探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

深溝松平家~島原藩の分家旗本家~

こんにちは、勘矢です。
今回は前回(深溝松平家~肥前島原藩~ - 探検!日本の歴史)の続きで深溝松平家の分家の旗本家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 忠貞系の旗本家

(1)旗本:松平惣兵衛家

 松平家忠の二男忠貞は召し出されて徳川家康に近侍し、御書院番をつとめた。1610年に三河国内で千石を与えられ、子の忠良のときに蔵米千二百俵を与えられ、上野・下野国内で五百石を与えられた。1687年に四代忠和は弟高久に蔵米二百俵を分与し、蔵米を改められ相模・下野国内で千五百石となった。高久の子忠晴は本家の養子となったため、高久家は断絶となった。
 
(寛政年間までの当主)
初代 松平 忠貞(たださだ)【1588~1619】
 松平家忠の二男、母は水野忠分の娘。御書院番。享年32。
 妻は旗本 彦坂光正の娘。
 
二代 松平 忠良(ただよし)【1616~1692】
 松平忠貞の長男、母は彦坂光正の娘。
 1620年にわずか5歳で家督相続。御書院番、御小姓組の番士、御先鉄砲頭。1685年に70歳で隠居し、隠居料蔵米三百俵。享年77。
 妻は高家 吉良義弥の娘。
 
三代 松平 忠福(ただよし)【1637~1687】
 松平忠良の長男、母は吉良義弥の娘。
 1685年に49歳で家督相続。御書院番。享年51。
 妻は旗本 荒川定安の娘。定安の兄は吉良義弥。
 
四代 松平 忠和(ただかず)【1662~1710】
 松平忠福の長男、母は荒川定安の娘。
 1687年に26歳で家督相続。御小姓組の番士。享年49。
 
松平 高久(たかひさ)【1667~1725】
 松平忠福の三男、母は荒川定安の娘。御小納戸番、新番。享年59。
 
五代 松平 忠豊(ただとよ)【1675~1724】
 松平忠福の四男、母は荒川定安の娘。
 1710年に36歳で家督相続。享年50。
 
六代 松平 忠晴(ただはる)【1712~1733】
 松平高久の長男。
 1724年に13歳で家督相続。享年22。
 
七代 松平 忠頼(ただより)【1716~1767】
 一族松平忠郷の二男。
 1733年に18歳で家督相続。西ノ丸御小姓組。1764年に49歳で隠居。享年52。
 妻は松平忠晴の養女(松平高久の娘)
 
八代 松平 忠直(ただなお)【1737~1789】
 松平忠頼の長男、母は松平忠晴の養女。
 1764年に28歳で家督相続。御書院番。1775年に39歳で隠居。享年53。
 妻は旗本 安藤信歴の娘。後妻は旗本 小栗信倚の娘。信倚の妻は忠豊の養女(高久の娘)。
 
九代 松平 忠朋(ただとも)【1750~?】
 松平忠頼の二男、母は松平忠晴の養女。
 1775年に26歳で家督相続。御小姓組、御使番。
 妻は旗本 岡村直昌の娘。
 
松平 忠堯(ただたか)【1774~1790】
 島原藩主 松平忠恕の八男。忠朋の婿養子となるも養父に先立ち没した。享年17。妻は忠朋の娘。
 
松平 忠温(ただあつ) 【?~?】
 高家 織田信直の三男。忠朋の婿養子。妻は忠朋の娘。
 
(寛政以降の人物)
松平 忠雅 【?~?】
 松平長三郎の子。求馬。中奥番、西ノ丸目付。
 
松平 忠貫 【?~?】
 石河土佐守の子。剛之助。1847年に養父の隠居により家督相続。御使番。
 

旗本深溝松平氏系図
 

(2)旗本:松平善兵衛家

 松平善兵衛家は松平忠貞の二男忠治から始まり、上野・下野・常陸国内で八百石。忠治は隠居すると隠居料として蔵米三百俵を与えられた。忠治の二男貞友は御小姓組に列して蔵米三百俵を与えられたが、のちに父の隠居料を与えられて先の三百俵は収められた。貞友は嗣子なく断絶した。
 
