探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

久松松平家~旗本家~

こんにちは、勘矢です。

今回は定実系と定政系の久松松平氏について調べたことをまとめました。

 

 

1. 定実系久松松平氏

(1)旗本:松平伊勢守家

 松平定勝の四男定実は徳川家康に仕え、大坂夏の陣で功があったが軍法に違うことがあり御勘気を蒙り、掛川藩主の兄定行の元で蟄居した。その子定之は1665年に蔵米二千俵を与えられ、1697年に蔵米を改められ、安房国内で二千石を与えられた。定由・定相は1701年、刃傷により改易となった浅野長矩の親戚のため出仕を止められた。

 七代定朝は1827から1835年まで京都町奉行をつとめた。1853年に「花菖培養録」を著した。

 

花菖培養録(国立国会図書館デジタルコレクション)

dl.ndl.go.jp

 

(寛政年間までの当主)

初代 松平 定実(さだざね)【1597~1632】

 松平定勝四男、母は奥平貞友の娘。享年36。

 妻は井上氏の娘。

 

二代 松平 定之(さだゆき)【1620~1699】

 松平定実の二男、母は井上氏の娘。

 1665年(46)に寄合に列した。1698年に79歳で隠居。享年80。

 妻は伊予松山藩松平家家臣 奥平貞由の娘。

 

三代 松平 定由(さだよし)【1650~1720】

 松平定之の長男、母は松平隠岐守家臣 奥平貞由の娘。

 1698年に49歳で家督相続。新番頭。享年71。

 妻は播磨赤穂藩主 浅野長直の養女(家臣 大石良重の娘)。

 

四代 松平 定相(さだすけ)【1675~1722】

 松平定由の長男、母は浅野長直の養女。

 1720年に46歳で家督相続。寄合。享年48。

 妻は旗本 小笠原胤次の娘、胤次は二代定之の五男。

 

五代 松平 定蔵(さだもち)【1704~1771】

 上野前橋藩主 酒井家家臣 松平定員の子、母は同家家臣 新井正為の娘。定員は定之の三男。

 1722年に19歳で家督相続。西ノ丸御書院番、大番頭。享年68。

 妻は旗本 平野長喜の養女(長門府中藩主 毛利匡広の娘)。

 

松平 定栄(さだなが)【1725~1752】

 松平定蔵の長男。父に先立ち没した。享年28。

 

六代 松平 定寅(さだとら)【1742~1796】

 松平定蔵の二男、母は杉本氏。

 1771年に30歳で家督相続。御先鉄砲頭、盗賊追捕。享年55。

 妻は播磨三日月藩主 森俊春の養女。

 

七代 松平 定朝(さだとも)【1773~1856】

 松平定寅の長男、母は岡氏。

 1796年に24歳で家督相続。京都町奉行、小普請組支配。享年84。

 妻は旗本 伊沢方守の娘。

 

(寛政以降の人物)

松平 勝安  【?~?】

 松平左金吾の子。御使番、長州征討軍目付。

 

 

(2)旗本:松平源大夫家

 松平定実の三男定寛は1665年に蔵米千俵を賜り寄合に列した。1697年に蔵米を改め下野国内で千石を賜りました。定寛の長男定冬は病弱のため家督は定隆が相続した。

 

(寛政年間までの当主)

初代 松平 定寛(さだひろ)【1626~1709】

 松平定実の三男、母は井上氏の娘。

 1665年(40)に寄合に列した。1704年に79歳で隠居。享年84。

 妻は松平定綱の養女。

 

二代 松平 定隆(さだたか)【1653~1725】

 松平定寛の二男、母は松平定綱の養女。

 1704年に52歳で家督相続。御小姓組組頭。1720年に68歳で隠居し、隠居料として蔵米三百俵。享年73。

 妻は高家 戸田氏豊の養女(大垣藩戸田家一族 戸田氏方の娘)。

 

三代 松平 定為(さだため)【1686~1762】

 松平定冬の二男。

 叔父定隆の養子となり、1720年に35歳で家督相続。御書院番、西ノ丸御先鉄砲頭。享年77。

 妻は一族 松平定知の娘。

 

