探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本岡野氏~板部岡江雪斎の子孫・その1~

こんにちは、勘矢です。
今回は旗本岡野氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 岡野氏とは

 桓武平氏で北条氏の一族といい、伊豆国田方郡狩野荘田中郷に住んで田中氏を称した。
 戦国時代の融成【1537~1609】は北条氏政に仕えて重んじられ、近臣板部岡某の遺領と与力を与えられて板部岡に改称した。また、その号から板部岡江雪斎として有名で、外交僧として北条家の対外的な折衝役を務めた。小田原征伐後、豊臣秀吉の御伽衆に加わり厚遇され、岡部に改めたのも秀吉の命によるものという。しかし、秀吉没後は徳川家康に急接近し、関ヶ原の戦いにおいては家康に随行し、小早川秀秋の説得に尽力したという。
 江雪斎の子房恒は小田原征伐後に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い、大坂の両陣に三陣し、1633年に千五百石の知行となる。
 房恒の二男成恒は徳川家光・家綱と仕えたのち、甲府藩主徳川綱重の家老となり、三千石を領した。それ以前に領した知行九百五十石はその子成旭が継いだ。甲府での三千石は養子成勝が相続し、徳川家宣が将軍職を継いだため同じ石高で旗本となった。その子孫知鄰は一橋家家老、その子知英は西の丸側御用取次をつとめた。
 

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旗本岡野氏略系図
 
 

2. 旗本岡野一族

(1)旗本:岡野平兵衛家

(寛政年間までの当主)
初代 岡野 房恒(ふさつね)【1570~1658】
 板部岡江雪斎の長男、母は富田某の娘。
 はじめ岩槻城主 北条氏房に仕え、一字を与えられて房恒と名乗りました。1590年(21)の小田原攻めの際は岩槻城に籠り防戦し、和談後に城を去りました。翌1591年(22)に徳川家康に拝謁し、武蔵国内において五百石を賜りました。九戸の乱、文禄の役関ヶ原の戦い、大坂の両陣に従いました。
 1624年(55)に鉄砲同心三十人を預けられ、甲斐国内で五百石を加増され、1633年(64)にさらに五百石を加増されて千五百石を知行しました。1655年に86歳で隠居し、隠居料五百石を賜りました。享年89。
 妻は北条家の家臣 糟谷豊後守の娘。
 
二代 岡野 成明(なりあきら)【1608~1694】
 岡野房恒の長男、母は糟谷豊後守の娘。
 1624年(17)に御書院番に列し、蔵米三百俵を賜りました。1633年(26)に二百石を賜り、蔵米を改められ、常陸江戸崎において五百石を知行しました。1636年(29)より進物役をつとめました。
 1655年に48歳で家督相続し、これまでの五百石は父の隠居料となりました。同年に御鉄砲頭となりました。1682年に75歳で隠居し、隠居料として蔵米六百俵を賜りました。享年87。
 妻は旗本 加藤正重の娘。
 
三代 岡野 房勝(ふさかつ)【1641~1704】
 岡野成明の長男、母は加藤正重の娘。
 1659年(19)に御書院番に列し、1661年(21)に蔵米三百俵を賜りました。1677年(37)に御徒頭となって三百俵を加えられ、1682年(42)に五百石を加えられ、のちに盗賊追捕の役をつとめました。同年に家督相続し、蔵米は父の隠居料となり、五百石は収められました。1702年(62)に御持弓頭に移りました。享年64。
 妻は旗本 加藤正之の娘。正之は正重の子。
 
岡野 内蔵允【1669~1687】
 岡野貞明の三男。房勝の養子となるも父に先立ち没しました。享年19。
 
四代 岡野 成方(なりかた)【1697~1733】
 一族 岡野成勝の二男。
 房勝の養子となって1705年にわずか9歳で家督相続し、寄合に列しました。同年、甲斐国内の領地が駿河国内に移されました。1726年(30)に火事場見廻りをつとめ、翌年に御使番となりました。1728年(32)に将軍徳川吉宗の日光社参に従いました。1729年(33)に松平(大河内)信祝が遠江浜松城を賜るときに現地に赴きました。享年37。
 妻は旗本 伊丹勝友の娘。
 
五代 岡野 成路(なりみち)【1717~1792】
 岡野成方の長男、母は伊丹勝友の娘。
 1733年に17歳で家督相続し、小普請となりました。1744年(28)に西ノ丸の御小姓組に列し、1761年(45)に本丸に移りましたが、翌年西ノ丸に戻りました。1771年(55)に辞職し、1773年に57歳で隠居しました。享年76。
 妻は旗本 中山直看の娘。直看の妻と成路の母は姉妹。
 
