こんにちは、勘矢です。
1. 長府藩毛利家
(1)毛利家の別家
毛利元就の四男 穂井田元清の子として生まれた秀元は、はじめ従兄 毛利輝元の養子となった。文禄の役では養父輝元に代わって毛利軍の総大将として出陣し、慶長の役では渡鮮して蔚山城を救援した。帰国後、輝元に嫡男秀就が誕生すると、防長両国内で十万六千石で別家した。
関ヶ原の戦い後に毛利家が防長二国に削減されると、秀元は長門国長府(山口県下関市)で三万六千石余を分与されて長府藩を立藩した。秀元は秀就を後見して藩政を補佐したが、秀就が成長すると不和が生じたため後見を辞した。
綱元の子 吉元は宗家萩藩を相続したため、長府藩は吉元の長男元朝が嫡孫承祖した。1713年に吉元の嫡子元陳が没すると元朝は萩藩の嫡子となり、宗元と改名した。しかし、家督相続することなく父に先立ち没した。長府藩は元朝の叔父元矩が相続するも嗣子なく長府藩は一時断絶した。
初代 毛利 秀元(ひでもと)【1579~1650】
穂田元清の子、母は来島通康の娘。享年72。
在職期間:1600年(22)~1650年(72)
二代 毛利 光広(みつひろ)【1616~1653】
在職期間:1650年(35)~1653年(38)
三代 毛利 綱元(つなもと)【1650~1709】
毛利光広の長男、母は本多忠義の娘。享年60。
在職期間:1653年(4)~1709年(60)
四代 毛利 元朝(もとあさ)【1703~1721】
長門萩藩主 毛利吉元の長男、母は池田綱政の娘。享年19。
在職期間:1709年(7)~1713年(11)
五代 毛利 元矩(もとのり)【1704~1718】
毛利綱元の四男。享年15。
在職期間:1713年(10)~1718年(15)無嗣除封
(2)長府藩の再興
長府藩が一時断絶すると萩藩主 毛利吉元の要請により、清末藩主 毛利元平は長府藩の旧領三万八千石を賜って長府藩を再興し、元平から匡広と改名した。その後。九千石を加増されて四万七千石となった。七代師就の頃は風水害や蝗害に襲われて減収となり、藩財政は深刻なダメージを受けた。
八代匡敬は宗家萩藩 毛利宗広に世子がないため宗広の養嗣子となり、萩藩を相続して重就と改名した。十代匡芳のとき、公称五万石の城主格となった。また、藩校敬業館を創設した。
六代 毛利 匡広(まさひろ)【1675~1729】
在職期間:1718年(44)~1729年(55)
七代 毛利 師就(もろなり)【1706~1735】
毛利元平の五男、母は側室 下村氏。享年30。
在職期間:1729年(24)~1735年(30)
八代 毛利 匡敬(まさよし)【1725~1789】
毛利匡広(元平)の十男、母は側室 飯田氏。のち長門萩藩主 重就。享年65。
在職期間:1735年(11)~1751年(27)
九代 毛利 匡満(まさみつ)【1748~1769】
毛利重就(匡敬)の長男、母は側室 飯田氏。享年22。
在職期間:1751年(4)~1769年(22)
十代 毛利 匡芳(まさよし)【1761~1792】
毛利重就(匡敬)の五男、母は側室 武藤氏。享年32。
在職期間:1769年(9)~1792年(32)
正室は公家 西園寺賞季の娘、継室は公家 西園寺賞季の娘(先妻の妹ヵ)。
(3)江戸後期から幕末の藩主
十一代元義は文人大名として狂歌、詩文、絵画などに才能を発揮した。元義の嫡子元寛は早世し、そのとき孫の元周は赤子であったため元義は三男 元運を跡継ぎとした。元運の代になると藩財政は逼迫し、その建て直しを行った。また、異国船の来航に備えて砲台場の築造や沿岸警備につとめた。
元運は甥の元周を養嗣子とした。元周が相続した翌年に浦賀にペリーが来航し、江戸大森海岸の防備に出兵し、その後相模国の海岸を防備した。また、領内の防禦体制を強化し、1864年の四ヶ国連合艦隊下関砲撃に参戦した。その後も幕府の長州征討などに対して宗家萩藩を補佐した。
