こんにちは、勘矢です。
今回は松江藩分家の広瀬藩と母里藩松平家について調べたことをまとめました。
1. 出雲広瀬藩松平家
(1)広瀬藩主(前期)
松江藩主松平直政の二男近栄ははじめ叔父で明石藩主松平直良の婿養子となったが、直良に庶子直明が生まれたので実家に戻り、1666年に兄綱隆が松江藩相続時に出雲国内で三万石を分与され、能義郡広瀬に陣屋を構えた。
1682年に越後騒動に絡み閉門となり、半知を召し上げられた。1686年に五千石、1694年に一万石を加増されて三万石に復した。広瀬藩は松江藩の方針に従って藩政が行われた。
二代近時は父の隠居により家督相続したが、わずか半年で没した。三代近朝は1705年に利根川・荒川の普請助役をつとめ、1709年に仙洞及び東宮使の饗応役をつとめた。近朝の三男長孝は松江藩主宣維の養子となり、さらに一族松平長熈の養子となり津山藩主となった。他に嗣子がないため弟近明が養子となって相続した。近明の代に蝗害による大飢饉が起こり財政が窮乏した。六代近貞は兄で五代近輝の養子となり家督相続した。
初代 松平 近栄(ちかよし)【1632~1717】
松平直政の二男、母は松平忠良の娘。享年86。
在職期間:1666年(35)~1702年(71)隠居
二代 松平 近時(ちかとき)【1659~1702】
松平近栄の長男、母は松平直良の娘。享年44。
在職期間:1702年(44)~1702年(44)
三代 松平 近朝(ちかとも)【1681~1728】
松平近時の長男、母は松平綱隆の二女豊姫。享年48。
在職期間:1702年(22)~1728年(48)
四代 松平 近明(ちかあきら)【1702~1755】
松平近時の四男、母は側室 大竹氏。享年54。
在職期間:1728年(27)~1749年(48)隠居
五代 松平 近輝(ちかてる)【1730~1757】
松平近明の長男、母は側室 柳田氏。享年28。
在職期間:1749年(20)~1757年(28)
正室は美濃加納藩主 永井直陳の娘 久姫(離婚)。継室は越前丸岡藩主 有馬一準の娘 安姫。
六代 松平 近貞(ちかさだ)【1733~1785】
松平近明の三男、母は側室 柳田氏。享年53。
在職期間:1757年(25)~1773年(41)隠居
(2)広瀬藩主(後期)
七代直義は一族の津山藩から養子となって家督相続した。宗家の松平不昧の門人となり、また米沢藩主上杉鷹山と親交があった。八代直寛は六代近貞が隠居してから生まれた子で、直義の養子となり家督相続した。譜代衆取締りを命ぜられ、懈怠なくつとめたことから1850年に城主格に列せられた。
広瀬藩は江戸定府であったが、九代直諒は参勤交代を行った。十代直巳は兄の養子となって家督相続した。幕末の動乱期は宗家の松平定安と行動を共にした。1869年に版籍奉還して広瀬藩知事に任ぜられ、1871年に廃藩置県を迎えた。
七代 松平 直義(なおよし)【1754~1803】
美作津山藩主 松平長孝の二男、母は藤堂高豊の妹。享年50。
在職期間:1773年(20)~1803年(50)
八代 松平 直寛(なおひろ)【1783~1850】
松平近貞の長男、母は側室 佐野氏。享年68。
在職期間:1803年(21)~1850年(68)
正室は加賀大聖寺藩主 前田利物の娘。継室は日向延岡藩主 内藤政韶の娘 保姫。
九代 松平 直諒(なおよし)【1817~1861】
松平直寛の長男、母は内藤政韶の娘。享年45。
継室は丹波篠山藩主 青山忠良の娘 銑姫。
十代 松平 直巳(なおおき)【1832~1917】
松平直寛の十一男、母は側室 安達氏。享年86。
在職期間:1861年(30)~1871年(40)1869年より知藩事
正室は信濃岩村田藩主 内藤正誠姉 幸姫。継室は大河内信順の娘 愛姫。継々室は吉田良熙の娘 錦姫。
2. 出雲母里藩松平家
(1)母里藩の立藩
松江藩主松平直政の三男隆政は、兄綱隆が松江藩相続時に出雲国内で一万石を分与された。1673年に嗣子なく所領は返還されたが、綱隆が幕府に願い出て末弟直丘への分知が認められて再立藩した。直丘は大番頭、奏者番などをつとめた。
