こんにちは、勘矢です。
今回は伊予松山藩の久松松平家について調べたことをまとめました。
1. 伊予松山藩主久松松平家
(1)掛川から各地を経て伊予松山へ
徳川家康の異父弟松平定勝は、1590年に下総国小南(千葉県東庄町)で三千石をあたえられた。1600年の関ヶ原の戦いでは山内一豊の居城掛川城を守備した。翌年に二万七千石を加増されて遠江掛川三万石となった。1607年に伏見城代となって四万石となり、掛川城は二男定行に譲った。さらに翌年一万石の加増と城米二万石を賜った。大坂冬の陣のときは伏見城にいて大坂方面への往来を阻止し、夏の陣では二条城を守備した。1617年に六万石を加増されて伊勢桑名十一万石となった。1620年に伊勢長島で七千石を加増された。
二代定友は1605年に仰せにより島津家久の養女を娶り、1607年に遠江掛川三万石となった。大坂冬の陣では父と共に伏見城を守備し、夏の陣では伏見城を守備した。父が桑名へ転封となると命により掛川三万石は収められ桑名に移り、1624年に家督相続した。このとき、長島七千石を弟定房へ分与した。1635年に四万石を加増されて伊予松山十五万石となった。
初代 松平 定勝(さだかつ)【1560~1624】
掛川藩主在職期間:1601年(42)~1607年(48)
伏見藩主在職期間:1607年(48)~1617年(58)
桑名藩主在職期間:1617年(58)~1624年(65)
正室は奥平貞友の娘。
松平 定友(さだとも)【1585~1603】
松平定勝の長男、母は奥平貞友娘。初名定吉。関ヶ原の戦いに供奉した。享年19。
二代 松平 定行(さだゆき)【1587~1668】
松平定勝の二男、母は奥平貞友娘。享年82。
掛川藩主在職期間:1607年(21)~1617年(31)封地返還
桑名藩主在職期間:1624年(38)~1635年(49)
松山藩主在職期間:1635年(49)~1658年(72)隠居
正室は薩摩鹿児島藩主 島津家久の養女(家臣 島津朝久の娘)、継室は同じく家久の養女(伊集院忠真の娘)。
(2)相次ぐ天災
三代定頼の長男定盛は病弱により廃嫡となり、二男定長が松山藩を相続した。四代定長の頃はたびたび天災が続いて年貢収入が減り、藩財政は窮乏した。五代定直は分家今治藩からの養子で、破綻に瀕した藩財政の建て直しと災害の復旧を行った。また税制改革を行って増収を図った。
六代定英のときに享保の大飢饉が起きて激しい被害を受け、飢饉対策が後手に回ったため、多くの餓死者を出してしまい、定英は幕府から差控えを命ぜられた。七代定喬は父の急死により家督相続し、災害復旧と藩財政の建て直しに尽力した。1741年に農民が大挙して逃散した久万山騒動が起きた。
三代 松平 定頼(さだより)【1607~1662】
松平定行の長男、母は島津家久養女(朝久の娘)。享年56。
在職期間:1658年(52)~1662年(56)
松平 定盛(さだもり)【1638~1674】
松平定頼の長男、母は京極高広娘。1662年に病弱により廃嫡。享年37。
松平 定安(さだやす)【?~?】
若狭小浜藩一族 酒井忠朝の八男、母は松平定行の娘。定盛の養子となり、のち定直の養弟となった。
四代 松平 定長(さだなが)【1640~1674】
松平定頼の二男、母は京極高広娘。享年35。
在職期間:1662年(23)~1674年(35)
正室は豊前小倉藩主 小笠原忠真の養女(忠真の長男 長安の娘)、継室は旗本 京極高勝の娘。
五代 松平 定直(さだなお)【1660~1720】
伊予今治藩主 松平定時の長男、母は平岡重定娘。享年61。
在職期間:1674年(15)~1720年(61)
六代 松平 定英(さだひで)【1696~1733】
松平定直の三男、母は側室 渡部氏。享年38。
在職期間:1720年(25)~1733年(38)
七代 松平 定喬(さだたか)【1716~1763】
松平定英の長男、母は島津綱貴娘。享年48。
在職期間:1733年(18)~1763年(48)
八代 松平 定功(さだなり)【1733~1765】
松平定英の二男、母は側室 赤松氏。享年33。
在職期間:1763年(31)~1765年(33)
(3)松山新田藩