旗本:松平善兵衛家
(寛政年間までの当主)
初代 松平 忠治(ただはる)【1619~1705】
 松平忠貞の二男。1693年に75歳で隠居。享年87。
 
二代 松平 景治(かげはる)【?~1698】
 松平忠治の長男。1693年に家督相続。
 
三代 松平 忠郷(たださと)【1684~1767】
 松平景治の長男。1698年に15歳で家督相続。享年84。
 
四代 松平 忠寿(ただなが)【1735~?】
 松平忠直の子。1767年に33歳で家督相続。
 
松平 貞友(さだとも)【?~1720】 松平忠治の二男。別家。
 

2. 忠一系の旗本家

(1)旗本:松平庄九郎家

 松平家忠の三男忠一は秀忠に近侍して御書院番の番士をつとめ、蔵米五百俵を与えられた。忠一は大坂夏の陣で戦死し、子がないため弟忠隆にその家を継がせ、三河国内で千石与えられた。
 四代伊行の長男忠久は病により廃嫡、二男忠雄は島原藩の本家へ養子に行ったため母方の従兄弟朝倉高興の二男忠正を養子にした。忠正は娘のみだったので実弟忠全を養子にし、忠正の娘は忠全の養女となった。忠全には子がなく、五井松平忠一の二男忠至を養子とし養女と婚約させたが先立たれ、同じく三男の忠郷を養子とした。
 七代忠郷は御書院番、御徒頭を経て目付となり、日光山の御宮御霊屋修造、東照宮百五十回忌の法会を担当した。その後、勘定奉行大目付と進み、1784年に佐野政言田沼意知を斬り付けた際に、速やかに政言を捕らえたことを賞されて上野国内で二百石を加増された。
 
(寛政年間までの当主)
初代 松平 忠一(ただかづ)【1580~1615】
 松平家忠の三男、母は水野忠分の娘。享年36。
 
二代 松平 忠隆(ただたか)【1596~1627】
 松平家忠の五男、母は水野忠分の娘。享年32。
 妻は旗本 山岡景以の娘。
 
三代 松平 忠久(ただひさ)【1621~1693】
 松平忠隆の長男、母は山岡景以の娘。
 1627年にわずか7歳で家督相続。御小姓組の番士。享年73。
 妻は旗本 朝倉在重の娘。
 
四代 松平 伊行(これゆき)【1645~1715】
 松平忠久の長男、母は朝倉在重の娘。
 1693年に49歳で家督相続。御書院番。1708年に64歳で隠居。享年71。
 妻は旗本 石丸定次の娘。
 
五代 松平 忠正(ただまさ)【1681~1714】
 旗本 朝倉高興の二男、母は岡田利永の娘。
 1708年に28歳で家督相続。御小姓組。享年34。
 妻は旗本 大井政長の娘。
 
六代 松平 忠全(ただたけ)【1685~1740】
 旗本 朝倉高興の三男、母は岡田利永の娘。
 1714年に30歳で家督相続。御書院番、御使番。享年56。
 妻は旗本松平(深溝)忠位の養女(甲府藩柳沢家家臣 平岡資因の娘)。
 
七代 松平 忠郷(たださと)【1715~1789】
 旗本 松平(五井)忠一の三男、母は松平忠充の娘。
 1740年に26歳で家督相続。勘定奉行大目付、旗奉行。享年75。
 妻は旗本 稲垣種信の娘。後妻は旗本 小笠原信重の娘。後々妻は旗本 大岡忠恒の養女(旗本 大岡忠利の娘)。
 
八代 松平 忠勧(ただゆき)【1742~?】
 常陸笠間藩主 牧野貞通の十七男、母は佐藤氏。
 1789年に48歳で家督相続。御小姓組の番士。
 妻は①高家 堀川広益の娘。②旗本 大井持長の娘、五代忠正の妻の甥の娘。③旗本 三枝守知の三女、④同四女。⑤高家大友義武の娘。
 

旗本深溝松平氏系図
 

(2)旗本:松平隼人家

 松平忠隆の二男忠冬は1650年に召し出されて西ノ丸の御書院番となり、1652年に蔵米三百俵を与えられた。その後、昇進と加増を繰り返して1680年に町奉行となり蔵米千俵と知行地千石となった。同年、徳川綱吉の長男徳松の附属となって新たに美濃・上野国内で三千石を与えられ、元の蔵米と知行地は長男忠成に与えられた。その後、忠冬は勘定奉行、御側衆となり、先に忠成に与えられた蔵米と知行地を戻されて五千石となった。
 また、忠冬は祖父家忠の「家忠日記」を修正増補した「家忠日記増補追加」全二十五巻、綱吉の命を受けて二代将軍秀忠の事跡をまとめた「東武実録」全四十巻を献上した。
 二代忠成は家督相続時に弟忠成に五百石を分け与え、蔵米千俵知行地に改められ、美濃国内で四千五百石を知行した。
 
