探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

久松松平家~今治藩とその分家~

こんにちは、勘矢です。

今回は今治藩系の久松松平家について調べたことをまとめました。

 

 

1. 今治藩久松松平家

(1)江戸時代前期

 松平定勝の五男定房は1625年に伊勢長島で七千石を賜り、1635年に兄定行が伊予松山へ転封となるとき、二万三千石を加増され伊予今治三万石となり、諸侯に列した。1637年の島原の乱に従軍し、1665年に大留守居となり、武蔵・下総・下野・常陸国内で一万石を加増されて四万石となった。定房の長男定経は早世したため、二男定時が跡を継いだ。

 定時の長男定直は宗家の伊予松山藩を相続したため、二男定陳がわずか10歳で家督相続し、このとき弟の定昌に関東の領地から五千石を分与したので三万五千石となった。1698年に関東の五千石を伊予国内に移された。

 

初代 松平 定房(さだふさ)【1604~1676】

 松平定勝の五男、母は奥平貞友娘。享年73。

 在職期間:1635年(32)~1674年(71)隠居

 正室陸奥磐城平藩主 内藤政長の娘。

 

松平 定経(さだつね)【1630~1670】

 松平定房の長男、母は内藤政長娘。父に先立ち没した。享年41。

 妻は伊勢桑名藩主 松平定綱の娘。

 

二代 松平 定時(さだとき)【1635~1676】

 松平定房の二男、母は内藤政長娘。享年42。

 在職期間:1674年(40)~1676年(42)

 

三代 松平 定陳(さだのぶ)【1667~1702】

 松平定時の二男。享年36。

 在職期間:1676年(10)~1702年(36)

 正室は越後新発田藩主 溝口重雄の娘。

 

 

(2)江戸時代中期

 四代定基は1707年から駿府城番を2年つとめた。定基には世子がなかったため、叔父定昌の六男定郷を婿養子に迎えて家督相続させた。定郷の在任中は享保の大飢饉やウンカの大発生により藩財政は大打撃を受けた。定郷の嫡子定温は早世したため、孫の定休が嫡孫承祖した。七代定剛は藩校克明館設け、殖産興業にも尽力した。

 

四代 松平 定基(さだもと)【1686~1759】

 松平定陳の子、母は溝口重雄娘。享年74。

 在職期間:1702年(17)~1732年(47)隠居

 正室は肥後熊本藩主 細川綱利の養女 初(越後糸魚川藩主 松平直丘の娘)。

 

五代 松平 定郷(さださと)【1702~1763】

 松平定昌の六男。享年62。

 在職期間:1732年(31)~1763年(62)

 正室は松平定基の娘 遊。

 

松平 定温(さだよし)【1724~1762】

 松平定郷の長男、母は松平定基の娘。父に先立ち没した。享年39。

 正室因幡鳥取新田(東館)藩主 池田仲央の娘。

 

六代 松平 定休(さだやす)【1752~1820】

 松平定温の子、母は池田仲英娘。享年69。

 在職期間:1763年(12)~1790年(39)隠居

 正室伊予松山藩主 松平定静の娘。

 

七代 松平 定剛(さだよし)【1769~1843】

 松平定休の子。享年75。

 在職期間:1790年(20)~1824年(54)隠居

 正室は上野沼田藩主 土岐定経の娘 磯。

 

 

(3)江戸時代後期

 八代定芝は父定剛の政策を継承した。1834年に従弟で旗本池田政行の二男勝道を婿養子にした。勝道は奏者番をつとめた。勝道は養父定芝の三男定法を養子として家督相続させた。定法は宗家松山藩に合わせて新政府に恭順し、1868年の鳥羽伏見の戦いでは京都に藩兵を送って御所の警衛にあたり、その後、江戸や会津などの攻撃に参加した。同年、松平姓から久松姓に復した。1869年に版籍奉還して今治知藩事に任ぜられ、1871年廃藩置県を迎えた。

 

八代 松平 定芝(さだしげ)【1791~1837】

 松平定剛の子、母は土岐定経娘。享年47。

 在職期間:1824年(34)~1837年(47)

 正室は石見浜田藩主 松平康定の娘 知。

 

九代 松平 勝道(かつつね)【1813~1866】

 旗本 池田政行の二男。初名は定保。享年54。

 在職期間:1837年(25)~1862年(50)隠居

 正室は松平定芝の娘 久。

 

十代 松平 定法(さだのり)【1834~1901】

 松平定芝の三男。享年68。

 在職期間:1862年(29)~1871年(38)※1869年から知藩事

 正室は公家 綾小路俊賢の娘 幹。

 

久松松平氏系図(定勝系・今治藩)



今治城



 

 

2. 今治藩の分家旗本家

(1)旗本:松平豊前守家

 松平定時の三男定昌は、1676年に父の遺領から下総・下野国内で五千石を分与され、寄合に列した。二代定武は嗣子なく弟定秀を養子にした。五代定能は甲府勤番をつとめ、「甲斐国志」を編纂した。

 

初代 松平 定昌(さだまさ)【1670~1731】

 松平定時の三男。初名定道。

 1676年にわずか7歳で分家。中奥の御小姓。享年62。

 妻は松平美作守家臣 早川源太左衛門の娘。

 

二代 松平 定武(さだたけ)【1710~1739】

 松平定昌の八男。

 1731年に22歳で家督相続。中奥の御小姓。享年30。

 妻は豊後臼杵藩主 稲葉恒通の娘。

 

三代 松平 定秀(さだひで)【1724~1764】

 松平定昌の九男。

 1739年に16歳で家督相続。中奥の御小姓。享年41。

 妻は豊後府内藩主 松平(大給)近貞の娘。

 

四代 松平 定則(さだのり)【1756~1773】

 松平定秀の長男、母は松平近貞の娘。

 1764年にわずか9歳で家督相続。享年18。

 

五代 松平 定能(さだまさ)【1758~?】

 旗本 小笠原長恒の二男、母は前田長泰の娘。定能の曽祖父胤次は久松松平氏から小笠原氏へ養子入り。

 1773年に16歳で家督相続。御持筒頭、甲府勤番支配、大番頭、駿府城代

 妻は松平定則の養女(松平定秀の娘)。

 

松平 定規(さだのり)【1771~?】

 伊予今治藩主松平定休の三男。

 妻は旗本 牧野忠義の娘。

 

六代 松平 定賢 【?~?】

 松平定規の子。通称豊前守。1821年に家督相続。

 

七代 松平 定正 【?~?】

 松平定賢の子。通称侶之允、石見守。別名勝雅。1838年家督相続。

 持頭、小姓組番頭、奥詰銃隊頭、御使番。

 

※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。

 

参考文献:

 江戸時代全大名家事典(東京堂出版

 日本史諸家系図人名事典(講談社

 江戸大名家血族事典(新人物往来社

 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社

 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版

 名門・名家大辞典(東京堂出版

 日本名字家系事典(東京堂出版

 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社

 徳川諸家系譜 第四(続群書類従完成会

 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

 寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。