探検!日本の歴史

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深溝松平家~肥前島原藩~

こんにちは、勘矢です。
今回は深溝松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 深溝松平家

 五井松平家の忠景の二男忠定が三河国額田郡深溝(愛知県額田郡幸田町)に住んだことからはじまる。近年の研究では忠景と忠定は同一とされ、その父は信光の子正則という。
 好景は桶狭間の戦いにおいて大高城で働き、1561年に中島郷の板倉と戦い、吉良義昭との善明堤の戦いで弟定政とともに討死した。伊忠は遠江掛川城攻めや姉川の戦いなどで戦功をたてたが、長篠の戦い鳶巣山を攻めた際に戦死した。
 家忠は遠江牧野城を守り、酒井忠次に従って小牧長久手の戦いで戦った。1590年徳川家の関東移封で武蔵忍(埼玉県行田市)で一万石を与えられた。1594年に下総小見川(千葉県香取市)に転じ、関ヶ原の戦いのときは伏見城で籠城し戦死した。家忠が残した「家忠日記」は1577年から1594年に至る日記で、家康以下の諸大名の動静や武士の生活を知る好史料。また、浜松城江戸城などの多数の築城などの普請を行った。
 
松平 忠定(たださだ)【?~1531】
 松平信光の孫。松平正則の二男。妻は松平親長の娘。
 
松平 好景(よしかげ)【1516~1561】
 松平忠定の長男、母は松平(岩津)親長の娘。享年46。妻は松平(桜井)清定の娘。
 
松平 伊忠(これただ)【1537~1575】
 松平好景の長男、母は松平(桜井)清定の娘。享年39。妻は鵜殿長持の娘。
 
松平 家忠(いえただ)【1555~1600】
 松平伊忠の長男、母は鵜殿長持の娘。享年46。妻は水野忠分の娘。
 
 

2. 肥前島原藩松平家

(1)島原藩以前

 家忠の長男忠利は1600年の上杉景勝征伐に従い、その後小見川城を守備して常陸の佐竹氏に備えた。翌年、旧領の深溝を与えられた。1612年に加増されて三河吉田三万石となった。その子忠房は1632年に家督相続すると若年のため三河刈谷に転封となった。大坂加番や駿府加番をつとめ、1649年に加増されて丹波福知山四万五千九百石へ転封となり、さらに1669年に加増されて肥前島原六万五千九百石となった。
 
初代 松平 忠利(ただとし)【1582~1632】
 松平家忠の長男、母は水野忠分の娘。享年51。
 小見川藩主 在職期間:1600年(19)~1601年(20)
 深溝藩主 在職期間:1601年(20)~1612年(31)
 吉田藩主 在職期間:1612年(31)~1632年(51)
 正室三河吉田藩主 松平(竹谷)家清の娘。
 
二代 松平 忠房(ただふさ)【1619~1700】
 松平忠利の長男、母は松平家清の娘。享年82。
 刈谷藩主 在職期間:1632年(14)~1649年(31)
 福知山藩主 在職期間:1649年(31)~1669年(51)
 島原藩主 在職期間:1669年(51)~1698年(80)隠居
 

深溝松平氏系図
 

(2)島原藩(第一次)

 忠房の長男好房は早世し、二男忠倫は廃嫡となったため、1690年に一族の忠雄が養子となり1698年に家督相続した。風水害や蝗害のため藩財政は悪化し、側用人に黒川政勝を登用して財政再建するものちに藩政を牛耳るようになった。忠雄は一族の忠俔を養子にして家督相続させた。その直後に黒川政勝弾劾事件が起こり、翌年に政勝を死罪に処した。
 五代忠刻は困窮する藩財政に対処するため緊縮財政を図った。また、殖産興業策として櫨の木十万本を領内に植樹し、のちに島原の専売となる製櫨の基礎となった。1747年に奏者番となり、1749年の参勤交代の途次、周防国下松にて発病して没した。六代忠祗は若年を理由に下野宇都宮へ転封となった。
 
松平 好房(よしふさ)【1649~1649】
 松平忠利の長男。父に先立ち没した。享年21。
 正室肥前蓮池藩主 鍋島直澄の娘。
 
松平忠倫(ただとも)【1657~1718】
 松平忠利の二男。1686年に病により廃嫡。享年62。
 正室陸奥白河藩主 本多忠義の娘。
 
三代 松平 忠雄(ただお)【1673~1736】
 一族松平伊行の二男。享年64。
 在職期間:1698年(26)~1735年(63)隠居
 正室は下総佐倉藩主 戸田忠昌の養女(忠昌五男忠章の娘)。
 
