探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

松江松平家

こんにちは、勘矢です。

今回は松江松平家について調べたことをまとめました。

 

 

1. 出雲松江松平家

(1)姉崎・大野・松本を経て松江へ

 松江松平家結城秀康の三男直政からはじまる。大坂の両陣に兄忠直の麾下で出陣し戦功を立て、越前国内で一万石を分与された。1619年に一万石を加増されて兄忠昌の旧領上総姉崎二万石となった。1624年に改易された兄忠直の旧領から三万石を加増され、越前大野五万石となった。1633年に二万石を加増され、信濃松本七万石となった。

 出雲松江の京極家が改易されると十一万六千石を加増され出雲松江十八万六千石となり、合わせて隠岐国一万八千石を預かった。

 

初代 松平 直政(なおまさ)【1601~1666】

 結城秀康の三男、母は側室 三谷氏。享年66。

 上総姉崎藩主 在職期間:1619年(19)~1624年(24)

 越前大野藩主 在職期間:1624年(24)~1633年(33)

 信濃松本藩主 在職期間:1633年(33)~1638年(38)

 出雲松江藩主 在職期間:1638年(38)~1666年(66)

 正室は美濃大垣藩主 松平(久松)忠良の娘 久姫。

 

松江松平家系図



 

(2)江戸前期の藩主

 二代綱隆は家督相続時に弟近栄に広瀬三万石、同隆政に母里一万石を分与した。1674年に領内が大水害に襲われ、藩財政にも打撃を受けた。

 三代綱近は家督相続時に隠岐国の預かりを辞退した。1701年に弟近憲に一万石を分与して松江新田藩を立藩させた。また、新田開発を行い石高が増加した。綱近には世継ぎがないため弟近憲が養子となり、松江新田藩は廃藩となった。近憲は吉透と改名して四代藩主となったが、翌年に没した。

 

二代 松平 綱隆(つなたか)【1631~1675】

 松平直政の長男、母は松平忠良の娘。享年45。

 在職期間:1666年(36)~1675年(45)

 正室は越前福井藩松平忠昌の娘 万姫。

 

三代 松平 綱近(つなちか)【1659~1709】

 松平綱隆の四男、母は松平忠昌の娘。享年51。綱通ともいう。

 在職期間:1675年(17)~1704年(46)隠居

 正室は伊勢長島藩主 松平(久松)康尚の娘。

 

四代 松平 吉透(よしとお)【1668~1705】

 松平綱隆の五男、母は側室 平賀氏。享年38。初名近憲(ちかのり)。

 松江新田藩主 在職期間:1701年(34)~1704年(37)

 出雲松江藩主 在職期間:1704年(37)~1705年(38)

 正室は越前松岡藩主 松平昌勝の娘 菅姫。

 

 

(3)江戸中期の藩主

 五代宣維はわずか8歳で家督相続した。享保の頃から沿岸一帯に異国船往来が激しくなったことから、1720年に再び隠岐国を預けられた。また、殖産興業にも力を入れた。

 六代宗衍はわずか3歳で家督相続したため、幕府は福井藩主松平宗矩、明石藩主松平直純、白河藩主松平明矩ら一族に後見を命じた。1732年に大蝗害に見舞われ、その後も災害が続いて財政は逼迫し、藩存亡の危機に直面した。1747年に藩主親政を開始して財政振興策を取ったが、5年後に親政停止した。1758年に藩校文明館(のち修道館)を創設した。

 七代治郷は父の隠居により家督相続し、国家老朝日丹波を信任して御立派の改革といわれる藩政改革を行い、藩財政は好転した。治郷は茶道の石州流などを学び、石州流不昧派を興した。また茶器の蒐集を行い、「古今名物類聚」などの著作がある。 

 

五代 松平 宣維(のぶすみ)【1698~1731】

 松平吉透の二男、母は松平昌勝の娘。享年34。

 在職期間:1705年(8)~1731年(34)

 正室は出羽久保田藩主 佐竹義処の娘。継室は伏見宮邦永親王の娘 岩姫。

 

六代 松平 宗衍(むねのぶ)【1729~1782】

 松平宣維の長男、母は伏見宮邦永親王の娘。享年54。

 在職期間:1731年(3)~1767年(39)隠居

 正室は播磨姫路藩主 松平明矩の娘 常姫。

 

七代 松平 治郷(はるさと)【1751~1818】

 松平宗衍の二男、母は側室 大森氏。享年68。号は不昧。

 在職期間:1767年(17)~1806年(56)隠居

 正室陸奥仙台藩主 伊達宗村の娘 �姫。

 

 

(4)江戸後期の藩主

 九代斉貴はわずか8歳で家督相続し、朝日丹波の孫重邦が後見役をつとめたが、凶作により藩財政は窮乏し、隠岐周辺にイギリス軍艦が来航するなど危機があった。1828年に先代斉恒が塙保己一に命じた「延喜式」の校訂事業が完成し、幕府に上納した。

 その後斉貴は暗君な行いが多くなったため、親族らが相図って隠居させた。隠居後に斉斎(なりよし)と改名した、

 十代定安は津山藩から婿養子に入り、斉貴の隠居により家督相続した。ペリー来航以降、武蔵国本牧(横浜)などの警備にあたった。また、1862年に長崎から英国製鉄鑑と米国製木造鑑を各一隻購入した。翌年、城下に操練所を設けて歩騎砲兵を修練させた。

 1866年の第二次長州征討にも出兵し、長州藩に攻撃されて敗走した浜田藩主松平武聡を海上で救出した。1868年に藩論を尊王に統一して新政府に帰順した。また、隠岐国では隠岐騒動が起きた。翌1869年に版籍奉還して松江藩知事に任ぜられ、1871年廃藩置県を迎えた。

 

八代 松平 斉恒(なりつね)【1791~1822】

 松平治郷の長男、母は側室 武井氏。享年32。

 在職期間:1806年(16)~1822年(32)

 正室は肥後熊本藩主 細川斉玆の娘 芳姫。継室は播磨姫路藩主 酒井忠道の娘 英姫。

 

九代  松平 斉貴(なりたけ)【1815~1863】

 松平斉恒の長男、母は側室 浅井氏。享年49。

 在職期間:1822年(8)~1853年(39)隠居

 正室肥前佐賀藩主 鍋島斉直の娘 充姫。

 

十代 松平 定安(さだやす)【1835~1882】

 美作津山藩主 松平斉孝の七男、母は側室 雨森氏。享年48。

 在職期間:1853年(19)~1871年(37)1869年より知藩事

 正室は松平斉貴の娘 熈姫。

 

松江城

 

参考文献:

 江戸時代全大名家事典(東京堂出版

 日本史諸家系図人名事典(講談社

 江戸大名家血族事典(新人物往来社

 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社

 名門・名家大辞典(東京堂出版

 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社

 徳川一族大全(廣済堂出版

 徳川諸家系譜 第四(続群書類従完成会

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。