こんにちは、勘矢です。
今回は東条松平家と松井松平家について調べたことをまとめました。
1. 東条松平家
東条松平家は松平長親の四男義春からはじまり、はじめは青野松平家と称された。忠茂は1556年に日近の戦いで戦死した。その子家忠は生まれたばかりで、叔父の松井忠次が今川義元から補佐を命じられた。また、家督をめぐって叔父甚次郎と争った。東条城の吉良義昭が追放されたのちに城主となり、東条松平と呼ばれた。
1581年に家忠は嗣子なく没したため、徳川家康の四男忠吉がその名跡を継いだ。1592年に武蔵忍で十万石を与えられ、関ヶ原の戦いの戦功により尾張清洲五十七万石余となったが、嗣子なく没したため断絶した。
初代 松平 義春(よしはる)【?~?】
松平長親の四男。
二代 松平 忠茂【?~1556】
松平義春の子。妻は松井忠直の娘。
三代 松平 家忠(いえただ)【1556~1581】
松平忠茂の子。妻は松平(深溝)伊忠の娘。享年26。
四代 松平 忠吉(ただよし)【1580~1607】
徳川家康の四男、母は側室 お愛の方。初名忠康。享年28。
在職期間:1600年(21)~1607年(28)
2. 松井松平家
松井氏は源為義の子維義の末裔といい、宗之が三河に移り住み三河松井氏の祖となった。戦国時代の忠次ははじめ東条吉良氏の家臣であったとされ、のちに東条松平家に仕えた。松平忠茂が戦死すると、生まれたばかりの甥家忠の後見役となった。徳川家康の信頼を得て松平姓を賜った。また、家康の一字を賜って康親と名乗ったと伝わる。
姉川の戦い、長篠の戦いなどで戦功をたてて遠江牧野城主となり、1582年に松平忠吉の後見をつとめ、駿河三枚橋城主となった。
松平 忠次(ただつぐ)【1521~1583】
松井忠直の子。享年63。
(1)私市藩から笠間藩・篠山藩を経て岸和田藩へ
忠次の跡を継いだ康重は徳川家康のご落胤ともいわれる。三枚橋城主となり、小田原の陣での戦功により、徳川家が関東へ移されると武蔵私市(埼玉県加須市騎西)で二万石を与えらえた。
関ヶ原の戦いでは遠江掛川城を守り、役後に美濃大垣城を守備した。1601年に常陸笠間三万石となり、翌年に佐竹氏が水戸から出羽久保田へ転封となった際に水戸城を守備し、佐竹氏旧臣が水戸城奪還を企てたことを知ると首謀者をとらえた。
1608年に丹波八上五万石となり、天下普請で篠山城が築城されると篠山へ移り、さらに大坂の陣で戦功をあげ、1619年に和泉岸和田六万石となった。
初代 松平 康重(やすしげ)【1568~1640】
私市藩主 在職期間:1600年(33)~1601年(34)
笠間藩主 在職期間:1601年(34)~1608年(41)
篠山藩主 在職期間:1608年(41)~1619年(52)
岸和田藩主 在職期間:1619年(52)~1640年(73)
(2)石見浜田藩(第一次)
康重の長男康政は早世したため、二男康映が嫡子となり1640年に家督相続した。このとき兄康政の子康朗に五千石、弟康命に三千石、同康紀に二千石を分与して五万四百石となった。まもなく播磨山崎へ転封となり、1649年に石見浜田に移った。
三代康官は1676年に弟康明へ新墾田二千石を分け与えたが、康明は1685年に嗣子なく没した。四代康員は嗣子なく、弟康房を養子としたが先立たれたので、一族の康豊を養子に迎えた。享保の飢饉により領内で一揆が起こり、江戸藩邸では鏡山事件が起こるなど多難な時期であった。
松平 康政(やすまさ)【1604~1630】
松平康重の長男、母は徳永寿昌の娘。父に先立ち没した。享年27。
二代 松平 康映(やすてる)【1615~1674】
松平康重の二男。享年60。
山崎藩主 在職期間:1640年(26)~1649年(35)
浜田藩主 在職期間:1649年(35)~1674年(60)
正室は和泉岸和田藩主 岡部宣勝の娘。
三代 松平 康官(やすのり)【1657~1727】
松平康映の三男。享年71。
在職期間:1675年(19)~1705年(49)隠居
正室は武蔵忍藩主 阿部正能の娘。
松平 康明(やすあきら)【1662~1685】
松平康映の四男。享年24。
四代 松平 康員(やすかず)【1679~1713】
松平康官の長男、母は阿部正能の娘。享年35。
在職期間:1705年(27)~1709年(31)隠居
松平 康房(やすふさ)【1686~1709】
松平康官の二男。享年24。正室は常陸笠間藩主 井上正岑の養女(正岑の兄正幸の娘)。
五代 松平 康豊(やすとよ)【1685~1735】
松平康郷の長男。享年51。
在職期間:1709年(25)~1735年(51)
正室は石見津和野藩亀井家一族 亀井矩致の養女。
(3)石見浜田藩(第二次)