松平 忠救(ただやす)【1705~1734】
 一族松平次章の子。忠雄の養子となるも養父に先立ち没した。享年30。
 
四代 松平 忠俔(ただみ)【1711~1738】
 一族松平次章の四男。享年28。
 在職期間:1735年(25)~1738年(28)
 婚約者は相模小田原藩主 大久保忠方の娘。
 
五代 松平 忠刻(ただとき)【1716~1749】
 一族松平勘敬の長男。享年34。
 在職期間:1738年(23)~1749年(34)
 正室常陸土浦藩主 土屋陳直の娘。
 
六代 松平 忠祗(ただまさ)【1738~1801】
 松平忠刻の長男、母は土屋陳直の娘。享年64。
 宇都宮藩主 在職期間:1749年(12)~1762年(25)隠居
 正室は下総佐倉藩主 堀田正亮の娘。
 
 

(3)島原藩(第二次)

 六代忠祗は病弱のため、弟忠恕を養子にして隠居した。家督相続した忠恕は1774年に旧領肥前島原にに再入封した。1792年に眉山が大噴火して崩壊し、海に土砂が突入して津波有明海沿岸に引き起こされた。「島原大変肥後迷惑」とも称された。八代忠馮は大災害の復旧と財政再建につとめた。また、藩校稽古館を創設した。十代忠侯は藩校稽古館の医学学科を独立させて、医学校済衆館を創設した。
 十代忠誠は海防防備のための軍備増強を図った。十一代忠精は兄の跡を継いで軍制改革を行い、長崎に異国船が来航する度に藩兵を派遣したので海防費用が嵩み、その上風水害などにより収入が減少した。忠精が急死すると継室伊達氏の兄弟忠淳を急養子として家督相続させたが半年後に没したため、忠精の従弟忠愛が相続するも2年後に没した。
 十四代忠和は水戸藩からの養子で、十一代忠精の正室酒井氏の姪を正室に迎えた。長州征伐では藩領の豊後高田まで出兵して幕命に応えたが、戊辰戦争では新政府軍に従い出羽久保田へアメリカ船で移動し、奥羽鎮撫総督九条道孝に従軍して各地を転戦した。戦後、慰労金五千両を下賜された。1869年に版籍奉還して島原藩知事となり、1871年廃藩置県を迎えた。
 
七代 松平 忠恕(ただひろ)【1740~1792】
 松平忠刻の二男、母は側室某女。享年53。
 宇都宮藩主 在職期間:1762年(23)~1774年(35)
 島原藩主 在職期間:1774年(35)~1792年(53)
 正室信濃松代藩主 真田信安の娘。
 
八代 松平 忠馮(ただより)【1771~1819】
 松平忠恕の六男、母は真田信安の娘。享年49。
 在職期間:1792年(22)~1819年(49)
 正室は近江彦根藩井伊直幸の娘。
 
九代 松平 忠侯(ただこれ)【1799~1840】
 松平忠馮四男、母は井伊直幸の娘。享年42。
 在職期間:1819年(21)~1840年(42)
 正室は近江彦根藩 井伊直中の娘。継室は備後福山藩主 阿部正精の娘。
 
十代 松平 忠誠(ただなり)【1824~1847】
 松平忠侯の二男、母は阿部正精の娘。享年24。
 在職期間:1840年(17)~1847年(24)
 正室遠江掛川藩主 太田資始の娘。
 
十一代 松平 忠精(ただきよ)【1832~1859】
 松平忠侯の四男、母は阿部正精の娘。享年28。
 在職期間:1847年(16)~1859年(28)
 正室は出羽鶴岡藩主 酒井忠器の娘。継室は伊予宇和島藩主 伊達宗紀の娘。
 
十二代 松平 忠淳(ただあつ)【1841~1860】
 伊予宇和島藩主 伊達宗紀の三男。享年20。
 在職期間:1859年(19)~1860年(20)
 
十三代 松平 忠愛(ただちか)【1845~1862】
 松平忠篤の長男。享年18。忠侯の甥
 在職期間:1860年(16)~1862年(18)
 
十四代 松平 忠和(ただかず)【1851~1917】
 常陸水戸藩徳川斉昭の十六男、母は側室 高丘氏。享年67。
 在職期間:1862年(12)~1871年(21)<1869年から島原藩知事>
 正室は出羽鶴岡藩主 酒井忠発の娘  錦子(離縁)、叔母は十一代忠誠の正室継室は公家 藪実方の娘 文子。
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 最新版 角川新版 日本史辞典(角川学芸出版
 日本人名大辞典(講談社
 家康と松平一族(安城市歴史博物館)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。