探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本 高林氏(今川支族)

こんにちは、勘矢です。
今回は今川氏の支族 旗本高林氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 高林氏とは

 高林氏は今川氏の支族で、戦国時代の高林吉利が徳川家康に仕えて武蔵国内で御代官となり、三百六十石余の采地を賜りました。子の吉次のときに加増されて五百十石余となり、その子の利春のときに二千二百十石余となりました。
 江戸中期の利要は叔父寿久に五百石を分け与えたため、千七百十石余を知行しました。その後、女中の自殺の件について幕府の追及があり、采地を削減されて八百石となりました。
 

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高林氏の略系図
 
 

2. 旗本高林家

(1)旗本:高林五郎吉家

(寛政年間までの当主)
初代 高林 吉次(よしつぐ)【1576~1622】
 高林吉利の長男。
 1602年(27)に上総国内において百五十石余を加増され、合計五百十石余を知行しました。1613年(38)に大番の組頭となりました。享年47。
 妻は旗本 加藤正次の娘。
 
二代 高林 利春(としはる)【1605~1652】
 旗本 島田利正の二男。
 1619年(15)から将軍世子の徳川家光に仕えて御小姓に列しました。その後、養父の跡を相続し、1624年(20)に御徒の頭に転じました。
 1626年(22)に常陸国内において五百石を加増されました。同年、上洛に従い御参内の供奉をつとめ、その後、御書院の番士となりました。
 1632年(28)より進物役となり、翌年、下野国内で二百石を加増されました。
 1642年(38)に実父の島田利正の遺領のうち、下総・相模・武蔵国内で千石を分け与えられ、合計二千二百十石余となりました。享年48。
 妻は高林吉次の娘。後妻は肥後熊本藩 細川家家臣 村井道意の娘。
 
三代 高林 利之(としゆき)【1641~1722】
 高林利春の長男。
 1652年(12)に相続しました。1659年(19)に御書院番に列し、1676年(36)より約2年屋敷改めをつとめ、1687年(47)に小十人組の番頭に移りました。
 1690年(50)に下田奉行となり、1696年(56)に辞職して寄合に列しました。1704年(64)に御先鉄砲の頭となり、1710年(70)に務めを辞職しました。
 1712年に72歳で隠居し、隠居料として廩米三百俵を賜りました。享年82。
 妻は美濃大垣藩 戸田家家臣 戸田権大夫の娘、後妻は旗本 島元利の娘。
 
高林 利武(としたけ)【?~1699】
 高林利之の長男、母は戸田権大夫の娘。
 1683年に御小姓組に列し、廩米三百俵を賜りました。1685年より進物役をつとめ、1688年に桐間の番士に転じ、翌年、御小納戸になるも故ありて務めをゆるされて、小普請となりました。
 1690年に大番に列し、1696年に再び御小納戸に進むも、数ヶ月で大番に戻りました。
 妻は旗本 岡野貞明の娘。この岡野家は戦国北条氏の外交僧 板部岡江雪斎の子孫。
 
四代 高林 利要(としやす)【1685~1760】
 高林利武の長男、母は岡野貞明の娘。
 1700年(16)に父の遺跡を相続し、小普請となりました。1708年(24)に御書院番に列しました。1712年に28歳で祖父の跡を相続して千七百十石余を知行し、叔父寿久に五百石を分け与えられました。また、これまでの廩米は祖父の隠居料となりました。
 1725年(41)より屋敷改めをつとめ、翌年御使番に転じました。1728年(44)の八代将軍徳川吉宗の日光社参に供奉し、仮に御目付役をつとめました。1730年(46)に御先鉄砲の頭、ついで盗賊追捕役をつとめました。
 1731年(47)に女中の自殺の件について幕府の追及があり、采地を削減されて下総国内で八百石を賜り、しばらく閉門となりました。1749年に65歳で隠居しました。享年76。
 妻は旗本 亀井玆恒の娘。
 
高林 利久(としひさ)
 旗本 玉虫茂喜(茂嘉)の二男。養父に先立って没しました。
 妻は高林利要の養女(旗本 亀井玆恒の娘・利要妻の妹)
 
五代 高林 利貞(としさだ)【1719~1786】
 旗本 筑紫従門の四男、母は千坂氏。
 1749年に31歳で相続しました。1757年(39)に御書院番に列しました。享年68。
 妻は旗本 山田直寛の娘。
 
六代 高林 利見(としみ)【1753~1787】
 高林利貞の二男、母は山田直寛の娘。
 1786年に34歳で相続しました。享年35。
 妻は水野忠行の娘。忠行の母は筑紫従門の娘で、高林利貞の妹。
 
七代 高林 利長(としなが)【1770~?】
 高林利見の二男、母は水野忠行の娘。
 1787年に18歳で相続しました。
 妻は旗本 片桐信馮の娘。
 
 

(2)旗本:高林弥十郎

(寛政年間までの当主)
初代 高林 寿久(としひさ)【1674~1732】
 高林利之の二男、母は戸田権大夫の娘。
 1691年に(18)に召されて桐間番に列し、廩米三百俵を賜りました。翌年、故ありて小普請となりました。1694年(21)に御小姓組の番士となりました。1706年(33)に舅の間宮孫三郎の養子について問題があり、寿久も関わっていたため、しばらく出仕を止められました。
 1712年(39)に父の遺領五百石を分け与えられ、廩米は収められました。享年59。
 妻は間宮孫三郎の養女、後妻は美濃加納藩 安藤家家臣 土屋八郎右衛門の娘。
 
二代 高林 明慶(としのり)【1710~1765】
 山田氏の子。
 1732年に23歳で相続しました。1736年(27)に八代将軍徳川吉宗の四男 宗尹の近習番となり、のちに一橋家の用人となりました。1757年に一橋家の番頭となり、さらに番頭上座となりました。1764年(55)には一橋で付切*となりました。享年56。
 妻は旗本 飯塚昭之の娘。
 
付切*:御三卿の直臣ではなく幕臣であるが、一度御三卿に附属すると、他の幕府の役職には移動がなかったといわれる。
 
三代 高林 利直(としなお)【1730~?】
 旗本 津田正因の四男。
 1751年(22)に御小姓組に列し、のちに西ノ丸につとめました。
 1765年に36歳で相続しました。1779年(50)に本丸のつとめになりました。1789年(60)に組頭に進みました。1796年(67)若君(徳川家慶)に附属となりました。
 妻は高林明慶の娘。
 
 
※旗本各家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 家紋・旗本八万騎(秋田書店
 徳川御三卿(徳川記念財団)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。