こんにちは、勘矢です。
1. 上野小幡藩奥平松平家
(1)陸奥桑折藩
1681年に陸奥白河藩主松平忠弘の養子となった忠尚は、藩内での評判が悪く、騒動になりかねない状況なったため世子から外され、1688年に白河新田二万石を与えられて分家した。1700年に陸奥桑折に移封され、1705年に奏者番となった。
忠尚の実子は早世していたので、1700年に実弟忠泰を養子に向かえたが、1712年に没したため、甥の忠暁を養子に迎えた。忠暁の母は奥平昌能の娘で以降の当主は女系で奥平信昌の血を受け継いでいる。
二代忠暁は1724年に奏者番となり、1732年に寺社奉行を兼任したが1734年に病気により辞職した。
初代 松平 忠尚(ただなお)【1651~1726】
肥前唐津藩主 松平乗久の長男、母は水野忠善娘。初名乗高、乗守。享年76。
白河新田藩主 在職期間:1688年(38)~1700年(50)
陸奥桑折藩主 在職期間:1700年(50)~1719年(69)隠居
松平 乗良(のりよし)
松平忠尚の長男、母は松平忠弘の娘。早世。
松平 忠泰(ただやす)【1684~1712】
肥前唐津藩主 松平乗久の九男。初名乗利。父に先立ち没した。享年29。
二代 松平 忠暁(ただあきら)【1691~1736】
在職期間:1719年(29)~1736年(46)
松平 忠衛(ただゆき)
松平忠暁の長男、母は黒田直邦の娘。早世。

(2)上野小幡藩
三代忠恒は1747年に奏者番となり、半田村の銀山と近隣の村々一万二千石余を上野国内に移されたので同国笹塚に居所を構えた。翌年に残りの陸奥国内の所領も上野国内に移されて上野上里見に居所を移した。また、同年に若年寄となった。1767年に上野小幡二万石へ転封となった。忠恒の正室は弘前藩津軽家から迎えており、正室津軽氏の祖母が藩祖忠尚の娘となる。
四代忠福は1774年に奏者番となり、1785年に西の丸若年寄、翌年に本丸若年寄に進んだが、1788年に病気により辞職した。1791年に藩校小幡学校を創設した。忠福の嫡男忠房が没すると二男忠彊を嫡子としたが先立たれたため、忠房の遺児忠恵が嫡孫承祖した。
五代忠恵は1832年から藩政改革を断行した。1838年に若年寄となり、1848年に城主格を許された。
六代忠恕は1858年に奏者番となり、1862年に寺社奉行を兼任し、1864年に辞職した。参勤交代交代が緩和されると江戸藩邸から妻子を国許に呼び寄せた。戊辰戦争では新政府軍につき、上野国三国峠の戦いに参戦した。1869年に版籍奉還し、小幡藩知事に任ぜられ、1871年に廃藩置県を迎えた。忠恕はその後日光東照宮宮司をつとめた。
三代 松平 忠恒(ただつね)【1720~1768】
松平忠暁の二男、母は黒田直邦の娘。享年49。
陸奥桑折藩主 在職期間:1736年(17)~1747年(28)
上野篠塚藩主 在職期間:1747年(28)~1748年(29)
上野上里見藩主 在職期間:1748年(29)~1767年(48)
上野小幡藩主 在職期間:1767年(48)~1768年(49)

四代 松平 忠福(ただよし)【1742~1799】
松平忠恒の長男、母は津軽信興の娘。享年58。
在職期間:1768年(27)~1799年(58)
正室は遠江浜松藩主 松平資訓の養女(資訓の養子資順の娘)歌姫。
松平 忠房(ただふさ)【1765~1789】
松平忠福の長男、母は松平資訓の養女。父に先立ち没した。享年25。
松平 忠彊(ただたけ)【1776~1798】
松平忠福の二男、母は松平資訓の養女。父に先立ち没した。享年23。
正室は内藤信凭の娘。
五代 松平 忠恵(ただしげ)【1784~1862】
松平忠房の長男。享年79。
在職期間:1799年(16)~1856年(73)隠居
六代 松平 忠恕(ただゆき)【1825~1902】
松平忠恵の長男、母は蜂須賀重喜の娘。享年78。
継々室は宮崎佐兵衛の娘 園子。


参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
続徳川実紀 第4篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
それでは、今日はここまで。
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