こんにちは、勘矢です。
今回は駿河小島藩 滝脇松平家について調べたことをまとめました。
1. 滝脇松平家
滝脇松平家は三河国賀茂郡滝脇が発祥で、松平親忠の九男乗清からはじまるというが、一説には大給松平家の乗元の庶子ともいう。乗清と乗遠父子は1556年に討死し、乗遠の子乗高は徳川家康に仕え、軍功を挙げた。
乗高の子乗次は1601年に三河国滝脇の旧領六百石を賜った。その後、御書院番をつとめた。代々の当主は監物と称し、御書院番をつとめることが多かった。
乗次の二男乗久は召されて徳川家綱に附属され、御書院番となり、蔵米三百俵を賜った。

2. 旗本:松平四郎右衛門家
家伝では滝脇系としている。松平四郎右衛門の祖先は三河国麻生の人という。乗清の子親正からはじまるというが、乗清没年など滝脇松平家の家譜と異なる点があり、寛政重修諸家譜で疑問を呈されている。
松平政次は徳川家康から家光に仕えた。その子政重は御書院番をつとめ、上総などで千二百石を知行している。三代正直は幼少で相続したため、二百石は収められた。その後、御書院番や御先鉄砲頭などをつとめ、1682年に上野国内で五百石を加増され、合わせて千五百石となった。歴代の多くは御小姓組などをつとめることが多い。
政次の二男三郎兵衛は村串を称して徳川秀忠に仕えた。その跡は実弟正吉が継ぎ、御小姓組となり四百石を知行した。また、松平姓に復した。正吉は甥正直の子正晴を養子とした。正晴は三人の養子を取ったが、いずれも実家に帰る事態となり、1732年に無嗣断絶となった。
三代正直の三男正决は徳川綱吉に召されて御小姓となり蔵米三百俵を賜るも、嗣子なく断絶した。
(寛政年間までの当主)
初代 松平 政次(まさつぐ)【1568~1626】
松平四郎右衛門の長男。享年59。
妻は服部氏の娘。後妻は村串与三左衛門の娘。
二代 松平 政重(まさしげ)【1592~1633】
松平政次の長男、母は服部氏の娘。享年42。
妻は旗本 三井吉正の娘。
三代 松平 正直(まさなお)【1627~1691】
松平政重の長男、母は三井吉正の娘。
1633年にわずか7歳で家督相続。享年65。
妻は旗本 大久保忠良の娘。
四代 松平 正棖(まさむね)【?~1714】
松平正直の長男、母は大久保忠良の娘。
1691年に家督相続。
妻は加藤八郎右衛門の娘。
五代 松平 正朗(まさあきら)【1673~1730】
松平正棖の長男、母は加藤八郎右衛門の娘。
1714年に42歳で家督相続。享年58。
六代 松平 正雅(まさただ)【1714~1760】
旗本 松平(大給)近郷の四男。
正朗の婿養子となり、1730年に17歳で家督相続。享年47。
妻は松平正朗の娘。
七代 松平 正房(まさふさ)【1743~1766】
松平正雅の長男、母は松平正朗の娘。
1760年で18歳で家督相続。享年24。
八代 松平 正方(まさみち)【1747~?】
旗本 岡部勝盈の三男。
1766年に20歳で家督相続。1797年に51歳で隠居。
妻は松平正房の養女(六代 正雅の娘)。
九代 松平 正敏(まさとし)【1778~?】
松平正方の二男、母は松平正房の養女。
1797年に20歳で家督相続。
妻は旗本 岡部利寛の娘(利寛は先代正方の実弟)。

※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
3. 駿河小島藩主 松平家
(1)小島藩成立以前
家伝では滝脇系としている。寛政重修諸家譜において、「乗清を祖とし、五代にして正勝にいたる」とあるが、寛永諸家系図との違いから疑問を呈されている。
松平正勝は徳川家康に仕え、大阪夏の陣で戦死した。形原松平家から重信が婿養子となり相続し、上総・常陸国内で千二百石を賜った。御小姓組の組頭から御書院番、大番頭を経て駿府城代となり、駿河国内で五千石を知行した。
重信には正勝の娘との間に信吉を儲けたが先立たれた。甥昭信を婿養子としたがこれにも先立たれ、孫の親信を養子とした。しかし、これにも先立たれ、甥で丹波篠山藩主 松平典信の庶長子信孝を養子とした。
松平 重信(しげのぶ)【1600~1673】
松平(形原)家信の二男。享年74。
妻は松平正勝の娘。
松平 信吉(のぶよし)【?~1657】
松平重信の長男、母は松平正勝の娘。
松平 昭信(てるのぶ)【?~1662】
松平(形原)康信の二男。
妻は松平重信の娘。
松平 親信(ちかのぶ)【?~1671】
松平昭信の長男。祖父の養子となる。

