こんにちは、勘矢です。
今回は旗本横田家について調べたことをまとめました。
1. 旗本:横田筑後守家
(1)武田家から徳川家に仕える
旗本横田家は宇多源氏佐々木氏の一族で、近江国甲賀郡横田(滋賀県甲賀市水口町)発祥という。横田高松は武田信虎・信玄父子に仕え、その養子綱松は長篠の戦で戦死した。
綱松の五男尹松は武田家に仕えたのち、徳川家康に仕え三千石を賜った。長久手の戦いや小田原の陣、関ヶ原の戦いに供奉し、御使番に列した。大坂の陣後に二千石を加増され、御持筒頭となり、御使番を兼務した。1624年に旗奉行となり、翌年に武蔵・下総・近江・上総国内で五千石余を知行する御朱印を下された。
二代 述松は家督相続時に千石を弟胤松に分け与えたので、四千五百石を知行した。三代 由松は定火消などをつとめ、1705年に大目付となった。1717年に加増されて五千五百石を知行した。四代 清松は父遥松が早世したため祖父の跡を継いだ。
初代 横田 尹松(ただまつ)【1554~1635】
横田綱松の五男、母は向山某の娘。享年82。
妻は甲斐武田家家臣 山縣昌景の娘。
二代 横田 述松(のぶとし)【1604~1679】
横田尹松の三男、母は山縣昌景の娘。
1635年に32歳で家督相続。享年76。
妻は旗本 今村正長の娘。
三代 横田 由松(よしとし)【1649~1729】
横田述松の二男、母は今村正長の娘。
1679年に31歳で家督相続。1724年に76歳で隠居。享年81。
妻は旗本 関氏盛の娘。
横田 遥松(はるとし)【1671~1706】
横田由松の長男。父に先立ち没した。享年36。
妻は旗本 伊奈忠常の娘。
四代 横田 清松(きよとし)【1702~1772】
横田遙松の長男。
1724年に23歳で家督相続。1760年に59歳で隠居。享年71。
妻は旗本 三浦便次の娘。
(2)旗本最高禄
五代 準松は、分家横田十郎兵衛家からの養子で、1751年に御小納戸となった。その後、西ノ丸の御小姓となり、1760年に将軍世子家治が将軍職に就くと本丸に移った。1771年に御小姓組番頭に準じる格となり、御側御用取次の見習となった。1773年に正式に御側御用取次となり、1779年に武蔵国内で千石、1787年に上野・下野・常陸・近江・武蔵国内で三千石を加増されて九千五百石となった。しかし、間もなく罷免されて菊之間縁頬詰となった。
準松は、1786年に田沼意次が老中を解任された後も、意次派の御側御用取次として隠然たる勢力を保っていた。しかし、1787年に起きた江戸打ちこわしの情報を将軍家斉に報告せず、大奥から将軍へ伝わったことから罷免されたといわれる。準松が排除されたことにより、松平定信が老中に就任することになった。
五代 横田 準松(のりとし)【1734~1790】
分家 横田栄松の三男、母は大淵玄通の娘。
1760年に27歳で家督相続。享年57。
妻は旗本 甲斐庄正寿の娘。
(3)江戸後期の当主
六代 以松は義兄準松の養子となり家督相続したが数年で没し、七代茂松も短命であった。
八代貞松は、火消役や西ノ丸御書院番頭、大番頭などをつとめた。貞松の出自について、「続徳川実紀」第1篇には、「横田甚右衛門茂松養子主税貞松…父死して家つぐもの」と記載されている。一方、「寛政重修諸家譜」には、以松の二男で茂松の弟に「某 主税」の記載がある。したがって、貞松は以松の子で茂松の養子となり、家督を相続したものと推測される。
九代 春松は御小姓組の番頭などをつとめた。十代 寿松は火消役をつとめた。
十一代 栄松は岩槻藩大岡家からの養子。明治維新のときに新政府へ勤王を誓い、下大夫に任ぜられた。
六代 横田 以松(もちとし)【1748~1797】
横田清松の二男。
1790年に43歳で家督相続。享年50。
七代 横田 茂松(しげとし)【1783~1803】
横田以松の長男、母は大岡忠光の娘。小十郎、甚右衛門。
1797年に15歳で家督相続。享年21。
八代 横田 貞松【?~?】
横田茂松の養子。主税、甚右衛門、筑後守。
1803年に家督相続。1841年に隠居。
九代 横田 春松【?~?】
横田貞松の子。甚右衛門、筑後守。
1841年に家督相続。1859年に隠居。
妻は武蔵岩槻藩主 大岡忠正の娘。
十代 横田 寿松【?~1863】
横田春松の子。甚太郎。
1859年に家督相続。
十一代 横田 栄松【?~?】
武蔵岩槻藩主 大岡忠恕の子。権之助。

