探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

竹谷松平家

こんにちは、勘矢です。
今回は竹谷松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 竹谷松平家

 竹谷松平氏は、松平信光の長男守家が三河国宝飯郡竹谷(愛知県蒲郡市)に住んだことからはじまる。
 清善は一時今川氏に属し、家康が独立後に仕えた。1563年に異父兄で上之郷城主の鵜殿長照を滅ぼした。その子清宗も家康に仕え、三河一向一揆、1575年の長篠の戦いで活躍するなど各地を転戦した。1582年に本領の竹谷は子の家清に譲り、清宗は駿河興国寺城の城代となった。
 家清は1590年に徳川家の関東移封の際に武蔵国児玉郡八幡山(埼玉県本庄市)で一万石を与えられ、関ヶ原の戦い後、三河吉田(愛知県豊橋市)三万石に転封となった。その子忠清のとき、嗣子なく断絶となった。異母弟清昌に三河国宝飯郡で五千石を与えられて再興し、西郡(愛知県蒲郡市)に陣屋を置いて交代寄合に列した。
 
松平 清善(きよよし)【1505~1587】
 松平親善の子。享年83。妻は松平(形原)家広の娘。
 
松平 清宗(きよむね)【1538~1605】
 松平清善の長男、母は松平(形原)家広の娘。享年68。妻は松平(深溝)好景の娘。
 

竹谷松平氏系図
 
 

2. 三河吉田藩

 松平家清は1582年の甲斐攻めに従軍して戦功をたて、同年、父より竹谷の本領を譲り受けた。小牧長久手の戦いでは父清宗と共に駿河興国寺城を守備した。1590年に武蔵国児玉郡八幡山で一万石を与えられた。九戸政実の乱のとき陸奥国岩手沢まで従軍し、関ヶ原の戦いでは石川康通とともに尾張国清洲城の定番をつとめた。その後、二万石を加増されて三河吉田で三万石となり、弟清定に新墾田三千二百石を分与した。1610年に忠清は家督相続するも、約1年半で急死したため所領没収となった。
 家清には家康異父妹(久松俊勝の娘)が嫁いでいるので家康の義弟にあたり、その子忠清は家康の甥にあたる。また、家清の娘は家康の養女となり浅野長重に嫁いだ。長重の曾孫は赤穂藩主の浅野長矩
 
初代 松平 家清(いえきよ)【1566~1610】
 松平清宗の長男、母は松平(深溝)好景の娘。享年45。
 在職期間:1601年(36)~1610年(45)
 正室久松俊勝の娘 天桂院。
 
二代 松平 忠清(ただきよ)【1585~1612】
 松平家清の長男、母は久松俊勝娘。享年28。
 在職期間:1610年(26)~1612年(28)
 正室は石見津和野藩主 亀井玆矩の娘。
 

三河吉田城
 

3. 旗本竹谷松平家

(1)交代寄合:松平主水家

 1612年に三河吉田藩主松平忠清が無嗣断絶となると、その弟清昌は召し出されて名跡を継ぎ、三河国宝飯郡で五千石を与えられ、隔年に参勤交代する交代寄合となった。1626年(34)二条城行幸の際に中宮の供奉をつとめた。二代清直のときに弟清吉に五百石を分与し、四千五百石となった。
 清吉は御書院番となり蔵米三百俵を与えられ別家した。1655年に兄より五百石を分与されたので蔵米は返還されたが、同年駿府城の守衛中に没し、無嗣断絶となった。
 
初代 松平 清昌(きよまさ)【1593~1655】
 松平家清の二男、母は鵜殿光正の娘。
 1612年(20)に名跡相続。享年63。
 
二代 松平 清直(きよなお)【1626~1677】
 松平清昌の三男。
 1655年に30歳で家督相続。享年52。
 妻は旗本 大久保教隆の娘。
 後妻は筑前福岡藩 黒田家家臣 能勢頼資の娘。後妻能勢氏の生母は大奥老女近江局。
 
松平 清吉(きよよし)【1626~1655】
 松平清昌の四男。
 1652年(27)に別家。享年30。
 
松平 清長(きよなが)【1654~1675】
 松平清雄の長男。父の清雄は病のため嗣子にならず、叔父清直の養子となるも早世した。享年22。
 
三代 松平 清当(きよまさ)【1671~1721】
 松平清勝の二男。父の清勝は故あって本多忠利のもとに寓居。
 叔父清直の養子となり、1677年にわずか7歳で家督相続。1697年に27歳で隠居。享年51。
 妻は出羽亀田藩主 岩城重隆の娘。
 