六代康福は1749年に奏者番となり、1759年に寺社奉行を兼任し、下総古河へ転封となった。翌年に大坂城代となり、1762年に三河岡崎へ転封し、翌年に西ノ丸老中となった。1764年に本丸老中となり、1769年に再び石見浜田に再入封した。1785年に一万石を加増され、1788年に老中を辞職した。
七代康定は高家前田房長の子で、はじめ父の実家で浜田藩分家の旗本松平康敬家を相続したが、康福に世子がないため婿養子となって相続した。1795年に奏者番となり、1798年に寺社奉行を兼任した。また、藩校長善館を創設した。
八代康任は康定の婿養子となり家督相続し、1812年に奏者番となり、1817年に寺社奉行を兼任した。1822年に大坂城代、1825年に京都所司代となり、翌年に西ノ丸老中を経て本丸老中となった。1835年に仙石騒動に関係したのが発覚したため老中を辞任して隠居したが、翌年に竹島での密貿易が露見して永蟄居となった。
六代 松平 康福(やすよし)【1719~1789】
松平康豊の長男。享年71。
浜田藩主 在職期間:1736年(18)~1759年(41)<第一次>
古河藩主 在職期間:1759年(41)~1762年(44)
岡崎藩主 在職期間:1762年(44)~1769年(51)
浜田藩主 在職期間:1769年(51)~1789年(71)<第二次>
七代 松平 康定(やすさだ)【1747~1807】
高家 前田房長の三男、母は青木直宥の娘。享年61。
在職期間:1789年(43)~1807年(61)
正室は松平康福の娘。
松平 康保(やすもち)【1782~?】
高家 前田清長の六男。1794年に康定の養子とり、1796年に将軍家にお目見えした。 1800年に康任が将軍家へのお目見えを行っていることから、それ以前に廃嫡されたものとみられる。
八代 松平 康任(やすとう)【1780~1841】
分家松平康道の長男、母は五島盛道の娘。享年62。
在職期間:1807年(28)~1835年(56)隠居
正室は松平康定の娘。
(4)陸奥棚倉への左遷
九代康爵は相続した翌年、康爵も密貿易に関りがあったことが発覚し、家老らが自刃し、陸奥棚倉へ左遷された。康爵には嗣子がなく弟の康圭を養子にして相続させた。
十一代康泰は病弱で、1864年に水戸の天狗党に追討令が棚倉藩に下されると、城代家老岡田竹右衛門が代わりに指揮をとった。
九代 松平 康爵(やすたか)【1810~1868】
松平康任の子、母は松平康定の娘。享年59。
浜田藩主 在職期間:1835年(26)~1836年(27)
棚倉藩主 在職期間:1836年(27)~1854年(45)隠居
十代 松平 康圭(やすかど)【1821~1862】
松平康任の三男、母は松平康定の娘。享年42。
十一代 松平 康泰(やすひろ)【1849~1864】
松平康圭の長男、母は内藤政優の養女。享年16。
(5)老中就任と川越藩転封
十二代康英は、はじめ分家旗本家の当主として外国奉行、勘定奉行などを歴任し、1864年に康泰の養子となり家督相続した。1865年に奏者番兼寺社奉行となり、3カ月後には老中に就任して外国事務取扱を命ぜられた。半年後に老中を辞任するもすぐに再任された。天狗党の乱鎮圧の功により二万石を加増され、1866年に武蔵川越八万四百石となった。
1867年に会計総裁に任ぜられ、1868年2月に老中を辞任して恭順の意を表したが認められず、近江国内の二万二千五百石余を没収され、上洛して謝罪するも謹慎を命ぜられた。松平姓から松井姓に復し、東山道総督府に協力をひたすら申し出たので、金三千両などを献納した。
十三代康載は戸田松平家からの養子で、1869年に家督相続してすぐに版籍奉還して川越藩知事に任ぜられ、1871年に廃藩置県を迎えた。その後、松井家と離縁して実家戻ったのち旧安中藩板倉家の婿養子となり、勝観と名をあらためた。
十二代 松平 康英(やすひで)【1830~1904】
松平康済の長男。初名康直。享年75。
棚倉藩主 在職期間:1864年(35)~1866年(37)
川越藩主 在職期間:1866年(37)~1869年(40)隠居
正室は分家 松平康正の娘。継室は旗本 鍋島直正(直政)の娘。
十三代 松井 康載(やすとし)【1854~1923】
信濃松本藩主戸田光庸の九男。享年70。
松井松平家と戸田松平家は白河藩阿部家を通しての婚姻関係がある。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
家康と松平一族(安城市歴史博物館)
現代華族譜要(維新史料編纂会 編 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。