探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

久松松平家~桑名藩~

こんにちは、勘矢です。

今回は桑名藩の久松松平家について調べたことをまとめました。

 

 

1. 桑名藩主久松松平家

(1)第一次桑名藩

 松平定勝の三男定綱は初め荒川弘綱の養子となったが、のちに徳川家康の思し召しにより荒川家を相続せず、徳川秀忠に仕えて下総山川で五千石を与えられ、1609年に一万石を加増されて一万五千石となり諸侯に列した。大坂の両陣で活躍し、常陸下総三万石となり、1619年に遠江掛川に移封された。1625年に山城淀三万五千石、1633年に美濃大垣六万石となり、1635年に兄定行が伊勢桑名から伊予松山へ移封となると五万石を加増されて、伊勢桑名十一万石となった。

 定綱の長男定次は早世したため二男定良が家督を継いだが病弱で、有馬温泉へ湯治に赴いた帰途、京都において没した。定良に嗣子がなかったため、宗家の伊予松山より定重を養子に迎えた。

 1681年以降災害が相次ぎ、その復興のため郡代野村増右衛門を取り立てた。野村は定重に重用されて異例の出世をしたが、1710年に家老らから私腹を肥やした嫌疑をかけられ野村の一族は死刑となり、また関係する多くの役人が追放・罷免される大事件となった。この失政により越後高田へ転封となった。

 

初代 松平 定綱(さだつな)【1592~1651】

 松平定勝の三男、母は奥平貞友娘。享年60。

 山川藩主在職期間:1609年(18)~1616年(25)

 下妻藩主在職期間:1616年(25)~1619年(28)

 掛川藩主在職期間:1619年(28)~1625年(34)

 淀藩主在職期間:1625年(34)~1633年(42)

 大垣藩主在職期間:1633年(42)~1635年(44)

 桑名藩主在職期間:1635年(44)~1651年(60)

 正室浅野長政の娘。

 

松平 定次(さだつぐ)【1611~1629】

 松平定綱の長男、母は浅野長政の娘。父に先立ち没した。享年19。

 

二代 松平 定良(さだよし)【1632~1657】

 松平定綱の二男、母は継室 浅井氏。享年26。

 在職期間:1652年(21)~1657年(26)

 

三代 松平 定重(さだしげ)【1644~1717】

 伊予松山藩主 松平定頼の三男、母は京極高広の娘。享年74。

 桑名藩主在職期間:1657年(14)~1710年(67)

 高田藩主在職期間:1710年(67)~1712年(69)隠居

 正室は加賀金沢藩主 前田利常の娘、継室は駒井氏の娘。

 

 

(2)越後高田藩陸奥白河藩

 越後高田へ移封されてまもなく定重は隠居し、五男定逵が家督相続し、六男定儀は蔵米五千俵を分与された。定輝のとき越後国頚城郡の幕府領で質地騒動が起き、幕府から依頼されて鎮圧した。定輝は嗣子がなく、叔父定儀が家督相続した。定儀の嗣子は早世していたため、定逵の娘を定儀の養女とし、その婿に陸奥守山藩主 松平頼貞の六男定賢を迎えた。

 定賢は1741年に陸奥白河へ移封された。その子定邦は病弱のため、八代将軍徳川吉宗の二男田安宗武の七男定信を婿養子に迎えた。定信が相続した頃は天明の大飢饉に襲われていたが、農民に対して貯穀自給を奨励して危機を乗り切り、一人の餓死者も出さなかったといわれた。1787年に定信は老中に就任し寛政の改革を断行したが、1793年に辞職した。それ以降は藩政改革を推し進めて、藩校立教館の創設や南湖公園の造成などを行った。1812年に隠居して楽翁と号した。「国本論」や「花月草子」などの著作がある。

 

四代 松平 定逵(さだみち)【1677~1718】

 松平定重の五男、母は駒井氏。享年42。

 在職期間:1712年(36)~1718年(42)

 正室大久保忠朝の養女(忠朝の子 忠増の娘)、継室は公家 烏丸光雄の娘。

 

五代 松平 定輝(さだてる)【1704~1725】

 松平定逵の長男、母は烏丸光雄の娘。享年22。

 在職期間:1718年(15)~1725年(22)

