こんにちは、勘矢です。
能見松平家について調べたことをまとめました。
1. 能見松平家
松平信光の八男光親が三河国額田郡能見(愛知県岡崎市)に住んだことからはじまる。一説には松平家との婚姻関係で松平を称したともいう。代々安城松平宗家に仕えた。二代重親の子玄鐵は阿知和を称し、その娘は徳川四天王本多忠勝の妻となった。三代重吉は清康・広忠に仕え、家康の初陣に加わり戦功を挙げた。その長男重利は1560年に討死したため、家督はその弟重勝が継いだ。
重勝は徳川家康に仕え、長篠の戦いや小牧長久手の戦いで戦功を挙げた。関ヶ原の戦い後に松平忠輝の付家老として越後三条で二万石となるが、忠輝が改易されると召し返されて幕臣となり、1617年に下総関宿二万六千石となった。以降転封を繰り返し、1645年に豊後杵築に移ってからは幕末までここに定着した。
また、光親の二男親友の子孫は鈴木姓を名乗り、重吉の三男十平の子孫は小沢姓を名乗った。
松平 光親(みつちか)【?~1536】
松平信光の八男。
松平重吉(しげよし)【1493~1580】
松平重親の二男。享年88。妻は松平親長の娘。
2. 豊後杵築藩主
(1)下総関宿から転封を重ね出羽上山へ
その子重忠は家督相続すると父と同じく駿府城代も兼務したが、まもなく一万四千石を加増されて出羽上山四万石となった。これは出羽山形の最上氏改易に伴うものである。山形に鳥居忠政が入ると、その周囲を鳥居氏と婚姻関係にあった大名が配置された。重忠は鳥居忠政の従弟にあたり上山、その他に忠政の義弟戸沢政盛が新庄、忠政の娘婿酒井忠勝が庄内に配置され、奥羽の抑えとなった。
初代 松平 重勝(しげかつ)【1549~1620】
松平重吉の四男、母は松平親長娘。享年72。
関宿藩主 藩主 在職期間:1617年(69)~1619年(71)
横須賀藩主 在職期間:1619年(71)~1620年(72)
二代 松平 重忠(しげただ)【1570~1626】
横須賀藩主 在職期間:1621年(52)
正室は徳川家家臣 戸田忠次の娘。
(2)摂津三田から転封を重ね豊後杵築藩へ
三代重直は将軍秀忠の命により重忠の婿養子となり、1626年に家督相続したが、一万石を減封されて摂津三田三万石となった。1632年に加増されて豊前竜王(大分県宇佐市)三万七千石となった。これは重直の実家小笠原家が豊前小倉に転封されたことによる。1637年の島原の乱に藩兵を率いて出陣した。1639年に豊後高田へ移った。
1642年、四代英親は家督相続時に弟重長に三千石、直政に二千石を分与したので三万二千石を領した。1645年に豊後木付へ移封となった。五代重栄は奏者番、寺社奉行をつとめた。六代重休に与えられた朱印状に「杵築」と誤記されていて、それを幕府に指摘できず木付から杵築に改名した。
三代 松平 重直(しげなお)【1601~1642】
三田藩主 在職期間:1626年(26)~1632年(32)
竜王藩主 在職期間:1632年(32)~1639年(39)
高田藩主 在職期間:1639年(39)~1642年(42)
正室は松平重忠の娘。
四代 松平 英親(ひでちか)【1625~1706】
松平重直の長男、母は松平重忠娘。享年82。
高田藩主 在職期間:1643年(19)~1645年(21)
杵築藩主 在職期間:1645年(21)~1692年(68)隠居
五代 松平 重栄(しげよし)【1646~1720】
松平英親の長男、母は松平(形原)康信娘。享年75。
在職期間:1692年(47)~1708年(63)隠居
六代 松平 重休(しげやす)【1691~1715】
松平重栄の子、母は側室 坪生氏。享年25。
在職期間:1708年(18)~1715年(25)
(3)江戸中期以降の杵築藩主
七代親純は五代重栄の外孫で、はじめ祖父の養子となっていた。六代重休の急死に伴い末期養子となり家督相続した。享保の飢饉により藩財政は悪化し、八代親盈の頃には大凶作が続発した。九代親貞は隠居して弟親賢が十代となった。親賢は三浦梅園から「丙午封事」を献策を受けた。十一代親明は叔父親賢の養子となって家督相続した。
十二代親良は寺社奉行をつとめ、長州征伐には豊後小倉へ出兵した。1867年に藩論を勤王に統一し、翌年世子親貴とともに上洛して新政府に恭順した。十三代親貴は1868年に父の隠居により家督相続すると新政府に従って会津へ出兵した。1869年に杵築藩知事に任ぜられ、1871年に廃藩置県を迎えた。
七代 松平 親純(ちかずみ)【1703~1739】
常陸麻生藩主 新庄直詮の十三男、母は松平重栄の娘。享年37。
在職期間:1715年(13)~1739年(37)
八代 松平 親盈(ちかみつ)【1726~1800】
松平親純の長男、母は側室 浅井氏。享年75。