(2)駿河小島藩(前期)
信孝は1671年に重信の養子となり、1673年に家督相続した。翌年に千石を加増され六千石となり、1689年に若年寄に抜擢されて四千石を加増されて一万石となり、諸侯に列した。二代信治は信孝の甥にあたり、1690年に信孝の養子となり家督相続した。1704年に駿河小島(静岡市清水区)に陣屋を置いて小島藩を立藩した。1718年に大番頭となった。
三代信嵩は信治の従弟にあたり、1721年に養子となり、1724年に家督相続した。四代昌信はわずか4歳で家督相続した。1752年から1765年の間に大坂加番を4回つとめた。昌信は藩政改革を実施し、年貢増徴政策を行ったが、1764年に凶作が契機となり農民一揆が起こり、最終的に農民の要求を容れた。
初代 松平 信孝(のぶなり)【1655~1690】
丹波篠山藩主 松平(形原)典信の長男。享年36。
在職期間:1689(35)~1690(36)
二代 松平 信治(のぶはる)【1673~1724】
旗本 戸田重恒の二男、母は松平典信の娘。享年52。
在職期間:1690(18)~1724(52)
三代 松平 信嵩(のぶたか)【1710~1731】
丹波篠山藩主 松平(形原)信庸の六男。享年22。
在職期間:1724(15)~1731(22)
四代 松平 昌信(しげのぶ)【1728~1771】
松平信嵩の長男。享年44。
在職期間:1731(4)~1771(44)
ここまでの当主は、形原松平家の関係が深い。小島藩松平家と形原松平家の関係を示したのが下図である。

(3)駿河小島藩(後期)
四代 昌信には嗣子なく、村松藩堀家から信義を婿養子に迎えた。五代 信義は大坂加番を2回つとめた。信義の時代の藩士 倉橋格は、恋川春町のペンネームで作家として活躍し、「金々先生栄華夢」が代表作。
六代 信圭の時代は和紙生産が盛んとなり、紙漉運上を課し、紙船役を徴収した。七代 信友は財政再建を行った。
八代 信賢は形原松平家の出身で、信友の婿養子となって家督相続した。九代 信進は松江松平家の出身で、名君と称された松平不昧の孫にあたる。信進は信賢の兄信豪の娘 寿を正室に迎えた。1855年に大坂加番をつとめ、その後大番頭をつとめた。1862年に二条在番を命じられたが、出発前に没した。
十代 信書は七代 信友の子で隠居後に生まれた。信進の養子となり、1863年に家督相続するも翌年に没した。
五代 松平 信義(のぶのり)【1742~1801】
越後村松藩主 堀直尭の二男。享年60。
在職期間:1771(30)~1800(59)隠居
正室は松平昌信の娘。
六代 松平 信圭(のぶかど)【1776~1820】
松平信義の長男、母は松平昌信の娘。享年45。
在職期間:1800(25)~1815(40)隠居
正室は武蔵岩槻藩主 大岡忠喜の娘。忠喜は将軍家重の側用人大岡忠光の子。
七代 松平 信友(のぶとも)【1797~1848】
松平信圭の長男、母は大岡忠喜の娘。享年52。
在職期間:1815(19)~1836(40)隠居
八代 松平 信賢(のぶます)【1808~1873】
丹波亀山藩主 松平(形原)信志の六男。享年66。
在職期間:1836(29)~1851(44)隠居
正室は松平信友の娘。
九代 松平 信進(のぶゆき)【1813~1863】
出雲松江藩主 松平(越前)斉恒の子。享年51。
在職期間:1851(39)~1863(51)
十代 松平 信書(のぶふみ)【1846~1864】
松平信友の二男。享年19。
在職期間:1863(18)~1864(19)


(4)駿河から上総へ転封
十一代 信敏は高遠藩内藤家の出身で、九代 信進の娘 幸を十代 信書の養女とし、婿養子となって家督相続した。1868年に新政府に恭順し、徳川宗家が駿府に移ることが決まると、上総金ケ崎に移った。翌1869年に上総桜井に移り、滝脇に復姓した。桜井藩知事に任ぜられ、1871年に廃藩置県を迎えた。
十一代 松平 信敏(のぶとし)【1851~1887】
信濃高遠藩主 内藤頼寧の四男。享年37。
小島藩主 在職期間:1864(14)~1868(18)
金ケ崎藩主 在職期間:1868(18)~1869(19)
桜井藩主 在職期間:1869(19)~1871(21)知藩事
正室は松平信書の養女 幸(松平信進の娘)。
※「江戸時代全大名家事典」の松平(滝脇)家 十一代信敏に関する内容について、大名であるにも関わらず、大坂町奉行になるなどの記述がある。通常、町奉行は旗本が就く役職であり、これは同時期の旗本松平大隅守信敏の実績と混同されている。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
日本人名大辞典(講談社)
最新版 角川新版 日本史辞典(角川学芸出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。