こんにちは、勘矢です。
今回は美濃守護代 斎藤氏とその子孫について調べたことをまとめました。
1. 美濃守護代斎藤氏
長井規秀が斎藤氏の名跡を継いで斎藤利政(のちに道三)と名乗ると、土岐氏の家督争いに介入して土岐頼芸を守護とし、土岐頼武や朝倉義景、織田信秀の侵略を撃退して、地位を確立していきました。その後、頼芸を追放して美濃の実権を手中にし、尾張の織田信秀と和睦してその子信長に娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせました。
斎藤 道三(どうさん)【1494~1556】
長井新左衛門尉(松波庄五郎)の子。
新九郎→規秀→利政→道三と改名しました。
斎藤 義龍(よしたつ)【1527~1561】
斎藤 龍興(たつおき)【1548~1573】
斎藤義龍の子。享年26。
斎藤 利治(としはる)【1541~1582】
斎藤道三の末子。
道三の死後、義兄の織田信長を頼りました。六角氏攻めや伊勢の北畠氏攻めに従軍しました。信長の嫡子信忠が岐阜城主となるとその重臣となり、手取川の戦いや中国侵攻などで功をあげました。本能寺の変にて明智光秀の重臣斎藤利三に討ち取られました。享年42。
2. 旗本 井上氏
斎藤道三の庶子長井道利の子、道勝、定次、定利兄弟が井上を称することからはじまる。道勝、定次は豊臣秀吉に仕えました。定利は秀吉・秀頼親子に仕え、大坂夏の陣で戦死しました。子の利義は、大坂夏の陣後に徳川家に仕えて五百石を与えられました。
(1)旗本:井上美濃守家
(寛政年間までの当主)
初代 井上 利義(としよし)【1604~1657】
井上定利の長男、母は赤座七郎右衛門の娘。
1615年(12)の大坂夏の陣で人質として大坂城にいて、落城後に逃れて八幡の社僧岩本坊のもとに潜伏しました。その後、父定利と親しかった板倉勝重・織田有楽斎の計らいによって徳川家に仕え、1619年(16)に西ノ丸の御小姓組に列しのち廩米三百俵を賜りました。1626年(23)の上洛に供奉し、のちに御書院番に転じました。1633年(30)に二百石を加増され、廩米をあらためて上総国内で五百石を知行しました。享年54。
妻は豊後臼杵藩稲葉家の家臣 後藤利久の娘。
二代 井上 利景(としかげ)【1628~1661】
井上利義の長男、母は後藤利久の娘。
1645年(18)に御小姓組の番士となり、1650年(23)に西ノ丸に勤仕し、のちに本丸にうつりました。
1657年(30)に相続し、のちに番を辞職して小普請となりました。享年34。
妻は旗本 大久保忠職の娘。
三代 井上 利盛(としもり)【1640~1728】
井上利義の四男、母は後藤利久の娘。
1661年(22)に相続しました。1663年(24)に御小姓に列しました。1699年(60)に御目付に進みました。1701年(62)に御先鉄砲の頭に転じ、1719年(80)に老衰につき務めを辞職して寄合に列しました。1720年(81)に隠居しました。享年89。
妻は旗本 岡部久綱(正綱)の娘。
井上 利之(としゆき)【1675~1700】
井上利盛の二男、母は岡部久綱の娘。
1693年(19)に御書院番の番士となりました。享年26。
妻は旗本 秋元成朝の娘。
四代 井上 利忠(としただ)【1669~1748】
分家 井上利長の五男、母は跡部良保の娘。
1709年(41)に御書院番に列し、1720年に52歳で相続しました。1740年(72)に老衰につき番を辞職し、1744年に76歳で隠居しました。享年80。
妻は井上利盛の養女(秋元成朝の娘・元利之の妻)。
五代 井上 利守(としもり)【1705~1767】
井上利忠の長男、母は井上利盛の養女。
1744年(40)に相続しました。1746年(42)に御小姓組の番士となりました。享年63。
妻は永井賢意の娘、仙台藩伊達家の家臣 永井庸寿の娘。
六代 井上 利恭(としやす)【1749~?】
井上利守の長男、母は永井庸寿の娘。
1767年に19歳で相続しました。1769年(21)に御小姓組となり、1771年(23)に進物の役をつとめました。1776年(28)に十代将軍 徳川家治の日光社参に供奉しました。1783年(35)に西ノ丸の小十人の頭に転じました。
1786年(38)に御目付に移り、1788年(40)に久能山東照宮の修復の功で黄金を賜りました。同年京都町奉行にすすみ、1791年(43)に御作事奉行となりました。1796年(48)に日光山御宮と御霊屋修造のため同地に赴き、その後、上野国の世良田御宮及び諸堂社等修復の功で黄金を賜りました。
妻は旗本 本多直嗣の娘、旗本 渡邊英の娘。
井上 利忱(としただ)【1771~?】
井上利恭の長男、母は本多直嗣の娘。
妻は旗本 竹本守正温の娘。
(2)旗本:井上多門家
(寛政年間までの当主)
初代 井上 利長(としなが)【1635~1691】
井上利義の三男、母は後藤利久の娘。
1646年(12)に召されて御小姓となりました。1648年(14)に月俸二十口を賜り、のちに月俸をあらためられ廩米三百俵を賜りました。
妻は旗本 跡部良保の娘。
二代 井上 利実(としざね)【1659~1702】
井上利長の長男、母は跡部良保の娘。
館林藩主 徳川綱吉の神田屋敷において表小姓をつとめ、のちに書院番に転じました。1680年(22)に父とともに西ノ丸につとめ、徳松が亡くなると小普請となりました。1685年(27)に桐間番に列し、のちに御小姓に進みましたが、1686年(28)に故ありて小普請に貶されました。1688年(30)に御小姓に復するも故ありて逼塞し、小普請に貶されました。1690年(32)に大番に列しました。
1691年に33歳で相続しました。1697年(39)に廩米をあらためられ、下総国内で五百石を賜りました。享年44。
妻は加藤清信の娘。
三代 井上 利友(としとも)【1661~1721】
井上利長の二男、母は跡部良保の娘。
1702年に42歳で相続しました。1715年に55歳で隠居しました。享年61。
四代 井上 利寿(としなか)【1681~1759】
井上利長の六男、母は跡部良保の娘。
1715年に35歳で相続しました。1725年(45)に下総国内の采地を下野国内に移されました。1726年(46)に西ノ丸の新番に列し、1737年(57)に本丸につとめました。1755年に75歳で隠居しました。享年79。
五代 井上 利喬(としたか)【1721~1777】
井上利寿の長男。
1755年に35歳で相続しました。1758年(38)に御納戸番に列し、1760年(40)に新番に移り、1773年(53)に西ノ丸切手御門番の頭となりました。享年57。
六代 井上 利貞(としさだ)【1750~?】
井上利喬の三男。
1777年に28歳で相続しました。1782年(33)に西ノ丸の御納戸版に列し、1786年(37)より本丸につとめ、翌年新番に転じました。
妻は武蔵忍藩阿部家の家臣 多田利義の娘、後妻は旗本 内藤信就の娘、後々妻は旗本 能勢頼種の娘。
参考文献:
信長の家臣団と光秀対秀吉(Standards)
それでは、今日はここまで。
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