初代 松平 忠冬(ただふゆ)【1624~1702】
 松平忠隆の二男、母は山岡景以の娘。1697年に74歳で隠居。享年79。
 
二代 松平 忠成(ただなり)【1673~1730】
 松平忠冬の長男、母は森寺氏。
 1697年に25歳で家督相続。1713(41)。享年58。
 
三代 松平 忠位(ただとき)【1693~1750】
 甲府藩柳沢家家臣 平岡資因の子、母は島原藩松平家家臣 生形勝美の娘。
 1713年に21歳で家督相続。享年58。
 妻は旗本 杉浦正奉の娘。
 
四代 松平 忠堅(ただかた)【1726~1756】
 島原藩松平家家臣 松平康矩の子、母は同家の家臣 酒井政昉の娘。
 1750年に25歳で家督相続。享年31。
 妻は松平忠位の娘(婚約)
 
五代 松平 忠宜(ただよし)【1729~1756】
 三河西尾藩主 土井利庸の二男。
 1756年に28歳で家督相続するもまもなく没した。享年28
 
六代 松平 忠孝(ただたか)【1741~?】
 肥前島原藩主 松平忠刻の三男。
 1756年に16歳で家督相続。甲府勤番支配。1785年に45歳で隠居。
 妻は丹波福知山藩主 朽木玄綱の娘。旗本 朽木紀綱の娘。
 
七代 松平 忠寧(ただやす)【1767~?】
 松平忠孝の長男。
 1785年に19歳で家督相続。定火消、御書院番、大番頭。
 妻は旗本 溝口直之の娘(離婚)。後妻は肥前島原藩主 松平忠恕の娘。
 
八代 松平 隼人 【?~1827】
 松平忠寧の養子。1817年に養父の隠居により家督相続。
 
九代 松平 忠昌 【?~1852】
 松平隼人の子。通称長八郎。1827年家督相続。火消役、百人組頭。
 
十代 松平 忠麗 【?~1863】
 松平忠昌の子。通称隼之助。1850年家督相続。
 
十一代 松平 直三郎【?~?】
 松平忠昌の子。1863年家督相続。御使番。濃飛両国通史 下巻によると諱は忠盈 。
 

(3)旗本:松平作五郎家

 松平忠冬の二男忠頼は1697年に父の遺領のうち上野国内で五百石を分与されて別家した。
 
(寛政年間までの当主)
初代 松平 忠頼(ただより)【1676~1753】
 松平忠冬の二男。1741年に66歳で隠居。享年78。
 
二代 松平 忠義(ただよし)【1713~1764】
 松平忠頼の二男。1741年に29歳で家督相続。御書院番、道奉行。享年52。
 
三代 松平 忠之(ただゆき)【1746~1810】
 旗本 小田切光禄の二男。1764年に19歳で家督相続。御書院番
 妻は松平忠義の養女(山崎正長の娘、正長の妻は初代忠頼の娘)。
 
四代 松平 忠年(ただとし)【?~?】
 松平忠之の長男、母は松平忠義の養女。1810年家督相続。妻は旗本 松下之覃の娘。
 
 

3. 忠政系の旗本家

(1)旗本:松平八十郞家

 家祖の松平定政は吉良義昭との戦いで兄好景とともに討死した。その子忠政は従兄伊忠より百六十石余の知行を分け与えられた。徳川家が関東に移ると相模国内で三百石を与えられ、先の百六十石余は二男忠勝に譲った。その後、加増されて九百石となり、関ヶ原の戦いでは江戸城西ノ丸留守居をつとめた。
 三代重次は大坂町奉行となり加増されて二千五百石となり、四代重良は御目付となり加増されて三千石となり、普請奉行、勘定奉行などをつとめた。六代勘敬は大坂町奉行、御書院番頭、御留守居などをつとめた。勘敬の二男忠刻は島原藩主となった。
 松平忠政の五男忠重は家康に仕え、大番組に所属し三百石を得たが、その子が1623年に没し絶家となった。
 
初代 松平 忠政(ただまさ)【1548~1619】
 松平定政の長男。享年72。妻は一族 松平定広の娘。
 
二代 松平 忠次(ただつぐ)【1580~1619】
 松平忠政の三男、母は松平定広の娘。
 1619年に40歳で家督相続するもまもなく没した。享年40。
 妻は安藤正次の養女(旗本 巨海忠正の娘、忠正の子忠次のとき安藤に改める)。
 
三代 松平 重次(しげつぐ)【1608~1671】
 松平忠勝の長男、母は安藤正次の養女。
 1619年に12歳で家督相続。1669年に62歳で隠居。享年64。
 妻は旗本 揖斐政景の養女(都築與右衛門の娘)。
 