2. 分家旗本横田家
(1)旗本:横田大学家
横田尹松の長男政松は、徳川秀忠に仕えて五百石を賜り、御書院番に列した。大坂の陣で功をたてて千石を加増され、合わせて千五百石となった。1619年に没すると長男大学が跡を継ぐが、1622年に無嗣断絶となった。
(2)旗本:横田十郎兵衛家
横田政松の二男隆松は、1632年に御小姓組の番士に列し、武蔵国内で二百石を賜った。二代 能之は、隆松の従弟で興津宗能の二男。御書院番の番士となって蔵米百俵を加増され、駿府城の守衛中に没した。
三代忠朗は旗本林忠隆の二男。御書院番などをつとめ、蔵米三百俵を加増された。1684年に実兄林忠晟が早世したため実家に戻り、忠和と改名し実家を相続した。なお、この林家は幕末に上総請西藩となる家である。
四代 庸松は能之の子で、忠朗の養子となって家督相続し、御書院番をつとめた。五代 栄松は御目付などをつとめた。六代尚松は御小姓組の番士をつとめた。
七代 延松は矢橋良容の二男で、栄松の外孫にあたる。御書院番や御目付などをつとめた。1801年に一橋家家老となり、加増されて五百石となった。
幕末の五郎三郎は、1862年に歩兵頭並をつとめ、1867年に京都表御用、のち大坂にて歩兵頭、歩兵奉行並となった。翌年に撤兵奉行並兼帯となった。
(3)旗本:横田三郎兵衛家
横田尹松の二男政松は、御鉄砲頭をつとめ、三百石を領した。二代重玄が1642年に没するとその子が幼少で継ぐも早世したため、絶家となった。
(4)旗本:横田三四郎家
横田尹松の四男景松は、徳川家光に近侍して御小姓となり、蔵米四百俵を賜った。1635年に父の遺領から千石を分け与えられると蔵米は収められた。二代教松、三代奉松、四代由松、五代松春は御書院番をつとめた。
六代松房は、はじめ御書院番となり、西ノ丸の御目付などをつとめたのちに御先弓頭となり、火付盗賊改めとなった。その後、新番頭をつとめた。七代松茂は本家準松の子で、松房の婿養子となった。御小姓や御使番などをつとめた。
(寛政年間までの当主)
初代 横田 胤松(たねとし)【1615~1667】
横田尹松の四男、母は山縣昌景の娘。享年53。
妻は旗本井上正貞(重次)の娘。
二代 横田 教松(のりとし)【?~1686】
横田胤松の長男、母は井上正貞の娘。
1667年に家督相続。
妻は旗本 久永重行の娘。
三代 横田 奉松(ゆきとし)【1680~1708】
横田教松の長男、母は久永重行の娘。
1686年にわずか7歳で家督相続。享年29。
妻は旗本 桑山直晴の娘。
四代 横田 由松(よしとし)【1700~1742】
横田奉松の長男、母は桑山直晴の娘。
1708年にわずか9歳で家督相続。享年43。
妻は旗本 山岡景久の娘。
五代 横田 松春(としはる)【1723~1769】
旗本 久永勝興の三男。二代教松の妻の兄の孫にあたる。
1742年に20歳で家督相続。享年47。
妻は横田由松の娘。
六代 横田 松房(としふさ)【1756~1800】
横田松春の長男、母は横田由松の娘。
1769年に14歳で家督相続。享年45。
妻は旗本 鳥居忠該の娘。
七代 横田 松茂(とししげ)【1773~?】
本家 横田準松の四男、母は甲斐庄正寿の娘。
妻は横田松房の娘。
(5)旗本:横田甚五郎家
横田尹松の五男景松は、1632年に徳川家光にはじめてお目通りし、1647年に御膳奉行となった。翌年に小十人頭となり、のちに加増されて千石となった。1662年に八木豊次と争論となり殺害され、断絶となった。
(6)旗本:横田平八郎家
横田尹松の七男直松は、1640年に徳川家光にはじめてお目通りし、翌年に御書院番の番士に列し、蔵米三百俵を賜った。甥の完松を養子とするも先立たれ、完松の甥にあたる氏松を養子とした。三代 豊松は青木義見の五男で、直松の兄景松の外孫にあたる。

※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
華族類別譜 下巻 神別,外別(柴山典 編 / 屏山書屋 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
復古記 第5冊、第6冊(太政官 編 / 内外書籍<昭和4-6> / 国立国会図書館デジタルコレクション)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。