四代 松平 定岡(さだおか)【1717~1771】

 松平定為の長男。

 1762年に46歳で家督相続。御書院番。享年55。

 妻は旗本 青木直宥の娘。

 

五代 松平 定堅(さだかた)【1747~1804】

 松平定岡の長男、母は青木直宥の娘。

 1771年に25歳で家督相続。御使番、寄合。享年58。

 妻は旗本 渥美友将の娘。

 

六代 松平 定省(さだみ) 【?~?】

 松平定堅の長男。通称源太郎 。1804年に家督相続。

 

(寛政以降の人物)

松平 勝文  【?~?】

 坪内源五郎の子。通称源大夫、初名定以。1819年に家督相続。御使番、講武所頭取。

 

久松松平氏系図(定実系旗本)

(3)旗本:久松佐仲家

 松平定之の八男玄仲は、角倉了以の子孫玄方の養子となり、一条家の家臣堀川弘之の娘を妻に迎えた。しかし、故あって離婚し、妻は実家に帰ったあと定代を産んだ。定代の母は大奥に入って天英院に仕え佐川となり、その願いにより定代1712年に新番となり、蔵米二百五十俵を賜った。玄仲の実家の久松を称した。

 

(寛政年間までの当主)

初代 久松 定代(さだよ)【?~1736】

 角倉玄仲の子、母は一条家の家臣 堀川弘之の娘。

 

二代 久松 定賢(さだやす)【1719~1757】

 久松定代の長男。1736年に18歳で家督相続。西ノ丸の新番。享年39。

 妻は旗本 三浦直輝の娘、後妻は旗本 太田重秀の娘。

 

三代 久松 敞芳(たかよし)【1741~1777】

 旗本 土屋知庸の三男。1757年に17歳で家督相続。御納戸番。享年37。

 妻は松平定賢の娘。

 

四代 久松 定敞(さだたか)【1761~?】

 久松敞芳の長男、母は松平定賢の娘。

 1777年に17歳で家督相続。火番。

 妻は楠政満の娘。

 

 

2. 定政系久松松平氏

(1)刈谷藩

 松平定勝の六男定政は1633年に三代将軍徳川家光の御小姓となり、翌年に伊勢国内で五千石を与えられ、御小姓組組頭となった。1635年に兄定房が領していた伊勢長島七千石となり、1649年に一万三千石を加増されて祖母於大の方ゆかりの地である三河刈谷で二万石を領した。

 1651年に将軍家光が没すると嫡子定知とともに出家して能登入道不白と称し、井伊直孝宛てに所領及び邸宅などを返還する旨を記した文書を道歌を添えて提出した。さらに幕府を非難する書状を提出したことにより、狂気の沙汰とみなされ所領を没収され、兄定行に預けられて伊予松山にて蟄居した。

 

初代 松平 定政(さだまさ)【1610~1672】

 松平定勝の六男、母は奥平貞友娘。享年63。

 在職期間:1649(40)~1651(42)

 正室は山城淀藩主 永井尚政の娘。

 

久松松平氏系図(定政系旗本)



於大の方由緒の地

於大の方の像




 

(2)旗本:松平数馬家

 松平定政の嫡男定知は父とともに伊予松山にいたが、1658年に召されて四代将軍徳川家綱に拝謁し、1673年に蔵米五百俵を賜り寄合に列した。1697年に蔵米を改められて下野国内で千五百石を賜った。

 定知の嫡子定允は早世したため、従弟で京都所司代 永井尚庸の三男定盈を婿養子に迎えた。四代定得は浦賀奉行をつとめた。

 定政の三男定清は、兄定知と同様に1658年に召されて四代将軍徳川家綱に拝謁し、1673年に蔵米五百俵を賜り寄合に列した。しかし定清は嗣子がなかったため一代で断絶した。

 

(寛政年間までの当主)

初代 松平 定知(さだとも)【1645~1708】

 松平定政の長男、母は永井尚政の娘。1697年に53歳で隠居。享年64。

 

松平 定清(さだきよ)【1647~1689】

 松平定知の三男、母は永井尚政の娘。享年43。

 

