こんにちは、勘矢です。
前回に続き大給松平家について調べたことをまとめました。
1. 府内藩系大給松平家
大給松平氏の家祖乗元の曾孫近正ははじめ宗家松平家乗の家老で、幼少の家乗に代わりに小牧長久手の戦いに出陣した。1590年の徳川家の関東移封の際に御家人となり、上野三蔵(群馬県高崎市)で五千五百石を与えられた。1600年の関ヶ原の戦いで伏見城を守って戦死した。
関ヶ原の戦い後、一生は下野板橋(栃木県今市市)一万石を与えられ諸侯に列し、二代成重は1617年に三河西尾二万石、1621年に丹波亀山へ転封となった。三代忠昭は豊後亀川、中津留を経て1658年に豊後府内二万二千二百石に入封した。
幕末の近説は寺社奉行、若年寄を歴任し、1868年に大給氏に改称した。
この家から9家の旗本家を輩出している。
松平 近正(ちかまさ)【1547~1600】
松平親清の子。享年54。妻は大久保六左衛門の娘。
2. 豊後府内藩主
(1)立藩から西尾を経て亀山へ
松平近正が伏見城で戦死すると子の一生が家督相続し、上野三蔵から下野板橋へ移され、加増されて一万石となり諸侯に列した。1602年に常陸の佐竹氏が出羽へ転封となると、松平(松井)康重らと水戸城番をつとめた。佐竹氏の旧臣らによる反乱が起きたが鎮圧した。
二代成重は、1614年に安房の里見氏が伯耆へ転封されると館山城請取りをつとめ、同年の大坂冬のでは小田原城を守備した。夏の陣では戦功を挙げ、1617年に一万石を加増されて三河西尾二万石となった。1621年にさらに加増されて丹波亀山二万二千二百石となった。
初代 松平 一生(かずなり)【1570~1604】
松平近正の長男、母は大久保六左衛門の娘。享年35。
在職期間:1600年(31)~1604年(35)
正室は松平忠成の娘。
二代 松平 成重(なりしげ)【1594~1633】
松平一生の長男、母は松平忠成の娘。享年40。
下野板橋藩主 在職期間:1604年(11)~1617年(24)
西尾藩主 在職期間:1617年(24)~1621年(28)
丹波亀山藩主 在職期間:1621年(28)~1633年(40)
正室は下総小見川藩主 安藤重信の娘、継室は徳川家康の養女(松平康元の娘)。
松平 勝広(かつひろ)【1616~1631】
松平成重の長男、母は安藤重信の娘。父に先立ち没した。享年16。
(2)豊後への転封
成重の長男勝広は早世し、二男忠昭が嫡子となり1633年に家督相続した。翌年に豊後亀川へ転封となり、さらに1635年には中津留に移封となった。島原の乱では天草に出陣した。1642年に豊後高松へ転封となり、さらに1658年に豊後府内二万二千二百石となった。
三代 松平 忠昭(ただあき)【1617~1693】
松平成重の二男、母は安藤重信の娘。享年77。
丹波亀山藩主 在職期間:1633年(17)~1634年(18)
豊後亀川藩主 在職期間:1634年(18)~1635年(19)
豊後中津留藩主 在職期間:1635年(19)~1642年(26)
豊後高松藩主 在職期間:1642年(26)~1658年(42)
豊後府内藩主 在職期間:1658年(42)~1676年(60)隠居
正室は旗本 酒井忠正の娘。
(3)豊後府内藩(前期)
四代近陳は父忠昭の隠居により家督相続し、このとき弟の近鎮に千石と新墾田五百石、近良に新墾田千石を分与したので、二万千二百石となった。1685年に奏者番となった。五代近禎は1708年に奏者番となり、その後寺社奉行を兼任した。1713年に弟近苗に蔵米五百石を分与した。
六代近貞は三河田原藩主三宅康雄の二男で四代近陳外孫にあたる。近禎の長男虎之助が早世したため婿養子となって家督相続した。この頃は藩財政は破綻状態で、領内の豪商からの借財が増大した。定免制の導入や厳しい倹約令を発した。
七代近形は「郷中法度」の発令や商業振興を行った。1769年に大地震により府内城の櫓が全て倒壊する被害が起きた。
四代 松平 近陳(ちかのぶ)【1638~1719】
松平忠昭の長男、母は酒井忠正の娘。享年82。
在職期間:1676年(39)~1705年(68)隠居
正室は武蔵岩槻藩主 阿部重次の娘、継室は下野烏山藩主 板倉重矩の娘。
五代 松平 近禎(ちかよし)【1665~1725】
松平近陳の二男、母は阿部重次の娘。享年61。
在職期間:1705年(41)~1725年(61)
六代 松平 近貞(ちかさだ)【1689~1757】
在職期間:1725年(37)~1745年(57)隠居
正室は松平近禎の娘。
七代 松平 近形(ちかのり)【1723~1773】
松平近貞の長男、母は野村氏。享年51。
在職期間:1745年(23)~1770年(48)隠居
(4)豊後府内藩(後期)
八代近儔は父の隠居により家督相続し、在任中は大凶作や災害が続いた。「七島藺(しちとうい)」と呼ばれる畳表を藩の特産品として専売にして統制保護した。遊焉館を創設して学問や武芸の奨励に尽力した。
九代近義は兄の養子となり家督相続したが、1807年に参勤途上の駿河の岡部宿で急逝した。十代近訓は八代近儔の実子でわずか9歳で家督相続したので、隠居の近儔が後見役をつとめた。十一代近信は加賀藩の分家富山藩の前田家から婿養子となって家督相続した。
十二代近説は桑名藩の久松松平家からの養子で、寛政の改革を行った松平定信の孫にあたる。近説は急養子として迎え入れられ、隠居の近訓が藩政を執り、財政改革を行って財政はやや好転した。近説は1864年に奏者番、さらに寺社奉行を兼任した。1865年の第二次長州征討には小倉へ出兵した。1867年に若年寄(会計奉行兼務)となった。
1868年に薩摩藩を通じて朝廷へ恭順の誓詞を提出し、松平から大給に改姓して入京した。翌年に府内藩知事に任ぜられ、1871年に廃藩置県を迎えた。
八代 松平 近儔(ちかとも)【1755~1840】
松平近形の長男。享年86。
在職期間:1770年(16)~1804年(50)隠居
九代 松平 近義(ちかよし)【1770~1807】
松平近形の三男。享年38。
在職期間:1804年(35)~1807年(38)
十代 松平 近訓(ちかくに)【1799~1852】
松平近儔の子。享年54。
在職期間:1807年(9)~1831年(33)隠居
十一代 松平 近信(ちかのぶ)【1804~1841】
越中富山藩主 前田利幹の二男。享年38。
在職期間:1831年(28)~1841年(38)
正室は松平近訓の養女(松平近儔の娘)。
十二代 松平 近説(ちかよし)【1828~1886】
伊勢桑名藩主 松平(久松)定永の十一男。享年59。
在職期間:1841年(14)~1871年(44)1869年より知藩事
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
日本人名大辞典(講談社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。