四代 松平 重良(しげよし)【1649~1698】
 松平重次の長男、母は揖斐政景の養女。
 1669年に21歳で家督相続。享年50。
 妻は旗本 大島義近の娘。
 
五代 松平 重矩(しげのり)【1667~1706】
 旗本 戸田正吉の二男、母は松平重次の娘。
 伯父重良の養子となり、1698年に32歳で家督相続。大坂の御船手。享年40。
 妻は旗本 松平(久松)定由の娘(離婚)。
 
六代 松平 勘敬(すけゆき)【1686~1749】
 旗本 小笠原常春の二男、母は松平重良の養女(旗本 戸田正吉の娘)。
 1706年に21歳で家督相続。享年64。
 
七代 松平 常唯(つねまさ)【1726~1796】
 松平勘敬の四男。1749年に24歳で家督相続。御小納戸。1755年に30歳で隠居。享年71。
 妻は旗本 小笠原政登の養女(政登の子政方の娘)。
 
八代 松平 常尹(つねただ)【1737~?】
 松平勘敬の五男。1755年に19歳で家督相続。1777年に41歳で隠居。
 妻は大久保忠宜の娘(離婚)。
 
九代 松平 勘満(すけみつ)【1755~?】
 松平常唯の二男。1777年に23歳で家督相続。西ノ丸目付、小普請組支配。
 妻は旗本 堀直泰の娘。
 
十代 松平 勘英 【?~?】
 松平勘満の子、母は堀直泰の娘。八十郎。1810年に父の隠居により家督相続。
 
十一代 松平 勘美 【?~?】
 松平勘英の子。栄次郎、八十郎。1841年に父の隠居により家督相続。
 
十二代 松平 外記【?~?】
 松平助之丞の子、祖父は清水家の家老松平政周。直吉、孫大夫。1864年家督相続。組合銃隊頭。
 

旗本深溝松平氏系図
 

(2)旗本:松平彦之丞家

 松平忠政の二男忠勝が、慶長年間に父忠政の願いにより三河国国内百六十石余を分与されて成立したという。その後、加増を重ねて五代政穀のとき、三河国内で四百六十石、蔵米百三十俵となった。
 政穀は御小姓組の番士、御小納戸などを経て1725年に佐渡奉行となり、1732年に勘定奉行となった。政周は勘定奉行大目付などを経て清水家の家老となった。
 
初代 松平 忠勝(ただかつ)【1577~1614】
 松平忠政の二男、母は松平定広の娘。享年38。
 
二代 松平 政勝(まさかつ)【1607~1632】
 松平忠勝の長男。大番。享年26。
 
三代 松平 政次(まさつぐ)【1615~1652】
 松平忠次の二男。1632年に18歳で家督相続。享年38。妻は旗本 安藤忠次の娘。
 
四代 松平 政峻(まさたか)【1647~1722】
 松平政次の長男、母は安藤忠次の娘。
 1652年にわずか6歳で家督相続。御書院番の番士、二ノ丸御留守居。1720年に74歳で隠居。享年76。
 
五代 松平 政穀(まさよし)【1667~1743】
 旗本 西山昌春の二男、母は安藤忠次の娘。昌春の妻と先々代政次の妻は姉妹。
 1720年に54歳で家督相続。享年77。妻は高林次郎兵衛の養女。
 
六代 松平 政尹(まさただ)【1710~1768】
 松平政穀の二男。1743年に34歳で家督相続。御小姓組の番士、御先鉄砲頭。享年59。
 
七代 松平 政春(まさはる)【1727~1782】
 松平政尹の長男。1768年に42歳で家督相続。御小納戸。享年56。
 妻は旗本 小栗信倚の娘。旗本 西山昌俊の娘、昌俊は五代政穀の長男。
 
八代 松平 政有(まさあり)【1751~?】
 松平政春の長男、母は西山昌俊の娘。1782年に32歳で家督相続。1790年に40歳で隠居。
 
九代 松平 政周(まさとき)【1772~1847】
 松平政有の長男。彦之丞、助之丞、豊前守。1790年に19歳で家督相続。。享年76。
 妻は旗本 小川真圓の娘。
 
十代 松平 助之丞 【?~?】
 松平政周の子。御小姓。1847年に家督相続。
 
十一代 松平 鎌蔵 【?~?】
 松平助之丞の子。1856年に家督相続。御書院番、御使番、目付、歩兵頭並。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林
 日本人名大辞典(講談社
 家康と松平一族(安城市歴史博物館)
 濃飛両国通史 下巻(岐阜県教育会 編 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 岡崎市史 第7巻(岡崎市国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。