松山新田藩は、六代定英が家督相続時に弟定章に新墾田一万石を分与したことからはじまる。1727年に駿府在番をつとめ、享保の大飢饉では幕府から借用した拝借金にて飢人を救済した。1746年に大番頭となった。1747年に松山新田藩を相続した定静は、1765年に宗家の定功が嗣子なく没したため宗家を相続し、松山新田藩は廃藩となった。
松平 定章(さだあきら)【1700~1747】
松平定直の四男、母は側室 村上氏。享年48。
松山新田藩主在職期間:1720年(21)~1747年(48)
九代 松平 定静(さだきよ)【1729~1779】
松山新田藩主 松平定章の長男、母は松本氏。享年51。
松山新田藩主在職期間:1747年(19)~1765年(37)
松山藩主在職期間:1765年(37)~1779年(51)
正室は大和柳本藩主 織田信方の娘。
(4)養子による相続が続く
九代定静には嗣子なく、御三卿田安家より定国を婿養子に迎えた。定国は八代将軍吉宗の孫にあたり、定国一代に限り衣服に葵紋を使用することを許された。1784年に落雷により天守閣を焼失した。十一代定則は1805年に藩校興徳館を創設した。十二代定通は藩政改革に着手し、藩校の教育を充実させ、明教館と改めて人材育成につとめた。また、町方や農村の建て直し、殖産興業にも尽力し、中興の英主とされる。
定通には嗣子なく、二代定行の縁からか薩摩藩より勝善を婿養子に迎えた。1847年から6年かけて天守閣を再建した。安政の大地震の被害復旧や禁裏御所の復興資金の献上により藩財政は再び窮乏した。
勝善にも嗣子なく、水戸藩分家の高松藩から勝成を婿養子に迎えた。1864年に第一次長州征討に出兵し、1866年の第二次長州征討にも出兵した。周防国大島を占領したが萩藩の反撃にあって敗北し、その責任をとって隠居した。
勝成にも嗣子なく、1859年に伊勢津藩藤堂家から定昭を婿養子に迎えた。長州征討の総指揮をとって活躍し、父の隠居により家督相続した。相続直後に老中に就任して首座となるもわずか一ヶ月で辞任した。1868年の鳥羽伏見の戦いで幕府軍に味方したことから朝敵とされ、藩論を二分したが恭順することになり、土佐藩に城を明け渡して先代勝成と定昭は城下の常信寺で謹慎した。
定昭は蟄居となり先代勝成が再相続し、新政府より久松への復姓を命じられ、また戦費を献上した。1869年に版籍奉還して知藩事に任ぜられ、1871年に辞任した。定昭が再相続して知藩事となるも半年後に廃藩置県を迎えた。
十代 松平 定国(さだくに)【1757~1804】
田安宗武の六男、母は側室 山邨氏。享年48。
在職期間:1779年(23)~1804年(48)
正室は松平定静の養女 鉄姫(松平定喬の娘)。
十一代 松平 定則(さだのり)【1793~1809】
松平定国の三男、母は側室 林氏。享年17。
在職期間:1804年(12)~1809年(17)
十二代 松平 定通(さだみち)【1804~1835】
松平定国の五男、母は側室 \林氏。享年32。
在職期間:1809年(6)~1835年(32)
正室は田安斉匡の娘 猗姫。
十三代 松平 勝善(かつよし)【1817~1856】
薩摩鹿児島藩主 島津斉宣の十一男、母は島津樵嵐養女。初名定穀。享年40。
在職期間:1835年(19)~1856年(40)
正室は松平定通の養女鏈(出羽鶴岡藩主 酒井忠器の娘)、継室は出羽鶴岡藩主 酒井忠器の娘 猶。
十四代/十六代 松平 勝成(かつしげ)【1832~1912】
讃岐高松藩主 松平頼恕の五男、母は側室 浅田氏。初名定成。享年81。
在職期間:1856年(25)~1867年(36)隠居
在職期間:1868年(37)~1871年(40)再襲封。1869年より知藩事
正室は松平勝善の養女 令姫(松平定通の娘)、継室は播磨姫路藩主 酒井忠学の娘 鋼姫。
十五代/十七代 松平 定昭(さだあき)【1845~1872】
伊勢津藩主 藤堂高猷の四男、母は側室 橋本氏。享年28。
在職期間:1867年(23)~1868年(24)隠居
正室は松平勝成の養女 邦姫(松平勝善の娘)。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
https://www.town.tohnosho.chiba.jp/material/files/group/4/chousi5.pdf
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。