こんにちは、勘矢です。
今回は前回に続き能見松平家について調べたことをまとめました。
1. 旗本能見松平家
(1)旗本:松平次郎右衛門家
松平昌利は父重利が討死したのちに生まれ、はじめは清水を称した。高天神城の戦いや小田原の陣などに供奉し、関ヶ原の戦いでは秀忠に従い、戦後に伏見城番をつとめた。その子昌吉は大番組頭となり、大坂の陣に従った。1625年に相模・下総・上総国内で六百三十石余を与えられた。その後、数度の加増を経て千六百三十石余となった。
昌永のときに武蔵・上総・下総・相模国内で九百三十一石余を知行した。
三代昌重は1637年に大番をつとめて四百石を与えられた。1659年に家督相続時に五百石を弟昌忠に分け与えて千百三十石余となり、これまでの四百石はは父の隠居料となった。四代昌永は1661年に弟甫昌に相模国内で二百石を分与して九百三十石余を知行した。翌年甫昌は兄昌永の養子となって本家を相続した。
(寛政年間までの当主)
初代 松平 昌利(まさとし)【1561~1613】
松平重利の長男。享年53。妻は渥美友勝の娘。
二代 松平 昌吉(まさよし)【1592~1659】
松平昌利の長男、母は渥美友勝の娘。1659年に68歳で隠居した。享年68。
妻は旗本 山田重次の娘。
三代 松平 昌重(まさしげ)【1612~1661】
松平昌吉の長男、母は山田重次の娘。1659年に48歳で家督相続 。享年50。
妻は旗本 高木為信の娘。後妻は能勢頼次の娘(離縁)。
四代 松平 昌永(まさなが)【1636~1662】
松平昌重の二男、母は高木為信の娘。
1661年に26歳歳で家督相続。大番。享年27。
妻は旗本 山下昌勝の娘。
五代 松平 甫昌(やすまさ)【1658~1702】
松平昌重の三男。1661年にわずか4歳で別家し、1662年に5歳で本家の家督を相続。大番。享年45。
妻は旗本 太田資隆の娘(離縁)。
六代 松平 親喜(ちかよし)【1678~1748】
奥医 森容甫の二男、母は草河氏。
徳川綱吉の命により旗本松平(松井)康納の弟となり、甫昌の婿養子となった。
1702年25歳に家督相続した。大番。1738年に61歳で隠居。享年71。
妻は松平甫昌の娘。
七代 松平 光寛(みつひろ)【1702~1766】
松平親喜の長男、母は松平甫昌の娘。
1738年に37歳で家督相続。大番。享年65。
妻は代官長谷川忠国の養女(代官飯塚長隆の娘)。
八代 松平 親遂(ちかつぐ)【1728~1790】
松平光寛の長男、母は長谷川忠国の養女。
妻は旗本 新見正容の娘。後妻は旗本 長谷川正直の娘。
九代 松平 光福(みつよし)【1760~?】
松平親遂の長男、母は新見正容の娘。
妻は旗本 安西元維の娘。後妻は旗本 榊原忠庶の娘。
(2)旗本:松平十左衛門家
松平昌義の三男昌忠は1650年に召し出されて御小姓組となり、のちに蔵米三百俵を与えられた。1659年に父の遺領から下総国内で五百石を分与され、蔵米は収公された。二代昌太ははじめ妹の嫁ぎ先旗本小宮山家から昌斉を養子に迎えるが故あって実家に戻り、妻の実家より養子を迎えた。
(寛政年間までの当主)
初代 松平 昌忠(まさただ)【?~1696】
松平昌義の三男、母は山田重次の娘。
妻は旗本 田沢正義の娘。後妻は旗本 松野助友の娘。
二代 松平 昌太(まさふと)【1655~1720】
松平昌忠の長男、母は田沢正義の娘。
妻は越後高田藩松平(越前)家家臣 楠次右衛門の娘。
三代 松平 昌成(まさなり)【1694~1723】
妻は安芸広島藩浅野家家臣 桂善左衛門の娘。
四代 松平 昌信(まさのぶ)【1717~1771】
松平昌成の長男、母は桂善左衛門の娘。
五代 松平 昌豊(まさとよ)【1739~1777】
旗本 土屋亮直の四男。
妻は松平昌信の娘。後妻は旗本 筧正敏の娘。
六代 松平 昌戩(まさとも)【1761~?】
旗本 土屋易直の六男、母は上杉知義の娘。
妻は松平昌豊の娘。後妻は旗本 堀知秀の娘。
(3)旗本:松平千次郎家
(寛政年間までの当主)
初代 松平 照昌(てるまさ)【1634~1703】
松平昌吉の四男、母は山田重次の娘。享年70。
妻は一族松平昌信の娘。
二代 松平 光林(みつしげ)【1656~1727】
松平照昌の二男、母は松平昌信の娘。
妻は旗本 柘植宗正の娘。
松平 光吉(みつよし)【1684~1701】
松平光林の長男。父に先立ち没した。享年18。
