こんにちは、勘矢です。
今回は前回(旗本 高林氏(今川支族) - 探検!日本の歴史 )とはルーツの異なる旗本高林氏について調べたことをまとめました。
1. 高林氏とは
また、昌重の二男正成から始まる高林又十郎家、又十郎家の分家の高林平左衛門家・与惣左衛門家(二代目が不祥事を起こして断絶)がありました。
2. 旗本高林家
(1)旗本:高林万九郎家
(寛政年間までの当主)
初代 高林 昌重(まさしげ)【1558~1617】
高林昌景の長男。
妻は市川大隅守の娘。
二代 高林 直次(なおつぐ)【?~?】
旗本 勝部正信の二男。
1601年に二代将軍 徳川秀忠に拝謁し、のちに大番に列し、加増されて三百重石を知行しました。そののち組頭に進み、1633年に四百石の加増があり、合わせて七百十石を知行しました。
三代 高林 直重(なおしげ)【?~1677】
高林直次の長男。
1626年より三代将軍 徳川家光に仕えて大番をつとめ、のち廩米二百俵を賜りました。1633年に二百石の加増があり、廩米を改められて采地四百石を知行しました。1652年に廩米二百俵を加えられました。
1665年、大坂の御船手に進み、上乗五人水主五十人を預けられました。また、河内国内で四百石を加えられました。1667年より小豆島・塩飽島の御代官をかね、向井正興とともに西国中国の浦々を巡見しました。
妻は旗本 勝部尚正の娘。尚正は直重の伯父。
四代 高林 次郎兵衛【?~?】
高林直重の五男。
1648年に三代将軍 徳川家光の五男 鶴松の小姓となり、鶴松が早世したのち、大番となりました。その際、廩米二百俵を賜りました。1671年に組頭に進み、二百俵を加えられました。
1677年に相続し、三百石を弟の一郎左衛門に分け与え、これまでの廩米は収められました。1688年に兄の平兵衛を召し預けられました。1690年に務めを辞職して、小普請となりました。
1697年に廩米をあらためられ、上総国内で四百石の采地を賜り、合わせて九百十石を知行しました。1698年に隠居しました。
高林 平兵衛【?~?】
高林直重の四男。
1688年に不正を働いたため、禄を没収されて弟の次郎兵衛に預けられました。
高林 一郎左衛門【?~?】
高林直重の六男。
1659年に御小姓組の番士となり、1661年に廩米三百俵を賜りました。1677年に父の遺領のうち三百石を分け与えられ、廩米は収められました。1694年に故ありて禄を収められました。
妻は旗本 田澤正勝の娘。娘は兄次郎兵衛の養女となり、旗本 松平(深溝)政穀の妻となりました。
五代 高林 権左衛門【?~1717】
某氏の子。
1698年に相続しました。1701年に大番となり、1707年より道奉行をつとめ、1716年に御目付に進みました。
六代 高林 万九郎【1713~1719】
旗本 松平(深溝)政穀の六男、母は高林次郎兵衛の養女(一郎左衛門の娘)。
1717年にわずか5歳で相続しました。享年7。早世したため絶家となりました。
(2)旗本:高林甚之丞家
(寛政年間までの当主)
初代 高林 太郎兵衛【?~1672】
高林直重の三男。
1659年に大番に列し、1661年に廩米二百俵を賜りました。
二代 高林 甚左衛門【?~1690】
甲府藩の家臣 高林直政の二男。
1672年に相続し、小普請となりました。1683年に大番に列し、1686年に御腰物奉行に移りました。
三代 高林 甚之丞【1689~1695】
高林甚左衛門の長男。
1690年にわずか2歳で相続しました。享年7。早世したため絶家となりました。
(3)旗本:高林稲之助家
(寛政年間までの当主)
初代 高林 直俊(なおとし)【1691~1717】
御家人 岡田俊易の四男、母は高林直政の娘。
二代 高林 直純(なおずみ)【1702~1753】
御家人 岡田俊易の九男、母は高林直政の娘。
1717年に16歳で相続しました。1725年(24)に御腰物方となり、1744年(43)に御鉄砲箪笥奉行に転じました。1746年(45)に小普請に貶され、一時出仕をはばかりました。享年52。
三代 高林 直豊(なおとよ)【1745~?】
高林直豊の長男。1753年にわずか9歳で相続しました。
(4)旗本:高林又十郎家
(寛政年間までの当主)
初代 高林 正成(まさなり)【?~1664】
高林昌重の二男、母は市川大隅守の娘。
1619年に大番に列し廩米二百俵を賜りました。1634年に二百石を加増され、廩米をあらため武蔵国内で采地四百石を知行しました。1643年に組頭に進み、1651年に廩米二百俵の加増がありました。1662年に御腰物奉行の組頭に進みました。
妻は旗本 小田切昌快の娘、代官 長谷川長重の娘。
二代 高林 昌近(まさちか)【?~1699】
高林正成の長男、母は長谷川長重の娘。
1664年に御小姓組の番士に列し、1664年に相続しました。1692年に隠居しました。
妻は旗本 犬塚忠世の娘。
三代 高林 昌豊(まさとよ)【?~1725】
旗本 木村吉房の三男。
1700年に御近習番に移り、翌年御小納戸に進み、その後御書院番に戻りました。
妻は高林昌近の娘。
四代 高林 昌雄(まさお)【1697~1776】
旗本 間宮信勝の二男、母は神尾七之助の娘。
1725年に29歳で相続しました。1728年(32)に西ノ丸の御書院番となり、1767年(71)に高齢につき番を辞職しました。享年80。
間部家についてはこちらをご覧ください。
高林 昌凭(まさより)
間宮元尚の二男、昌雄の甥。昌雄の婿養子となるも故あって実家に戻りました。
妻は高林昌雄の娘、後妻は青木直宿の娘(離婚。旗本 朝倉景行の娘)。※寛政譜の青木氏の項では、青木直宥の養女。
五代 高林 昌盈(まさみつ)【1738~1786】
交代寄合 山名豊就の七男、母は屋代忠位の娘。
1763年(26)に西ノ丸御小姓組の番士に列し、1776年に39歳で相続しました。享年49。
妻は旗本 下枝正岑の娘。
六代 高林 昌稍(まさすえ)【1761~?】
高林昌盈の長男、母は下枝正岑の娘。
妻は旗本 町野三彰の娘。
(5)旗本:高林平左衛門家
(寛政年間までの当主)
初代 高林 昌盛(まさもり)【?~1671】
高林正成の三男、母は長谷川長重の娘。
1663年に御書院番に列し、1665年に廩米三百俵を賜りました。
二代 高林 昌義(まさよし)【?~1706】
高林昌盛の長男。1671年に相続しました。1697年に御書院番に列しました。
三代 高林 昌英(まさひで)【?~1725】
高林昌義の長男。
四代 高林 昌善(まさよし)【1711~1742】
1725年に15歳で相続しました。1734年(24)に西ノ丸の御書院番に列しました。享年32。
五代 高林 昌安(まさやす)【1722~1788】
旗本 平岡道弘の二男、母は小田切知義の娘。
妻は高林昌善の養女(高林昌雄の娘)、後妻は旗本 大久保忠明の娘。
六代 高林 昌徳(まさのり)【1757~?】
高林昌雄の七男、母は石川盛行の養女。
妻は依田政恒の養女。
※旗本各家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
日本名字家系事典(東京堂出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。