探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

喜多見氏

こんにちは、勘矢です。

今回は喜多見氏について調べたことをまとめました。

 

 

1. 喜多見氏

 喜多見氏は武蔵国多摩郡喜多見(東京都世田谷区)発祥。平氏良文流畠山氏の支族といい、重方が喜多見の地に居住して喜多見江戸氏を名乗ったといわれる。

 戦国時代の勝忠は、はじめ北条氏に仕え、1590年に徳川家康に取り立てられ、本領の喜多見を安堵されて五百石を与えられた。徳川氏の居城の江戸をはばかって木田見氏を称し、のち北見氏に改姓、さらに喜多見氏にあらためた。

 関ヶ原の戦い大坂の陣に供奉し、1615年の大坂夏の陣では石川忠総の配下として摂津高槻城の定番をつとめた。翌年に近江・摂津両国にある幕府領の郡代をつとめて加増され、千石となった。1617年には和泉国堺の政所職となり、翌年に摂津・河内・和泉三国の奉行(代官)を兼務して二千石となった。

 

 勝忠の子重恒は御書院番をつとめ、家督相続時に弟重勝に千石を分与した。幕命を受けて、城請取役、検使役、目付役などつとめ、全国各地に赴いた。重恒には世子がないため外孫の重政を養子に迎え、1672年に隠居した。

 

初代 喜多見 勝忠(かつただ)【1568~1627】

 江戸朝忠の長男。享年60。

 

二代 喜多見 重恒(しげつね)【?~1679】

 喜多見勝忠の二男。妻は旗本 本多信勝の娘。

 

喜多見氏略系図

 

2. 喜多見藩

 重政は1672年に家督相続し、御書院番となった。その後、中奥番士を経て1680年には、五代将軍徳川綱吉の側小姓となった。翌年に武蔵・上野国内で二千石を加増され、1683年に六千八百石余を加増されて一万石となり、諸侯に列した。

 1685年に側用人に昇進し、翌年には河内・武蔵国内で一万石を加増されて二万石となった。1687年に「生類憐みの令」が発布されると、犬の大支配役をつとめた。1689年に分家の喜多見重治が起こした事件に連座して二万石を収公され、伊勢桑名藩主松平(久松)定重にお預けとなった。

 

初代 喜多見 重政(しげまさ)【?~1693】

 旗本 石谷武清の二男、母は喜多見重恒の娘。

 外祖父重恒の養子となり、1672年に家督相続。

 喜多見藩主在職期間:1683年~1689年

 妻は旗本 内藤正俊の娘。

 

喜多見氷川神社

 

3. 分家旗本家

 喜多見勝忠の三男重勝は1620年に手水番、1624年に御小姓組番士となり、その後、父の遺領より千石を分知された。1631年に御小納戸となり、翌年に御書院番を経て御徒頭となり、近江国内で五百石を加増されて千五百石を知行した。1638年に御目付となり、1658年に役職を解かれて寄合となり、1683年に隠居した。

 重勝には世子がなく、末弟の重治を養子とした。1689年に義妹の夫である旗本朝岡直国を殺害する事件を起こし、さらに偽証するなどして斬罪に処せられた。

 

初代 喜多見 重勝(しげかつ)【1604~?】

 喜多見勝忠の三男。1683年に80歳で隠居した。

 妻は旗本 堀田正吉の娘。

 

二代 喜多見 重治(しげはる)【?~1689】

 喜多見勝忠の五男。1683年に家督相続。

 

参考文献:

 江戸時代全大名家事典(東京堂出版

 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社

 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。