松平 光忠(みつただ)【1688~1726】
松平光林の二男。御小姓組。父に先立ち没した。享年39。
三代 松平 光隣(みつちか)【1706~1787】
妻は旗本 伊丹雅次の娘(離婚)。
四代 松平 光明(みつあきら)【1744~1789】
松平光隣の二男、母は伊丹雅次の娘。
妻は旗本 犬塚弘胤の娘。
五代 松平 光信(みつのぶ)【1771~?】
妻は八木正長の娘。
(4)旗本:松平千橘家
松平昌利の二男昌舎は、はじめ徳川秀忠に仕え、その後徳川忠長に附属された。忠長の改易後は召し返され、大番となり、蔵米二百俵を与えられた。三代舎信は大番となり、1710年に組頭に進み、加増されて四百俵となった。
(寛政年間までの当主)
初代 松平 昌舎(まさいえ)【1594~1655】
松平昌利の二男、母は渥美友勝の娘。享年62。
二代 松平 舎治(いえはる)【1614~1662】
松平昌舎の長男。大番。享年49。
三代 松平 舎信(いえのぶ)【1644~1713】
松平舎治の長男。1662年に19歳で家督相続。享年70。
妻は旗本 都筑法重の娘。
四代 松平 義隆(よしたか)【1693~1733】
松平舎信の長男、母は都築法重の娘。1713年に21歳で家督相続。大番、新番。享年41。
妻は旗本 神谷久敬の娘。
五代 松平 昌相(まさすけ)【1716~1776】
松平義隆の長男、母は神谷久敬の娘。
1734年に19歳歳で家督相続し、1748年に33歳で隠居。享年61。
六代 松平 義問(よしとう)【1721~1765】
松平義隆の二男、母は神谷久敬の娘。
兄の養子となり、1748年に28歳で家督相続。西ノ丸の御納戸番。享年45。
妻は旗本 長谷川忠崇の娘(離婚)。
七代 松平 義真(よしざね)【1741~?】
神谷久武の四男、母は鈴木元政の娘。久武は四代義隆の妻の弟。
妻は松平義問の養女(田安家家臣 蜂谷清半の娘)。後妻は水本義照の娘。後々妻は旗本 雨宮忠昌の娘。
八代 松平 義栄(よしなが)【1774~?】
妻は備後福山藩阿部家家臣鹽田友賢の娘。
(5)旗本:松平新八郎家
(寛政年間までの当主)
初代 松平 昌信(まさのぶ)【1599~1665】
松平昌利の三男、母は渥美友勝の娘。享年67。
妻は大和郡山藩松平(奥平)家家臣 小原次郎兵衛の娘。
二代 松平 利正(としまさ)【1628~1698】
松平昌信の長男、母は小原次郎兵衛の娘。
1665年に38歳で家督相続。御小納戸、新番頭。享年71。
妻は小林氏の娘。
三代 松平 正辰(まさたつ)【1676~1722】
松平利正の長男、母は小林氏の娘。
妻は旗本 松平(宮石)正勝の娘。
四代 松平 正継(まさつぐ)【1699~1754】
旗本 筧正尹の三男、母は松平利正の娘。
妻は旗本 三好勝政の娘。この三好家近江浅井氏の一族。
五代 松平 正朝(まさとも)【1736~1772】
妻は旗本 窪田忠一の娘。
六代 松平 正名(まさな)【1756~?】
妻は旗本 川口尹緒の娘。
(6)旗本:松平藤五郎家
松平昌信の二男昌定は1667年に召し出されて大番となり、2年後に蔵米二百俵を与えられた。
(寛政年間までの当主)
初代 松平 昌定(まささだ)【1637~1706】
松平昌信の二男、母は小原次郎兵衛の娘。1699年に63歳歳で隠居。享年70。
二代 松平 光昌(みつまさ)【1677~1755】
松平昌定の二男。1699年に23歳で家督相続。大番。享年79。
妻は彦根藩井伊家家臣 中川郷右衛門の娘。
三代 松平 昌剛(まさのり)【1702~1777】
松平光昌の長男、母は中川郷右衛門の娘。1755年に54歳歳で家督相続。大番。享年76。
妻は旗本 久保正秀の娘。
松平 昌勝(まさかつ)【1727~1776】
松平昌剛の長男。父に先立ち没した。享年50。
四代 松平 昌広(まさひろ)【1751~?】
松平昌勝の長男。1777年に27歳で祖父の家督を相続。
妻は旗本 久保成勝の娘、成勝は先代昌剛の二男で昌剛の外孫。後妻は一橋家家臣大浜春殊の娘。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林)
日本人名大辞典(講談社)
増補改訂版 日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本(中経出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。