探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本 久松家

こんにちは、勘矢です。

今回は旗本久松家について調べたことをまとめました。

 

 

1. 久松氏

 久松氏は菅原道真の孫雅規(久松丸)が尾張国知多郡英比(愛知県知多郡阿久比町)に配流されたのが祖といい、室町時代の道定は尾張守護の斯波氏に仕えた際に久松を称した。

 戦国時代の俊勝は徳川家康の生母於大の方と再婚し、のちに家康に仕えた。家康が今川氏との関係を断ち、鵜殿長照が守備する西郡城を落とすとこれを与えられるが、岡崎城の留守を守るため西郡は康元に譲り、阿久比は庶長子定員が領した。定員は織田信長に仕えていたが、1577年に水野信元が武田氏へ内通の疑いを受けたときに連座となり、大坂にて自刃した。三男信平の子信綱は大叔父松平定勝に仕え、以降代々家臣として仕えた。

 

久松 俊勝(としかつ)【1526~1587】

 名ははじめ定俊、長家。後妻は水野忠政の娘 於大の方

 

久松 定員(さだかつ)【?~1577】

 久松俊勝の長男。妻は佐治対馬守の娘。

 

 

2. 旗本久松家

(1)旗本:久松銕太郎家

 久松俊勝の弟定重の子忠次ははじめ木藤を称し、1580年の高天神城攻めのときに家康に供奉し、水野忠重に属した。その後も各地で戦い、長久手の戦い後に久松に復した。1591年に武蔵国内で二百石を賜り、大番をつとめた。その子定佳は大坂の両陣に供奉し、1616年武蔵国内で三百石を賜り、その後父の知行地も併せて五百石となり、御留守居番などをつとめた。

 定延は1664年に蔵米二百俵を加えられ、その子定元のときに蔵米を改められ常陸国内で二百石を賜り、合わせて七百石となった。定元の婿養子定寛は初め一族の久松定與を養子に迎えたが先立たれ、次にその弟儀僚を養子に迎えたがこれにも先立たれた。三番目に迎えた養子定昌が跡を継ぎ、御書院番に列し、陸奥・出羽などを巡見した。

 

(寛政年間までの当主)

初代 久松 忠次(ただつぐ)【1553~1618】

 久松定重の長男。享年66。

 妻は小野田某の娘。

 

二代 久松 定佳(さだよし)【1586~1659】

 久松忠次の長男、母は小野田某の娘。享年74。

 妻は伊丹氏の娘。

 

三代 久松 定延(さだのぶ)【1623~1675】

 久松定佳の長男、母は伊丹氏の娘。

 1659年に37歳で家督相続。享年53。

 妻は旗本 稲生正信の娘。

 

四代 久松 定元(さだもと)【1658~1736】

 久松定延の長男、母は稲生正信の娘。

 1675年に18歳で家督相続。1723年に66歳で隠居。享年79。

 妻は旗本 水野守重の娘。

 

五代 久松 定寛(さだひろ)【1694~1775】

 一族久松定国の二男、母は織田有楽の家臣杉田某の娘。

 定元の婿養子となり、1723年に30歳で家督相続。1753年に60歳で隠居。享年82。

 妻は久松定元の娘。

 

六代 久松 定昌(さだまさ)【1729~1771】

 久松定郷の二男。

 1753年に25歳で家督相続。享年43。

 妻は旗本 久松定堅の娘。後妻は旗本 牧野成凞の娘。

 

七代 久松 定得(さだのり)【1757~?】

 久松定昌の長男、母は牧野成凞の娘。

 1771年に15歳で家督相続。

 妻は旗本 久松定愷の娘。後妻は旗本 藤方忠道の娘。

 

久松氏略系図 (1)



 

(2)旗本:久松大和守家

 久松定佳の二男定弘からはじまる。1659年に御書院番となり、1661年に蔵米三百俵を賜った。二代定持は定弘の婿養子となり、1696年に御腰物奉行の頭となって蔵米二百俵を加増され、翌年上野国内で五百石を賜った。1701年に御目付に転じ、1706年に相模国内で二百石を加増され、さらに1710年に武蔵国内で五百石を加増されて、合わせて千二百石を知行した。その後、作事奉行、勘定奉行をつとめた。