二代 松平 定盈(さだみち)【1665~1725】

 京都所司代 永井尚庸の三男。定盈の伯母が家祖定政の正室

 定知の婿養子となり、1697年に33歳で家督相続。御使番、御先鉄砲頭。享年61。

 妻は松平定知の娘。

 

三代 松平 定賢(さだかた)【1709~1757】

 松平定盈の長男、母は松平定知の娘。

 1725年に17歳で家督相続。御小姓組。1755年に47歳で隠居。享年49。

 妻は旗本 永井寿昌の娘。

 

四代 松平 定得(さだのり)【1732~1785】

 松平定賢の長男、母は永井寿昌の娘。

 1755年に24歳で家督相続。御小姓組、御目付、浦賀奉行、西ノ丸新番頭。享年54。

 妻は一族 松平定為の娘。

 

五代 松平 定慮(さだのぶ)【1759~1795】

 伊勢長島藩主 増山正贇の七男、母は細川利泰の娘。

 1785年に27歳で家督相続。御小姓組の番士。享年37。

 妻は旗本 永見為貞の娘、後妻は一族 松平定岡の娘(先代定得の妻の姪)。

 

六代 松平 定節(さだとき)【1781~?】

 松平定慮の長男、母は松山氏。

 1795年に15歳で家督相続。

 

 

(3)旗本:松平対馬守家

 松平定政の二男定澄は、1674年に伊予松山藩主松平定直より蔵米千五百俵を分け与えられ、寄合に列した。1679年に上野・下野国内で五百石を賜った。定澄に嗣子ないため妹を養女にし、久松松平の嫡流伊勢長島藩より定員を婿養子に迎えた。定員の長男直好は越前松平家の支流糸魚川松平家の養子となった。

 四代定胤は1785年に松山藩主松平定国より蔵米千石を分け与えられて、五百石・蔵米二千五百俵となった。定胤の嫡子定経は父に先立ち没したため、伊勢長島藩主 増山正贇の八男定謐を婿養子に迎えた。定謐は駿府城代をつとめた。

 

初代 松平 定澄(さだずみ)【?~1705】

 松平定政の二男、母は永井尚政の娘。

 御小姓組組頭、駿府定番。

 妻は公家 三条公富の娘。

 

二代 松平 定員(さだかず)【1662~1745】

 伊勢長島藩主 松平(久松)康尚の五男、母は朝山氏。

 定澄の婿養子となり、1705年に44歳で家督相続。1730年に69歳で隠居。享年84。

 妻は松平定澄の養女(松平定政の娘)。

 

三代 松平 定卓(さだたか)【1711~1767】

 松平定員の二男。

 1730年に20歳で家督相続。御小姓組の番士、御使番。享年57。

 妻は大岡忠利の娘。寛政譜にて忠利娘で定卓に嫁いだ娘は確認できない。

 

松平 定広(さだひろ)【?~?】

 松平定卓の長男。父に先立ち没した。妻は旗本 依田守庸の娘。

 

四代 松平 定胤(さだたね)【1744~1799】

 松平定卓の五男。

 1767年に24歳で家督相続。御小納戸、御小姓組番頭。享年56。

 妻は越前鯖江藩主 間部詮方の娘。

 

松平 定経(さだつね)【1771~1786】

 松平定胤の長男。西ノ丸御小姓。父に先立ち没した。享年16。

 

五代 松平 定謐(さだあつ)【?~?】

 伊勢長島藩主 増山正贇の八男。

 1799年に家督相続。大番頭、駿府城代、西ノ丸御側。

 妻は松平定胤の娘。

 

六代 松平 定寧(さだやす) 【?~?】

 松平定謐の子。通称隼人正。1832年家督相続。中奥御小姓。

 

七代 松平 定浱 【?~?】

 松平定寧の子。通称小十郎。1837年に家督相続。

 

八代 松平 勝実 【?~?】

 松平左金吾の子。(1)松平伊勢守家の松平勝安と兄弟ではないかと推測される。

 定浱の養子となり1854年家督相続。御目付、銃隊奉行。

 

※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。

 

参考文献:

 江戸大名家血族事典(新人物往来社

 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版

 名門・名家大辞典(東京堂出版

 日本名字家系事典(東京堂出版

 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社

 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

 寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。