六代 岡野 成韶(しげつぐ)【1737~?】
 岡野成路の二男。
 兄成信が父に先立ち没したので、成韶が1773年に37歳で家督相続しました。弟成式(しげのり)を養子に迎えている。
 妻は旗本 中山直彰の娘。直彰は直看の子。
 

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岡野氏・中山氏関係図
 

(2)旗本:岡野長十郎家

(寛政年間までの当主)
初代 岡野 成恒(なりつね)【1611~1692】
 岡野房恒の二男、母は糟谷豊後守某の娘。
 1628年(18)に御書院番となり、蔵米百五十俵を賜りました。のち御小姓組に移り、1633年(23)に二百石を加増され、蔵米を改められました。1658年(48)に御徒頭となり、三百俵を加増されました。1667年(57)に駿府町奉行に転じ、三百俵を加増され、三百五十石・六百俵となりました。
 1670年(60)に徳川綱重の家老となり、甲府信濃国内で三千石を知行しました。これまでの三百五十石・六百俵は養子成旭に与えられました。享年82。
 妻は美濃大垣藩 松平家家臣 金田房能の娘。
 
二代 岡野 成旭(なりてる)【?~1720】
 一族岡野成明の二男、母は加藤正重の娘。
 1663年に御小姓組に列し、のちに叔父成恒の養子となりました。1670年に養父成恒が徳川綱重の家老となって別に知行を賜ると、成旭が三百五十石・六百俵を賜りました。1683年に御徒頭、1694年に御目付、1696年に御船手に移りました。
 1697年に蔵米を改めて下総・武蔵・伊豆国内で六百石を賜り、合わせて九百五十石を知行しました。1701年に小普請に貶され、1709年に隠居しました。
 妻は旗本 長谷川正相の娘。この長谷川家は長谷川平蔵と同族。
 
三代 岡野 将致(まさむね)【1675~1756】
 岡野成旭の長男、母は長谷川正相の娘。
 1709年に35歳で家督相続し、三百石を弟房安に分け与えたため、六百五十石となりました。1719年(45)に御小姓組に列し、のちに西ノ丸に勤仕しました。1744年(70)に老年のため辞職し、1748に74歳で隠居しました。享年82。
 
四代 岡野 公頼(きんより)【1710~1759】
 分家岡野房安の長男。
 従兄の将致の養子となり、1748年に39歳で家督相続し御小姓組に列しました。享年50。
 
五代 岡野 将共(まさとも)【1724~1762】
 岡野将致の二男。
 義兄公頼の養子となり、1759に36歳で家督相続しました。享年39。
 
六代 岡野 房保(ふさつね)【1732~1788】
 岡野将致の四男。
 兄将共の養子となり、1762年に31歳で家督相続しました。翌年西ノ丸御書院番となりました。享年57。
 妻は旗本 塩入利峯の娘。
 
七代 岡野 時英(ときふさ)【1769~?】
 岡野房保の長男、母は塩入利峯の娘。
 1788年に20歳で家督相続しました。1794年(26)に御書院番に列し、1796年(28)に将軍世子徳川家慶附属されて西ノ丸に移りました。
 妻は旗本 本間季晨の娘。
 
(寛政年間以降の人物)
岡野 平三郎
 西ノ丸書院番
 
岡野 房充(ぼうじゅう)
 通称寅之助、作兵衛。
 1848年に家督相続し、小普請入。1861年に奥詰、のち書院番1863年に両番格奥詰、講武所奉行支配。
 

(3)旗本:岡野源之助家

(寛政年間までの当主)
初代 岡野 房安(ふさやす)【1689~1750】
 岡野成旭の二男。
 1709年(21)に父の知行地の内、武蔵・下総国内の三百石を分け与えられ、小普請となりました。1729年(41)に大番に列し、1747年(59)に辞職しました。享年62。
 
二代 岡野 房供(ふさとも)【1713~1772】
 岡野房安の二男。
 1742年(30)に大番となりました。1750年に38歳で家督相続し、新番に転じました。1771年に59歳で隠居しました。享年60。
 
三代 岡野 房都(ふさくに)【1742~?】
 岡野房供の長男。
 1771年に30歳で家督相続しました。1772年(31)に大番に列し、1777年(36)に辞職しました。1791年(50)に駿府勤番となり移り住みました。1798年に57歳で隠居しました。。
 妻は旗本 興津直堅の娘。
 
四代 岡野 房安(ふさやす)【1746~?】
 岡野房供の二男。
 兄房都の養子となり、1798年に53歳で家督相続し、勤番となりました。
 妻は旗本 三宅勝方の娘。
 

