探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

大河内松平家~高崎藩~

こんにちは、勘矢です。
前回に続き大河内松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 上野高崎藩松平家

(1)常陸土浦から上野高崎へ

 松平信綱の五男信興は徳川家綱の御小姓組となり、1652年に蔵米千俵を与えられ、1660年に御小姓組の番頭となり蔵米千俵を加増された。1662年に兄輝綱から新墾田五千石を分与され、1679年に若年寄となって加増されて武蔵・下総国内で一万二千石となり、その後さらに五千石を加増された。1682年に奏者番となって五千石を加増されて常陸土浦二万二千石となった。1687年に一万石を加増されて大坂城代となり、土浦を去った。1690年に京都所司代となり、在職中に没した。信興ははじめ甥の斐章を養子したが病により実家へ帰ったため、甥の輝貞が家督相続した。
 
 輝貞ははじめ館林藩主時代の徳川綱吉の小姓ををつとめ1672年に父遺領のうち五千石を分与され、御側となり武蔵国内で二千石を加増された。1691年に叔父信興の養子となって家督相続するとこれまでの知行は収められた。1692年に下野壬生三万二千石となり、1693年に側用人となり一万石を加増され、1695年に加増されて上野高崎五万二千石に転封となり、1704年にさらに加増されて七万二千石となった。
 綱吉が没した翌年の1710年に越後村上へ転封となったが、1717年に高崎に戻されて八代将軍徳川吉宗に重用された。1730年に老中格となり、1745年に隠居した。
 
初代 松平 信興(のぶおき)【1630~1691】
 松平信綱の五男、母は井上正就の娘。享年62。
 土浦藩主 在職期間:1682年(53)~1687年(58)
 大坂城代京都所司代:1687年(58)~1691年(62)
 正室は摂津尼崎藩主 青山幸利の娘。
 
松平 斐章(あやあき)【1666~?】
 松平信定の三男。1679年に叔父信興の養子となるも病により実家へ帰った。
 
二代 松平 輝貞(てるさだ)【1665~1747】
 武蔵川越藩主 松平輝綱の六男、母は板倉重宗娘。享年83。
 壬生藩主 在職期間:1692年(28)~1695年(31)
 高崎藩主 在職期間:1695年(31)~1710年(46)
 村上藩主 在職期間:1710年(46)~1717年(53)
 高崎藩主 在職期間:1717年(53)~1745年(81)隠居
 正室武蔵川越藩主 柳沢吉保の養女(旗本 折井正辰の娘)。
 

大河内松平氏(高崎藩系)略系図
 

(2)上野高崎藩(前期)

 輝貞は1715年に従弟の輝規を養子に迎え、1745年に家督を譲った。四代輝高は奏者番のちに寺社奉行を兼任し、1752年に大坂城代となり、1756年に京都所司代に転じた。1758年に老中に就任し、1760年までつとめた。同年藩校遊芸館を創設した。翌年老中に再任し、1779年に加増されて八万二千石となった。輝高は老中在職中に没した。
 五代輝和は兄輝行が早世したため嫡子となり、家督相続後に奏者番のちに寺社奉行を兼任し、1798年大坂城代となり、在職中に没した。六代輝延は兄の養子となって家督相続し、兄と同様に奏者番寺社奉行を兼任したのち大坂城代となった。1823年に老中に就任し、在職中に没した。
 
三代 松平 輝規(てるのり)【1682~1756】
 一族松平信定の十男。享年72。
 在職期間:1745年(64)~1749年(68)隠居
 
四代 松平 輝高(てるたか)【1725~1781】
 松平輝規の長男。享年57。
 在職期間:1749年(25)~1781年(57)
 正室遠江浜松藩松平信祝の娘。継室は先妻の妹。
 
松平 輝行(てるちか)【1748~1775】
 松平輝高の長男。父に先立ち没した。享年28。正室は美濃大垣藩主 戸田氏英の娘。
 
五代 松平 輝和(てるやす)【1750~1800】
 松平輝高二男。享年51。
 在職期間:1781年(32)~1800年(51)
 
六代 松平 輝延(てるのぶ)【1775~1825】
 松平輝高の三男。享年51。
 在職期間:1800年(26)~1825年(51)
 正室三河吉田藩主 松平信明の養女(旗本松平信譲の娘)。継室は陸奥盛岡藩主 南部利正の娘。
 

(3)上野高崎藩(後期)

 七代輝承はわずか9歳で家督相続し、1838年奏者番となったが翌年に没した。一族の輝徳が家督相続するも1年で没し、美濃高富藩主本庄道昌の五男輝充を養子に迎えた。道昌の父道利は大河内松平家の一族出身である。輝充は25歳で隠居し、上総大多喜藩主松平正敬の五男輝聴が家督相続した。1851年に下総国銚子にある高崎藩の領地に海防掛を派遣して沿岸警備にあたらせた。奏者番を経て寺社奉行となったが、在職中に没した。
 十代輝声は1861年和宮降嫁の際、道中の中山道坂本宿から本庄宿までの警備にあたった。翌年、江戸湾第三台場の警備につき、1864年には天狗党鎮圧を命ぜられ、下仁田戦争が起こった。1866年に洋式兵制を採用し、甲府城代・奏者番を経て翌年に陸軍奉行並となった。大政奉還後は新政府軍に恭順し、上野国権田村に隠棲していた小栗上野介の誅伐を命ぜられ、長岡藩・会津藩への追討にも出兵した。
 1869年に版籍奉還して高崎知藩事に任ぜられ、同年年貢減免を求める五万石騒動が起こった。1871年廃藩置県を迎え、大河内に復姓した。
 
七代 松平 輝承(てるよし)【1817~1839】
 松平輝延の子、母は側室 ぬひ。享年23。
 在職期間:1825年(9)~1839年(23)
 正室は出羽鶴岡藩主 酒井忠器の養女(上総久留里藩主 黒田直侯の娘)。
 
八代 松平 輝徳(てるあきら)【1820~1840】
 一族松平信弥の二男。享年21。
 在職期間:1839年(20)~1840年(21)
 
九代 松平 輝充(てるみち)【1822~1862】
 美濃高富藩主 本庄道昌の五男。享年41。
 在職期間:1840年(19)~1846年(25)隠居
 
十代 松平 輝聴(てるとし)【1827~1860】
 上総大多喜藩主 松平正敬の五男、母は側室 中村氏。享年34。
 在職期間:1846年(20)~1860年(34)
 正室は下総佐倉藩堀田正睦の娘 万。
 
十一代 松平 輝声(てるな)【1848~1882】
 松平輝聴の子、母は堀田正睦娘。享年35。
 在職期間:1860年(13)~1871年(24)<1869年から高崎藩知事
 正室は出羽鶴岡藩主 酒井忠発の娘 鉚子。継室は杉原某の娘 ふき。
 

高崎城
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。