十一代 毛利 元義(もとよし)【1785~1843】
毛利匡芳の子、母は西園寺賞季の娘。享年59。
在職期間:1792年(8)~1841年(57)隠居
正室は肥後熊本新田藩主 細川利庸の娘。
十二代 毛利 元運(もとゆき)【1817~1852】
毛利元義の三男、母は側室 林香院。享年36。
在職期間:1841年(25)~1852年(36)
十三代 毛利 元周(もとちか)【1827~1868】
毛利元義の嫡男 元寛の三男。享年42。
在職期間:1852年(26)~1868年(42)隠居
十四代 毛利 元敏(もととし)【1849~1908】
毛利元運の六男、母は土屋彦直の娘。享年60。
2. 清末藩主一覧
(1)第一次清末藩
長男の元武は1673年に詰衆に列し、蔵米三千俵を賜ったが早世した。元武が没すると二男元平が嫡子となり、1683年に清末藩を相続した。
初代 毛利 元知(もととも)【1631~1683】
毛利秀元の三男、母は側室 長沼氏。享年53。
在職期間:1653年(23)~1683年(53)
毛利 元武(もとたけ)【1658~1677】
毛利元知の長男、母は増山正利の妹。享年20。
二代 毛利 元平(もとひら)【1675~1729】
毛利元知の二男、母は側室 小笠原氏。のち匡広。享年55。
在職期間:1683年(9)~1718年(44)
(2)第二次清末藩
1729年長府藩主毛利匡広の七男政苗は、父の遺言により兄師就が長府藩を相続する際に一万石を分与されて、約10年ぶりに清末藩を再興した。その治世は藩財政の困窮と未曾有の凶荒などで困難であった。1759年に奏者番兼寺社奉行となったが、訴訟の不手際があって1764年に職を免ぜられた。
三代匡邦は藩校育英館を創設した。嫡子匡民が早世したため、家督をめぐって御家騒動が起こった。従兄で伊勢長島藩主増山正賢の二男政明を養子に迎えて家督相続させるも1カ月も経たずに没したが、公式には3カ月後に公表された。そのため急遽、匡邦の二女民姫の婿養子に近江堅田藩主 堀田正敦の六男 元世を迎えた。
最後の藩主元純は七代元承の急養子として迎えられた。禁門の変によって官位を剥奪されたが、宗藩の雪冤のために奔走した。第二次長州征討では石州口の防衛を担当し、大村益次郎の指揮によって浜田城を奪取し、浜田城を守備した。1869年に版籍奉還して清末藩知事となり、1871年に廃藩置県を迎えた。
三代 毛利 政苗(まさなり)【1718~1781】
毛利匡広の七男、母は側室 飯田氏。享年64。
在職期間:1729年(12)~1775年(58)隠居
四代 毛利 匡邦(まさくに)【1761~1832】
毛利政苗の七男、母は側室 平井氏。享年72。
在職期間:1775年(15)~1818年(58)隠居
五代 毛利 政明(まさあき)【1789~1818】
伊勢長島藩主 増山正賢の二男。享年30。
在職期間:1818年(30)
六代 毛利 元世(もとよ)【1796~1845】
近江堅田藩主 堀田正敦の六男。享年50。
在職期間:1818年(23)~1845年(50)
七代 毛利 元承(もとつぐ)【1833~1849】
長門府中藩主 毛利元義の十一男、母は側室 水野氏。享年17。
在職期間:1845年(13)~1849年(17)
八代 毛利 元純(もとずみ)【1832~1875】
豊後日出藩主 木下俊敦の四男、母は側室 河瀬氏。享年44。
(3)毛利家・増山家の関係
毛利元知が増山正利の妹を正室に迎え、元知の孫正贇が正利の甥で養子の増山正弥の孫増山正武の養子となった。正贇の孫政明は祖父の甥毛利匡邦の養子となった。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩(人文社)
稿本もりのしげり(時山弥八 編 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。