探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

旗本 高林氏(武田旧臣)

こんにちは、勘矢です。
今回は前回(旗本 高林氏(今川支族) - 探検!日本の歴史 )とはルーツの異なる旗本高林氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 高林氏とは

 小笠原長清の末孫政信が、遠江国敷智郡高林(静岡県浜松市)に住んだことから高林を称したといい、甲斐の武田氏に代々仕えました。
 戦国時代の高林昌景は武田信玄に仕えて、第4次川中島の戦いで討ち死にしました。
その子昌重は、信玄・勝頼父子に仕え、武田家滅亡後は徳川家康に仕えました。子孫は、享保のはじめに嗣子なく絶えました。
 三代直重の子から4家の分家が分かれました。三男 太郎兵衛家(孫の代で無嗣断絶)、館林藩に仕えた四男 平兵衛家(改易)、六男 一郎左衛門家(改易)、甲府藩に仕えた七男 直政家(孫の代に御家人となる)。
 また、昌重の二男正成から始まる高林又十郎家、又十郎家の分家の高林平左衛門家・与惣左衛門家(二代目が不祥事を起こして断絶)がありました。
 

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高林氏の略系図
 

2. 旗本高林家

(1)旗本:高林万九郎家

(寛政年間までの当主)
初代 高林 昌重(まさしげ)【1558~1617】
 高林昌景の長男。
 武田家滅亡後、徳川家康に仕えて甲斐国内で本領を賜りました。徳川家が関東に移ると、武蔵国内で二百石の采地を賜りました。1600年(43)、徳川秀忠信濃上田城攻めに供奉しました。享年60。
 妻は市川大隅守の娘。
 
二代 高林 直次(なおつぐ)【?~?】
 旗本 勝部正信の二男。
 1601年に二代将軍 徳川秀忠に拝謁し、のちに大番に列し、加増されて三百重石を知行しました。そののち組頭に進み、1633年に四百石の加増があり、合わせて七百十石を知行しました。
 
三代 高林 直重(なおしげ)【?~1677】
 高林直次の長男。
 1626年より三代将軍 徳川家光に仕えて大番をつとめ、のち廩米二百俵を賜りました。1633年に二百石の加増があり、廩米を改められて采地四百石を知行しました。1652年に廩米二百俵を加えられました。
 1662年に徳川綱重と関白二条光平の娘との婚儀があるため、姫のお迎えのため京都に赴きました。
 1665年、大坂の御船手に進み、上乗五人水主五十人を預けられました。また、河内国内で四百石を加えられました。1667年より小豆島・塩飽島の御代官をかね、向井正興とともに西国中国の浦々を巡見しました。
 妻は旗本 勝部尚正の娘。尚正は直重の伯父。
 
四代 高林 次郎兵衛【?~?】
 高林直重の五男。
 1648年に三代将軍 徳川家光の五男 鶴松の小姓となり、鶴松が早世したのち、大番となりました。その際、廩米二百俵を賜りました。1671年に組頭に進み、二百俵を加えられました。
 1677年に相続し、三百石を弟の一郎左衛門に分け与え、これまでの廩米は収められました。1688年に兄の平兵衛を召し預けられました。1690年に務めを辞職して、小普請となりました。
 1697年に廩米をあらためられ、上総国内で四百石の采地を賜り、合わせて九百十石を知行しました。1698年に隠居しました。
 
高林 平兵衛【?~?】
 高林直重の四男。
 1646年に三代将軍徳川家光の四男 綱吉の小姓となって三の丸に勤めました。徳川綱吉館林藩主となると、書院番の組頭を勤めて、廩米四百五十俵となりました。
 1688年に不正を働いたため、禄を没収されて弟の次郎兵衛に預けられました。
 
高林 一郎左衛門【?~?】
 高林直重の六男。
 1659年に御小姓組の番士となり、1661年に廩米三百俵を賜りました。1677年に父の遺領のうち三百石を分け与えられ、廩米は収められました。1694年に故ありて禄を収められました。
 妻は旗本 田澤正勝の娘。娘は兄次郎兵衛の養女となり、旗本 松平(深溝)政穀の妻となりました。
 
五代 高林 権左衛門【?~1717】
 某氏の子。
 1698年に相続しました。1701年に大番となり、1707年より道奉行をつとめ、1716年に御目付に進みました。
 
六代 高林 万九郎【1713~1719】
 旗本 松平(深溝)政穀の六男、母は高林次郎兵衛の養女(一郎左衛門の娘)。
 1717年にわずか5歳で相続しました。享年7。早世したため絶家となりました。
 
 

(2)旗本:高林甚之丞家

(寛政年間までの当主)
初代 高林 太郎兵衛【?~1672】
 高林直重の三男。
 1659年に大番に列し、1661年に廩米二百俵を賜りました。
 
二代 高林 甚左衛門【?~1690】
 甲府藩の家臣 高林直政の二男。
 1672年に相続し、小普請となりました。1683年に大番に列し、1686年に御腰物奉行に移りました。
 
三代 高林 甚之丞【1689~1695】
 高林甚左衛門の長男。
 1690年にわずか2歳で相続しました。享年7。早世したため絶家となりました。
 
 

(3)旗本:高林稲之助家

(寛政年間までの当主)
 高林直重の七男 直政は甲府藩主の徳川綱重に仕え、その四男直信も同様に甲府藩に仕えました。
 
初代 高林 直俊(なおとし)【1691~1717】
 御家人 岡田俊易の四男、母は高林直政の娘。
 1704年(14)に甲府藩主 徳川綱豊(のち家宣)が将軍世子となると、御家人に列し廩米五百俵を賜り、小普請となりました。享年27。
 
