探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

久松松平家~多古藩とその分家~

こんにちは、勘矢です。

今回は多古藩の久松松平家について調べたことをまとめました。

 

 

1. 多古藩久松松平家

(1)旗本:久松松平豊前守家

 久松俊勝の三男康俊は1563年に今川氏真の人質となり、1568年に武田信玄駿河を攻めたとき、武田方へ送られた。1570年に甲斐を逃れて三河に戻ったが、大雪のため両足を負傷した。1583年に久能城主となった。勝俊には跡継ぎがなかったため、生母於大の方の甥で水野忠分の五男勝政が婿養子となって相続した。1593年に千五百石を賜り、関ヶ原の戦いに供奉し、1602年に千石を加増された。大坂の両陣にも従い、1616年に加増されて五千石となった。1633年に駿府定番となり三千石を加増され、駿河国内で八千石となった。

 

 二代勝義は家督相続時に知行地を上総・下総国内に移され、下総多古を居所とした。大坂加番在任中に没した。三代勝易ははじめ蔵米三百俵(のちに六百俵)を賜っていたが、兄勝則が没したため父の跡を相続した。家督相続時に弟勝光と勝郷にそれぞれ五百石を分け与えて七千石となった。1676年に二千石を加増されて九千石となった。駿府城代在任中に没した。四代勝以は1713年に大坂定番となったとき、摂津国内で三千石を加増されて一万二千石となり諸侯に列した。

 

松平 勝俊(かつとし)【1552~1586】

 久松俊勝の三男、母は水野忠政娘 於大の方。享年35。

 

初代 松平 勝政(かつまさ)【1573~1635】

 水野忠分の五男。於大の方の甥。享年63。

 妻は松平勝俊の娘。

 

二代 松平 勝義(かつよし)【1602~1670】

 松平勝政の長男。

 1635年に34歳で家督相続。大番頭。享年69。

 妻は旗本 安藤重能の娘。

 

松平 勝則(かつのり)【1622~1669】

 松平勝義の長男、母は安藤重能の娘。諱は勝就とも。父に先立ち没した。享年48。

 妻は丹波福知山藩主 稲葉紀通の娘。

 

三代 松平 勝易(かつやす)【1623~1680】

 松平勝義の二男、母は安藤重能の娘。諱は勝忠とも。

 1670年に48歳で家督相続。御書院番駿府城代。享年58。

 妻は旗本 川勝広尚の娘。

 

四代 松平 勝以(かつゆき)【1661~1728】

 松平勝義の九男。兄の養子となり、1680年に20歳で家督相続。御小姓、定火消、御書院番頭。享年68。

 

 

(2)下総多古藩主

 大名となった勝以は1725年までの12年に渡って大坂定番をつとめた。大坂定番を辞職すると摂津国内の領地は下野国内に移された。二代勝房には嗣子がなかったため分家の勝尹を養子とし、隠居して家督相続させた。四代勝全は大坂加番などをつとめた。勝全の調子勝従(かつのぶ)は早世したため、二男の勝升が五代藩主となった。

 

初代 松平 勝以(かつゆき)【1661~1728】

 松平勝義の九男。享年68。

 在職期間:1713年(53)~1728年(68)

 正室交代寄合 池田政武の養女(播磨福本藩主 池田政直の娘)、継室は公家 西洞院時成の養女。

 

二代 松平 勝房(かつふさ)【1702~1745】

 松平勝以の二男、母は池田政武養女。享年45。

 在職期間:1728年(27)~1736年(35)隠居

 正室安房北条藩主 水野忠定の娘。忠定は久松平の一族で桑名藩主 松平定重の十男。

 

三代 松平 勝尹(かつただ)【1713~1768】

 旗本 松平勝久の長男。享年56。

 在職期間:1736年(24)~1768年(56)

 正室肥前島原藩主 松平忠刻の養女(松平勘敬の娘、忠刻の実妹)。

 

四代 松平 勝全(かつたけ)【1750~1796】

 松平勝尹の長男、母は松平忠刻養女。享年47。

 在職期間:1768年(19)~1794年(45)隠居

 正室丹波亀山藩主 松平信直の娘。

 

五代 松平 勝升(かつゆき)【1778~1818】

 松平勝全の二男、母は松平信直娘。享年41。

 在職期間:1818年(12)~1848年(42)隠居

 正室は大和高取藩主 植村家長の娘。

 

 

(3)罪人逃亡事件と陸奥への村替え

 六代勝権は彦根の井伊家出身で勝升の婿養子となって家督相続した。1830年江戸藩邸に藩校学問所を創設した。七代勝行が相続した翌1849年、幕府より預かっていた罪人が逃亡した事件が起きた。その後、監視役の藩士は追放や押込の処分となり、藩主勝行は閉門となった。翌年閉門は解かれたが、領地の大半を陸奥国楢葉郡・石川郡に移され、表高は変わらなかったが実質は二千石の減封となった。

 1855年に大坂加番をつとめ、1862年に二条定番となり、役料三千石を下賜されたたが、1866年に辞職した。1868年に久松復し、翌年に版籍奉還して多古藩知事に任ぜられた。八代勝慈は1869年に家督相続すると多古知藩事に任ぜられ、1871年廃藩置県を迎えた。 