 正室は安芸広島藩主 浅野吉長の娘。

 

六代 松平 定儀(さだのり)【1680~1727】

 松平定重の六男、母は笹尾氏。享年48。

 在職期間:1725年(46)~1727年(48)

 

七代 松平 定賢(さだよし)【1709~1770】

 陸奥守山藩主 松平頼貞の六男、母は側室 松本氏。享年62。

 高田藩主在職期間:1727年(19)~1741年(33)

 白河藩主在職期間:1741年(33)~1770年(62)

 正室は松平定儀の養女(松平定逵の娘)、継室は公家 烏丸光栄の娘。

 

八代 松平 定邦(さだくに)【1728~1790】

 松平定賢の長男、母は烏丸光栄娘。享年63。

 在職期間:1770年(43)~1783年(56)

 正室筑前福岡藩主 黒田継高の娘。

 

九代 松平 定信(さだのぶ)【1758~1829】

 田安宗武の七男、母は側室 山村氏。享年72。

 在職期間:1783年(26)~1812年(55)隠居

 正室は松平定邦の娘、継室は伊予大洲藩主 加藤泰武の娘 隼姫。

 

久松松平氏系図(定勝系・桑名藩



 

(3)第二次桑名藩

 白河藩1810年以降何度か江戸湾警備を命ぜられ、また房総の台場工事も行ったため財政負担が大きかった。定永は1823年に白河・桑名・忍藩の三方領地替えにより、約100年振りに藩祖の地伊勢桑名に戻った。定永の孫の猷は1858年に京都警衛を命ぜられた。その翌年に猷は没したが、嫡子定教は幼少のため美濃高須藩より定敬を婿養子に迎えた。

 定敬は1863年十四代将軍徳川家茂の上洛に供奉し、京都警衛の任についた。翌年も上洛し、京都所司代となって実兄で京都守護職会津藩松平容保と共に京都の治安維持につとめた。1867年の王政復古により所司代を免ぜられると徳川慶喜らと共に大阪城に入り、鳥羽伏見の戦い後は慶喜に従って大坂を脱出し江戸に入った。

 国元の桑名には新政府軍が迫っており、定敬の義弟定教は家老と共に新政府軍の本営に出頭して謝罪し、桑名城を明け渡して津藩・名古屋藩の監視の元で謹慎した。一方の定敬は江戸からロシア船で越後にある飛び地柏崎へ向かい、その後会津、米沢を経て五稜郭に入って抗戦し、1869年に定敬は東京の名古屋藩邸に出頭した。同年定教に家名存続が許されて六万石を与えられ、翌年に桑名藩知事に任ぜられ、1871年廃藩置県を迎えた。

 

十代 松平 定永(さだなが)【1791~1838】

 松平定信の長男、母は加藤泰武娘隼姫。享年48。

 白河藩主在職期間:1812年(22)~1823年(33)

 桑名藩主在職期間:1823年(33)~1838年(48)

 正室は阿波徳島藩主 蜂須賀治昭の娘 綱姫。

 

十一代 松平 定和(さだかず)【1812~1841】

 松平定永の二男、母は蜂須賀治昭娘綱姫。享年30。

 在職期間:1838年(27)~1841年(30)

 正室は薩摩鹿児島藩島津重豪の娘 孝姫。

 

十二代 松平 猷(みち)【1834~1859】

 松平定和の長男、母は島津重豪娘孝姫。初名は定猷。享年26。

 在職期間:1841年(8)~1859年(26)

 正室信濃松代藩主 真田幸良の娘 貞子。

 

十三代 松平 定敬(さだあき)【1846~1908】

 美濃高須藩松平義建の七男、母は側室 今西氏。享年63。

 在職期間:1859年(14)~1868年(23)隠居

 正室は松平猷の娘 初姫。

 

十四代 松平 定教(さだのり)【1857~1899】

 松平猷の長男。享年43。

 在職期間:1869年(13)~1871年(15)知藩事

 正室は山岡鉄太郎の娘。

 

桑名城

参考文献:

 江戸時代全大名家事典(東京堂出版

 日本史諸家系図人名事典(講談社

 江戸大名家血族事典(新人物往来社

 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社

 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。