 三代定郷は御小姓組、御書院番などをつとめ、1740年に御先鉄砲頭となり、翌年に火附盗賊改加役をつとめた。1744年に大坂町奉行となり、同年に家督相続した。その後、作事奉行をつとめた。 

 四代定愷は御書院番、御使番をつとめ、1757年に御先弓頭となり、翌年に火附盗賊改加役をつとめた。その後、新番頭、駿府町奉行大目付などをつとめた。

 

(寛政年間までの当主)

初代 久松 定弘(さだひろ)【1628~1687】

 久松定佳の二男、母は伊丹氏。

 1661年に34歳で家督相続。享年60。

 妻は旗本 奥山安重の娘。

 

二代 久松 定持(さだもち)【1659~1745】

 小幡新十郎の四男。

 1744年に86歳で隠居。享年87。

 妻は久松定弘の娘。

 

三代 久松 定郷(さださと)【1687~1757】

 久松定持の長男、母は久松定弘の娘。

 1744年に58歳で家督相続。1753年に67歳で隠居。享年71。

 妻は旗本 小野忠於の娘。後妻は伏見宮属臣 若江長近の娘。

 

四代 久松 定愷(さだたか)【1719~1786】

 久松定郷の長男、母は小野忠於の娘。

 1753年に35歳で家督相続。享年68。

 妻は 旗本小笠原長之の娘。

 

松平 定静(さだきよ)【1743~1766】

 久松定愷の長男。父に先立ち没した。享年24。

 

五代 久松 定安(さだやす)【1753~?】

 旗本 大久保忠翰の二男、母は大久保往忠の娘。

 定愷の婿養子となり、1786年に34歳で家督相続。

 妻は久松定愷の娘。後妻は旗本 野一色義恭の養女(旗本 浅野長充の娘)。

 

(3)旗本:久松太郎左衛門家

 久松忠次の二男定次からはじまる。定次は徳川家康に近侍し、のちに蔵米二百俵を賜り、秀忠に仕えて大坂両陣に供奉した。二代定久は定次の長男で御鷹匠頭をつとめた。その子三代定矩も御鷹匠をつとめ、1661年に蔵米百俵を加えられ、御納戸番などをつとめ、2回の加増があり三百俵となった。1709年に月光院方の広敷番頭となった。

 四代定記は定矩の子で、大番をつとめた。五代定好は蜂屋正員の四男で婿養子となって相続し、大番をつとめた。六代定近は根岸直寿の二男で婿養子となって相続し、大番をつとめた。七代定賢は市野正致の二男で婿養子となって相続した。

 

(4)旗本:久松乙次郎家

 久松定次の二男定房からはじまる久松太郎左衛門家の分家。定房は、1649年に御留守居番の与力に加えれその子定保も同じ職を継いだ。1715年に表御右筆となった。現米八十石。三代定軌は医家本康徳亮の二男で、定保の婿養子なって相続した。

 

(5)旗本:久松七左衛門家

 久松忠次の三男定昌からはじまる。定正は1609年に召されて徳川家康に仕えて御手鷹師となり、後に現米六十石月俸三口を賜った。大坂の両陣に供奉した。1682年に減員により小普請となった。

 その子定助も御手鷹師となり、1646年に蔵米及び月俸を賜ったが父に先立ち没した。その子定国も御手鷹師となったが、1682年に減員により小十人となった。翌年に祖父の家督を相続した。1697年に蔵米二百俵に改められた。

 定員は御納戸番をつとめた。次の定安は大久保忠光の六男で定員の婿養子となって相続し、大番をつとめた。その子定綱も大番をつとめた。

 

(6)旗本:久松雅五郎家

 久松定佳の三男億恭からはじまる。億恭は1650年に召されて御小姓組に列し、1652年に蔵米三百俵を賜った。二代定恭は宗家定延の二男で、御書院番をつとめた。三代定堅は一族久松定持の二男で、御書院番をつとめた。定堅は初め弟儀僚を養子にしたが、のちに儀僚は宗家の養子となった。四代定儔は定堅の子で、御書院番の番士をつとめた。

 

久松氏略系図 (2)



 

※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。

 

参考文献:

 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

 名門・名家大辞典(東京堂出版

 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社

 日本史諸家系図人名事典(講談社

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。