初代 松平 隆政(たかまさ)【1648~1673】
松平直政の三男、母は側室 長谷川氏。享年26。
在職期間:1666年(19)~1673年(26)
二代 松平 直丘(なおたか)【1665~1712】
松平直政の四男、母は側室 篠塚氏。享年48。
在職期間:1673年(9)~1712年(48)
正室は肥後熊本新田藩主 細川利重の養女(肥後熊本藩主 細川綱利の娘)。
継室は常陸額田藩主 松平頼元の娘 長姫。
(2)新庄家からの養子
直丘には世子がなく、ほかの越前松平一門に跡継ぎに迎えられるような男子がなかったためか、常陸麻生藩新庄直詮の六男直員を養子に迎えた。直詮の正室は豊後杵築藩主能見松平重栄の娘で、重栄の曾祖母福姫は徳川家康の長男信康の娘にあたり、直丘の父直政とは従姉弟にあたる。そのような縁からか直員は母里松平家に養子に入り直丘の養女と婚約をしたが、結婚には至らなかった。
四代直員は驕奢淫逸と評され暗君であったが、約半世紀も在任したのち隠居して長男直道に家督を譲った。直道には世子がなく、隠居の父直員は二男直行に継がそうとしたが、直道は家臣に下げ渡した愛妾が産んだ子を後継にしようと画策した母里騒動が起きた。最終的に松江藩が介入し、直道は弟直行を養子にしたのち隠居した。
三代 松平 直員(なおかず)【1695~1770】
常陸麻生藩主 新庄直詮の六男、母は側室 小牧氏。享年76。
在職期間:1713年(19)~1765年(71)隠居
正室は松平直丘の養女 輝姫(広瀬藩主松平近朝の娘、婚約のみ)。
四代 松平 直道(なおみち)【1724~1776】
松平直員の長男、母は側室 嶋氏。享年53。
在職期間:1765年(42)~1767年(44)隠居
正室は出羽久保田新田藩主 佐竹義道の娘。
継室は豊後佐伯藩世子 毛利高通の娘。
五代 松平 直行(なおゆき)【1754~1829】
松平直員の二男、母は側室 草深氏。享年76。
在職期間:1767年(14)~1792年(39)隠居
正室は近江水口藩主 加藤明熙の娘。
継室は越後村上藩主 内藤信興の娘。
(3)越前系松平氏の血筋に戻る
五代直行は男子がなく、播磨明石藩主松平直泰の三男直暠を婿養子に迎えたが、4年で没した。七代直方は異母兄直暠の養子となって家督相続し、五代直行の娘を正室に迎えた。八代直興は藩政改革を行って藩財政を改善させた。田川鳳朗に俳諧を学び、四山(しざん)と号した。また、道具名器の蒐集にも力を入れた。
九代直温は一族の津山松平家からの婿養子となって家督相続した。十代直哉はわずか9歳で家督相続し、1864年の第一次長州征討の際に母里藩主ではじめて藩領に入った。1869年に版籍奉還して母里藩知事に任ぜられ、1871年に廃藩置県を迎えた。
六代 松平 直暠(なおきよ)【1776~1796】
播磨明石藩主 松平直泰の三男。享年21。
在職期間:1792年(17)~1796年(21)
七代 松平 直方(なおかた)【1779~1842】
播磨明石藩主 松平直泰の五男、母は丹羽長貴妹。享年64。
在職期間:1796年(18)~1817年(39)隠居
継室は上野高崎藩主 松平輝和の娘。
八代 松平 直興(なおおき)【1800~1854】
在職期間:1817年(18)~1843年(44)隠居
九代 松平 直温(なおより)【1830~1856】
美作津山藩主 松平斉孝の五男、母は側室 中西氏。享年27。
在職期間:1843年(14)~1856年(27)
正室は松平直興の娘。
十代 松平 直哉(なおとし)【1848~1897】
松平直温の長男、母は側室 吉村氏。享年50。
在職期間:1856年(9)~1871年(24)1869年より知藩事
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
徳川一族大全(廣済堂出版)
徳川諸家系譜 第四(続群書類従完成会)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。