(4)旗本:岡野備中守家

初代 岡野 成勝(なりかつ)【1663~1727】
 分家岡野貞明の二男、母は岡野成明の娘。
 母方の叔父成恒の養子となり、甲府藩の家老の家(三千石)を相続し、甲府城代をつとめました。1704年(42)に藩主徳川綱豊が将軍家を相続したので、旗本となり寄合に列し、翌年御書院番頭となりました。甲斐の領地は駿河国内に移されました。
 1773年(51)に大番頭にすすみ、1718年(56)に将軍徳川吉宗の生母浄圓院が江戸に至る際に従い、時服四領を賜りました。1723年(61)に辞職し、1727年(65)に御留守居となりました。享年65。
 妻は旗本 松平(宮石)正勝の娘。
 
岡野 成員(なりかず)【1695~1716】
 岡野成勝の長男。父に先立ち没しました。享年22。
 
二代 岡野 成常(なりつね)【1704~1757】
 岡野成勝の三男。
 1727年に24歳で家督相続し、1738年(35)に火事場見廻をつとめ、1741年(38)に御使番となりましたが、翌年に辞職しました。享年54。
 妻は越後糸魚川藩主 松平(越前)直好の養女(旗本 松平(久松)定員の娘で直好の実妹)。
 
三代 岡野 知暁(ともさと)【1730~?】
 岡野成常の長男、母は松平直好の養女。
 1757年に28歳で家督相続しました。1764年(35)より火事場見廻をつとめ、1768年(39)に御使番となりました。1771年(42)に小普請組支配に転じ、1776年(47)に小姓組番頭にうつり、1781年(52)に西ノ丸御書院番に転じ、1787年(58)に御留守居に進みました。
 1789年(60)に将軍徳川家斉に淑姫が誕生したときに御節刀の役、1796年(67)に敦之助が誕生したのときは蟇目役をつとめました。1802年73歳でに隠居しました。
 妻は旗本 奥田忠英の娘。
 
 知暁の二男忠成(ただあきら)は旗本水野家の婿養子となり、その後、本家の沼津藩水野家を相続しました。将軍家斉の時代に側用人や老中をつとめました。
 
四代 岡野 知隣(ともちか)【1762~1817】
 岡野知暁の長男、母は奥田忠英の娘。
 1777年(16)に御小納戸となり、その後御小姓に移りました。1788年(27)に中奥の御小姓に転じ、1796年(35)に父が蟇目役をつとめたときに矢取の役をつとめました。
 1802年に41歳で家督相続しました。1803年(42)に小普請組支配、1806年(45)に一橋家家老となりました。1811年(50)に西ノ丸御側となり、1813年(52)家慶の長男竹千代の御側となるが、翌年家慶の御側に戻り、1816年(55)に本丸御側となりました。享年56。
 妻は旗本 横田準松の娘、後妻は本家 岡野成韶の娘。
 
五代 岡野 知英(ともふさ)【?~1847】
 岡野知隣の子。
 1817年に家督相続しました。1818年に寄合から御小納戸となり、1822年に御小姓、1836年に御小姓頭取介となりました。1840年以降西ノ丸御小姓頭取や西ノ丸御用取次をつとめました。1843年に本丸にて御側御用取次となりました。
 知英の五男 久通は豊後臼杵藩稲葉家の養子となり藩主となりました。
六代 岡野 知道(ともみち)【?~?】
 岡野知英の子。
 1834年に御小納戸となり、1837年に大御所徳川家斉付の西ノ丸御小納戸となりました。1839年に西ノ丸御小姓、1841年に本丸御小姓となりましたが、翌年辞職し、寄合となりました。1843年に中奥御小姓となり、1847年に家督相続しました。1858年に辞職し、寄合となりました。1862年に隠居しました。
 
七代 岡野 雄之丞(ゆうのじょう)【?~1869】
 岡野知英の子。
 兄知道の養子となり、1862年家督相続しました。
 
 国立公文書館デジタルアーカイブの「公00277100:知事実父方叔父岡野雄之丞死去ニ付忌服届」によると、菊間藩知事 水野忠敬の実父方の叔父が雄之丞で、明治2年に没したとある。
 菊間藩は、江戸城無血開城後に徳川宗家が駿河遠江に移されることになったため、沼津藩が上総国内に転封されてできた藩。
 

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旗本岡野氏略系図
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 家紋・旗本八万騎 高橋賢一著(秋田書店
 寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻(東洋書林
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 戦国大名家臣団大全(Standards)
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 千葉いまむかし No.7 (千葉市編集委員会
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。