二代 高林 直純(なおずみ)【1702~1753】
 御家人 岡田俊易の九男、母は高林直政の娘。
 1717年に16歳で相続しました。1725年(24)に御腰物方となり、1744年(43)に御鉄砲箪笥奉行に転じました。1746年(45)に小普請に貶され、一時出仕をはばかりました。享年52。
 妻は越前福井藩 松平家家臣 大道寺繁郷の娘。この大道寺氏は、後北条氏重臣大道寺直繁の子孫。繁郷の父大道寺友山が、福井藩主 松平吉邦に召し出されました。
 
福井藩士大道寺友山(国立国会図書館デジタルコレクション)
 
三代 高林 直豊(なおとよ)【1745~?】
 高林直豊の長男。1753年にわずか9歳で相続しました。
 
 

(4)旗本:高林又十郎家

(寛政年間までの当主)
初代 高林 正成(まさなり)【?~1664】
 高林昌重の二男、母は市川大隅守の娘。
 1619年に大番に列し廩米二百俵を賜りました。1634年に二百石を加増され、廩米をあらため武蔵国内で采地四百石を知行しました。1643年に組頭に進み、1651年に廩米二百俵の加増がありました。1662年に御腰物奉行の組頭に進みました。
 妻は旗本 小田切昌快の娘、代官 長谷川長重の娘。
 
二代 高林 昌近(まさちか)【?~1699】
 高林正成の長男、母は長谷川長重の娘。
 1664年に御小姓組の番士に列し、1664年に相続しました。1692年に隠居しました。
 妻は旗本 犬塚忠世の娘。
 
三代 高林 昌豊(まさとよ)【?~1725】
 旗本 木村吉房の三男。
 1692に相続しました。1695年に御書院番に列し、1697年に桐間番に転じ、廩米をあらためて相模国内で采地二百石を賜り、合わせて六百石を知行しました。
 1700年に御近習番に移り、翌年御小納戸に進み、その後御書院番に戻りました。
 妻は高林昌近の娘。
 
四代 高林 昌雄(まさお)【1697~1776】
 旗本 間宮信勝の二男、母は神尾七之助の娘。
 1725年に29歳で相続しました。1728年(32)に西ノ丸の御書院番となり、1767年(71)に高齢につき番を辞職しました。享年80。
 妻は高林昌豊の娘、後妻は御家人 小花和成之の娘(成之の妹は、間部詮房の室)。後々妻旗本 石川盛行の養女(近衛家の家司 下村高峰の娘)。
 
間部家についてはこちらをご覧ください。
 
高林 昌凭(まさより)
 間宮元尚の二男、昌雄の甥。昌雄の婿養子となるも故あって実家に戻りました。
 妻は高林昌雄の娘、後妻は青木直宿の娘(離婚。旗本 朝倉景行の娘)。※寛政譜の青木氏の項では、青木直宥の養女。
 
五代 高林 昌盈(まさみつ)【1738~1786】
 交代寄合 山名豊就の七男、母は屋代忠位の娘。
 1763年(26)に西ノ丸御小姓組の番士に列し、1776年に39歳で相続しました。享年49。
 妻は旗本 下枝正岑の娘。
 
六代 高林 昌稍(まさすえ)【1761~?】
 高林昌盈の長男、母は下枝正岑の娘。
 1786年に26歳で相続しました。1788年(28)に西ノ丸の御書院番となり、1790年(30)に御小姓組に移りました。
 妻は旗本 町野三彰の娘。
 

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高林氏の略系図2
 
 

(5)旗本:高林平左衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 高林 昌盛(まさもり)【?~1671】
 高林正成の三男、母は長谷川長重の娘。
 1663年に御書院番に列し、1665年に廩米三百俵を賜りました。
 
二代 高林 昌義(まさよし)【?~1706】
 高林昌盛の長男。1671年に相続しました。1697年に御書院番に列しました。
 
三代 高林 昌英(まさひで)【?~1725】
 高林昌義の長男。
 1706年に相続し、1719年に御書院の番士となりました。1725年に駿府城の守衛より帰るときに駿河国にある宿場町の原において失心して自殺しました。
 
四代 高林 昌善(まさよし)【1711~1742】
 御家人 浅岡政道の二男、母は小田切昌倫の娘。
 1725年に15歳で相続しました。1734年(24)に西ノ丸の御書院番に列しました。享年32。
 
五代 高林 昌安(まさやす)【1722~1788】
 旗本 平岡道弘の二男、母は小田切知義の娘。
 1742年に21歳で相続し、1744年(23)に御書院番に列しました。1776年(55)に十代将軍徳川家治の日光社参に従いました。1788年(67)に駿府城の守衛にあるときに没しました。享年67。
 妻は高林昌善の養女(高林昌雄の娘)、後妻は旗本 大久保忠明の娘。
 
六代 高林 昌徳(まさのり)【1757~?】
 高林昌雄の七男、母は石川盛行の養女。
 1777年(21)に西ノ丸御小姓組の番士に列しました。1788年(32)に相続しました。1796年(40)若君(徳川家慶)に附属となりました。
 妻は依田政恒の養女。
 
※旗本各家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 日本名字家系事典(東京堂出版
 福井藩士大道寺友山(国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。