在職期間:1739年(14)~1771年(46)隠居
九代 松平 親貞(ちかさだ)【1751~1799】
松平親盈の長男、母は永井直陳の娘。享年49。
在職期間:1771年(21)~1785年(35)隠居
正室は上総飯野藩主 保科正富の娘。
十代 松平 親賢(ちかかた)【1753~1802】
松平親盈の二男、母は永井直陳の娘。享年50。
在職期間:1785年(33)~1802年(50)
十一代 松平 親明(ちかあきら)【1785~1825】
松平親貞二男、母は側室 岸本氏。享年41。
在職期間:1802年(18)~1825年(41)
正室は下野宇都宮藩主 戸田忠翰の娘。
十二代 松平 親良(ちかよし)【1810~1891】
松平親明の子。享年82。
在職期間:1825年(16)~1868年(59)隠居
十三代 松平 親貴(ちかとお)【1838~1882】
松平親良の子、母は側室 松崎氏。享年45。
3. 杵築藩の分家
(1)下野皆川藩
松平重勝の三男重則は徳川秀忠に仕え、関ヶ原の戦いでは上田城攻めに従軍した。その後、兄重忠に従って伏見城番をつとめ、丹波篠山城築城にも携わり、大坂の両陣にも参戦した。1625年に大坂在番をつとめて、1630年に留守居役兼奏者番となり、1633年に四千石加増されて一万五百石となって諸侯に列し、上総百首藩(千葉県富津市)を立藩した。1640年に下野皆川(栃木県栃木市)に移った。孫の重利が早世したため無嗣断絶した。
初代 松平 重則(しげのり)【1580~1641】
百首藩主 在職期間:1633年(54)~1640年(61)
皆川藩主 在職期間:1640年(61)~1641年(62)
正室は屋代勝永の娘。
二代 松平 重正(しげまさ)【1623~1662】
松平重則の長男、母は屋代勝永娘。享年40。
在職期間:1642年(20)~1662年(40)
正室は相模甘縄藩主 松平(大河内)正綱の娘。
三代 松平 重利(しげとし)【1659~1665】
松平重正の長男、母は松平正綱娘。享年7。
在職期間:1662年(4)~1665年(7)
(2)上総佐貫藩
松平重勝の五男勝隆は1613年に徳川家康に仕えて五百石を与えられ、駿府において大番頭となった。1617年と1620年にそれぞれ三千石を加増され、1633年に兄重則とともに一万五百石に加増されて諸侯に列し、奏者番を兼任した。1635年に奏者番と寺社奉行を兼務し、1639年に加増されて上総佐貫(千葉県富津市)一万五千石となった。
勝隆には嫡子重隆がいたが早世し、次兄重長の長男勝広を養子とした。また、重長の娘を養女にし、高家品川高如に嫁いだ。1639年に勝広が多病により廃嫡となり、1652年に外孫にあたる品川高如の長男重治を養子とした。1662重治は養父勝隆の隠居により家督相続し、その後、弟勝制(勝広の子で勝隆の養子)に新墾田五百石を分与した。1670年に奏者番となり1678年より寺社奉行を兼任し、1681年に辞任した。1684年に不行跡により改易され、会津藩主保科正容に預けられた。
初代 松平 勝隆(かつたか)【1589~1666】
佐貫藩主になるまで:1633年(45)~1639年(51)
在職期間:1639年(51)~1662年(74)隠居
正室は九鬼守隆の娘。
松平 重隆(しげたか)【1609~1626】
松平勝隆の長男、母は山崎氏。父に先立ち没した。享年18。
松平 重長(しげなが)【1574~1615】
松平 勝広(かつひろ)【1614~1672】
松平重長の長男、母は毛利高政の娘。廃嫡。
二代 松平 重治(しげはる)【1642~1685】
高家品川高如の長男、母は松平勝隆養女。享年44。
在職期間:1662年(21)~1684年(43)除封(不正)
松平 重宗(しげむね)【1664~1681】
松平重治の長男、母は久世広之の娘。父に先立ち没した。享年18。
(3)旗本:松平伝三郎家
上総佐貫藩主松平重治が改易されたとき、嫡男重宗は早世していて、二男伊氏は外祖父品川高如の養子となっていた。三男勝秀と四男信方は連座して大和郡山藩主松平信之召し預けられ、1686年に罪を赦された。1690年に蔵米五百俵で旗本として再興し、1697年に蔵米を改められ、下総・下野国内で五百石を知行した。
勝秀の子勝豊は父に先立ち没したため、勝秀の次兄伊氏の孫で今川範主の二男勝文が養子となり家督相続した。
信方は叔父勝制の養子となるも病により兄勝秀のもとに帰り、1713年に次兄品川伊氏の子範増が早世すると品川家名跡を相続した。
(寛政年間までの当主)
初代 松平 勝秀(かつひで)【1677~1727】
松平重治の三男、母は久世広之の娘。
1690年(14歳)に旗本として再興。享年51。
二代 松平 勝文(かつぶん)【1719~1750】