 

六代 松平 勝権(かつのり)【1807~1868】

 近江彦根藩井伊直中の九男。享年62。

 在職期間:1818年(12)~1848年(42)隠居

 正室は松平勝升の養女 寿美(松平全好の娘)。

 

七代 久松 勝行(かつゆき)【1832~1869】

 松平勝権の長男。享年38。

 在職期間:1848年(17)~1869年(38)※1869年より知藩事

 正室三河岡崎藩主 本多忠考の娘。

 

八代 久松 勝慈(かつなり)【1855~1904】

 松平勝行の長男。享年50。

 知藩事在職期間:1869年(15)~1871年(17)

 正室常陸府中藩主松平頼縄の娘。

 

久松松平氏系図(勝俊系・多古藩)

多古陣屋

 

2. 多古藩の分家旗本家

(1)旗本:松平作右衛門家

 松平勝義の四男勝光は1659年に御小姓組の番士に列せられ、1661年に蔵米三百俵を賜った。1670年に父の遺領より上総・下総国内において五百石を分け与えられ、蔵米は収められた。三代勝忠の長男勝隆は早世し、従兄弟の井戸良弘の三男勝信を婿養子に迎えるも先立たれ、菅沼定好の二男勝久を婿養子に迎えた。

 

(寛政年間までの当主)

初代 松平 勝光(かつみつ)【1640~1717】

 松平勝義の四男。御小姓組番士。享年78。

 妻は旗本 水野勝安の娘。

 

松平 勝興(かつおき)【1662~1715】

 松平勝光の長男、母は水野勝安の娘。御書院番。父に先立ち没した。享年54。

 

二代 松平 勝寿(かつなが)【1687~1719】

 松平勝興の長男。1717年に31歳で家督相続。御小姓組の番士。享年33。

 

三代 松平 勝忠(かつただ)【1709~1772】

 旗本 井戸弘隆の二男、母は松平勝興の娘。

 叔父勝寿の婿養子となり、1719年に11歳で家督相続。御小姓組。享年64。

 妻は松平勝寿の娘。

 

四代 松平 勝久(かつひさ)【1749~1777】

 旗本 菅沼定好の二男、母は久永勝興の娘。

 勝忠の婿養子となり、1772年に24歳で家督相続。御書院番、御小納戸。享年29。

 妻は松平勝忠の娘(はじめは勝忠最初の養子勝信の妻)。

 

五代 松平 勝秀(かつひで)【1770~1777】

 松平勝久の長男、母は松平勝忠の娘。

 1777年にわずか8歳で家督相続。

 

久松松平氏系図(勝俊系・旗本)



 

(2)旗本:松平源六郎家

 松平勝義の六男勝郷は1659年に中奥の御小姓となり、蔵米四百俵を賜った。1670年に父の遺領より上総・下総国内において五百石を分け与えられ、蔵米は収められた。歴代当主は御小姓組をつとめている。

 

(寛政年間までの当主)

初代 松平 勝郷(かつさと)【1647~1715】

 松平勝義の六男。諱は勝忠とも。中奥御小姓、御書院番。享年69。

 

二代 松平 勝央(かつなか)【1670~1739】

 旗本 小野忠於の二男、母は筑紫信門の娘。

 勝郷の婿養子となり、1715年に46歳で家督相続。御小姓組。享年70。

 妻は松平勝郷の養女(旗本 川口平宗の娘)。

 

三代 松平 勝友(かつとも)【1707~1762】

 旗本 丹羽正道の二男。

 勝央の婿養子となり、1739年に33歳で家督相続。御小姓組。享年56。

 妻は松平勝央の娘。

 

四代 松平 勝方(かつみち)【1732~1762】

 松平勝友の長男、母は松平勝央の娘。

 1762年に31歳で家督相続。御小姓組

 妻は旗本 川口尹張の娘、後妻は旗本長鹽正親の娘(離婚)、後々妻は旗本 朝比奈泰有の娘。

 

(3)旗本:松平権七郎家

 松平勝義の七男勝秀は1672年に御書院番となり、1674年に蔵米三百俵を賜った。孫の勝尹が多古藩主の養子になったため蔵米は収められた。

 

(寛政年間までの当主)

初代 松平 勝秀(かつひで)【1652~1690】

 松平勝義の七男。御書院番。享年39。

 妻は上総佐貫藩主 松平重治の養女(松平勝広の娘、重治の姪)。

 

二代 松平 勝久(かつひさ)【1680~1726】

 松平勝秀の長男、母は松平重治の養女。

 1690年に11歳で家督相続。御小納戸、御書院番の番士。享年47。

 

三代 松平 勝尹(かつただ)【1713~1721】

 松平勝久の長男。1727年に15歳で家督相続。

 

※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。

 

参考文献:

 江戸時代全大名家事典(東京堂出版

 日本史諸家系図人名事典(講談社

 江戸大名家血族事典(新人物往来社

 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社

 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社

 寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林

 多古町史 上巻(ADEAC:多古町デジタルアーカイブ

https://adeac.jp/tako-town/text-list/d100010/ht000770

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。