高家となり、加増を重ねて武蔵・遠江国内で千石を知行しました。

 初代長泰と二代長敦は最高職の高家肝煎を務め、三代長禧や七代長猷も将軍に近侍する奥高家に列するなど、一つ目の前田家と同様に幕府の重要な儀礼を代々支えました。

 

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(5)大沢家(持明院流)

 高家大沢家(持明院流)は、公家持明院氏の血筋を引く基貫が1699年に徳川綱吉に召し出され、「大沢」を称して別家を起こしたのが始まりです。1709年に高家となり、武蔵国内で六百石を知行しました。初代 基貫に跡継ぎがなかったため、実弟の基清が家督を相続。その後、四代 基季の代に最高職である高家肝煎を務めるなど、公家出身の高家として幕府の儀礼を支えました。

 

(6)長沢家

 高家長沢家は、公家外山氏の血筋を引く資親が1699年に徳川綱吉に召し出されたことからはじまります。相次ぐ加増で千四百石を知行し、1709年に高家となりました。初代 資親は、朝鮮通信使の饗応や将軍の日光社参への供奉など重要な儀礼に従事。1729年には最高職の高家肝煎に就任し、徳川吉宗の右大臣転任を謝す朝廷への使者(会津藩主・松平容貞)に伴って上洛するなど活躍しました。

 

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(7)中条家

 高家中条家は、公家樋口氏の血筋を引く信慶が御家人となり、母方の姓を称したのが始まりです。二代信実の代に高家となりました。

 その後、四代信復が米沢藩主・上杉鷹山の弟である信義を養子に迎えたほか、六代、八代と他藩の藩主家から遠縁の養子を迎えて存続しました。幕末の七代信礼は、最高職の高家肝煎を務めただけでなく、国学者としても活躍し『和魂邇教』を著しました。

 

(8)日野家

 高家日野家は、公家の日野輝資が1613年に徳川家康に仕え、近江国内に知行を賜ったことからはじまります。二代 資栄の代に表高家となり、のちに奥高家へ昇格、常陸国内での加増を経て千五百三十石余を知行しました。以降、三代 資成、五代 資陽、七代 資施、九代 資敬と歴代の多くが将軍に近侍する奥高家を務め、公家名門の血統と高い格式を江戸時代を通じて維持しました。

 

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(9)有馬家

 高家有馬家は公家久我氏の系統で、当初は堀川を称しました。1716年に高家となり、初代広益と二代広之は最高職の高家肝煎を務めます。1778年、先祖を同じくする久留米藩主にちなみ有馬へ改姓。その後は嗣子が続かず、松平家などから養子を迎えて存続しました。維新時の広泰は朝廷に帰順し中大夫席を与えられています。

 

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参考文献:

 日本史諸家系図人名事典(講談社)

 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版)

 名門・名家大辞典(東京堂出版)

 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。