今川範主の二男。
妻は旗本 牧野成純の娘。
三代 松平 勝興(かつおき)【1738~?】
松平勝文の長男、母は牧野成純の娘。
妻は旗本 本多昌忠の娘。
(4)旗本:松平大隅守家
松平勝制は松平勝広の長男として生まれたが、父は廃嫡となっていたため叔父重治の養弟となった。1666年に兄重治より新墾田五百石を分与され、御書院番をつとめた。1684年に重治が改易されると一時出仕を止められ、幕府から蔵米五百俵を与えられた。1697年に蔵米から知行に改められ、上野国内で五百石となった。
(寛政年間までの当主)
初代 松平 勝制(かつすけ)【1651~1737】
松平勝広の長男。1666年(16)に分家。1728年に78歳で隠居。享年87。
二代 松平 勝周(かつなり)【1695~1771】
杵築藩松平家家臣 今井勝房の三男。
妻は松平勝制の娘。後妻は水野勝彦の娘(離婚)。
松平 勝詮(かつあきら)【1724~1768】
松平勝周の長男。父に先立ち没した。妻は旗本 松波勝春の娘。
三代 松平 勝武(かつつぐ)【1749~?】
松平勝詮の長男、母は松波勝春の娘。
妻は旗本 朽木広綱の娘。後妻は旗本 野村勝供の娘。。
(5)旗本:松平内記家
初代 松平 重長(しげなが)【1628~1690】
松平重直の二男、母は松平重忠の娘。
1635年(8)に別家。御書院番。享年63。
妻は旗本 伊奈忠治の娘。
松平 重花(しげよし)【1650~1690】
松平重長の長男、母は伊奈忠治の娘。
御書院番。父に先立ち没した。享年41。
妻は和泉陶器藩主 小出有棟の娘。
二代 松平 勝芳(かつよし)【1682~1751】
松平重花の長男、母は小出有棟の娘。
三代 松平 勝房(かつふさ)【1704~1778】
松平勝芳の長男。
1751年に48歳で家督相続。。享年75。
妻は旗本 松平忠盈の娘。
松平 親章(ちかあきら)【1727~1772】
杵築藩主 松平親純の二男。
勝房の養子となるも父に先立ち没した。享年46。
妻は高家織田信栄の二女。後妻は信栄の五女
四代 松平 勝政(かつまさ)【1756~?】
松平親章の長男、母は織田信栄の二女。
妻は松平親盈の娘。
五代 松平 勝徳 【?~1821】
通称政之助、図書。1816年に御使番。
六代 松平 平八郎 【?~1828】
松平勝徳の子。1821年に家督相続。
七代 松平 勝敬 【?~1850】
杵築藩主松平親明の子。通称浪之助、内記。
八代 松平 勝政 【?~?】
松平 勝敬の子。通称浪之助。
九代 松平 図書 【?~?】
松平 勝敬の子。通称図書、貫一郎。
(6)旗本:松平直政家
松平重直の三男直政は1641年に召し出されて徳川家綱の御小姓をつとめ、1643年に父の遺領から豊後国内で二千石を分与されて別家した。1645年に領地は豊後国内に移された。三代武郷は不行跡により領地を没収され、陸奥三春藩秋田家に召し預けられた。
(寛政年間までの当主)
初代 松平 直政(なおまさ)【1631~1698】
松平重直の三男、母は松平重忠の娘。
1643年(13)に別家。奥の御小姓。享年68。
二代 松平 直堅(なおかた)【1672~1730】
松平直政の長男。
1698年に27歳で家督相続。1722年に51歳で隠居。享年59。
妻は尾張藩家老 竹腰正晴の娘。
三代 松平 武郷(たけさと)【?~?】
松平直堅の長男、母は尾張藩家老 竹腰正晴の娘。
妻は旗本 有馬純富の娘。
(7)旗本:松平甲之介家
(寛政年間までの当主)
初代 松平 正方(まさかた)【1632~1700】
松平重直の四男、母は松平重忠の娘。
1665年(34)に別家。御小姓組。享年69。
二代 松平 正芳(まさよし)【1675~1718】
三代 松平 正員(まさかず)【1712~1744】
松平正芳の長男。1718年にわずか7歳で家督相続。享年33。
四代 松平 矩武(のりたけ)【1715~1764】
一族松平勝芳の二男。
五代 松平 正紀(まさのり)【1740~1782】
旗本 久永勝純の二男。
妻は松平矩武の娘。
六代 松平 正融(まさあきら)【1762~1782】
松平親章の二男、母は織田信栄の娘。
妻は松平正紀の養女(石原清左衛門の娘)。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林)
最新版 角川新版 日本史辞典(角川学芸出版)
日本人名大辞典(講談社)
増補改訂版 日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本(中経出版)
家康と松平一族(安城市歴史博物館)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。