四代 松平 義堯(よしたか)【1678~1758】
 松平清勝の三男。初名清倫。
 兄清当の養子となり、1697年に20歳で家督相続。1734年に57歳で隠居。享年81。
 妻は近江仁正寺藩主 市橋政信の養女(旗本蒔田定行の嫡子定次の娘)。
 後妻は丹波福知山藩主 朽木稙昌の娘。
 
松平 守信(もりのぶ)【1705~?】
 松平義堯の長男。1725年病のため嫡を辞す。
 
五代 松平 義著(よしつぐ)【1714~1790】
 松平義堯の二男、母は朽木稙昌の娘。
 1734年に21歳で家督相続。享年77。
 妻は豊後日出藩主 木下俊量の娘。
 
六代 松平 義峯(よしみね)【1741~1777】
 豊前中津藩主 奥平昌成の六男。
 義著の婿養子となり、1765年に25歳で家督相続。享年37。
 妻は松平義著の娘。
 
七代 松平 守惇(もりあつ)【1754~?】
 三河西尾藩主 松平乗佑の八男。
 義峯の養子となり、1777年に24歳で家督相続。1795年に42歳で隠居。
 妻は信濃飯山藩主 本多助盈の娘。
 
八代 松平 守誠(もりさと)【1778~?】
 松平守惇の長男。
 守惇の養子となり、1795年に18歳で家督相続。
 妻は三河西尾藩主 松平乗完の娘。先代守惇の姪。
 
九代 松平 善長 (よしおさ)【?~?】
 三河西尾藩主 松平乗完の三男。通称潤之助、主水。初名乗応、別名義長。
 守誠の養子となり、1802年家督相続。
 妻は陸奥中村藩主 相馬祥胤の娘。
 
十代 松平 清良 【?~?】
 松平善長の子。通称与四郎、主水。1827年に父の隠居により家督相続。
 妻は石見津和野藩主 亀井矩賢の娘。
 
十一代 松平 清倫 【?~1851】
 松平大炊の子。通称元吉、主水。清良の養子となり、1836年に家督相続。
 
十二代 松平 敬信 【?~?】
 松平玄蕃の子。通称与次郎。清倫の養子となり、1851年に家督相続。
 
 
 

(2)旗本:松平登之助家

 三河吉田藩主の松平家清は弟清定に領内で三千二百石を与えた。従兄の清昌が西郡を与えられるとその領内で七百石を分け与えられた。その子清信は1635年に三代将軍徳川家光に拝謁し、御小姓組に列せられて蔵米三百俵を賜り、七百石は本家へ返還した。
 清信の長男清行は父とは別に蔵米三百俵を賜り、その後加増を重ねて九百俵となった。1697年に蔵米を改めて武蔵国内で千二百石を知行した。七代貴強は大坂町奉行長崎奉行をつとめた。
 
(寛政年間までの当主)
松平 清定(きよさだ)【1585~1605】
 松平清宗の二男、母は松平好景の娘。享年21。
 妻は松平(形原)家信の養女(松平(長沢)康忠の娘)。
 
初代 松平 清信(きよのぶ)【1604~1671】
 松平清定の長男、母は松平家信の養女。
 1635年(32)に別家。御小姓組。享年68。
 
二代 松平 清行(きよゆき)【1622~1670】
 松平清信の長男。
 1644年(23)に蔵米三百俵。御小姓組、中奥番士。享年49。
 妻は交代寄合 松平(竹谷)清昌の娘。
 
三代 松平 清親(きよちか)【1646~1720】
 松平清行の長男、母は松平清昌の娘。
 1670年(25)に家督相続。御小姓組の番士、御小納戸。1709年に64歳で隠居。享年75。
 妻は播磨赤穂藩浅野家家臣 黒澤杢之助の娘。
 
四代 松平 清興(きよおき)【1687~1746】
 旗本 松平(形原)氏辰の三男、母は松平典信の娘。
 1709年に23歳で家督相続。御書院番、御徒頭。1721年に35歳で隠居。享年60。
 妻は松平清親の養女(清親の弟松平正房の娘)。
 
五代 松平 親賢(ちかよし)【1706~1743】
 松平清興の長男、母は松平清親の養女松平正房の娘。
 1721年に16歳で家督相続。享年38。
 妻は旗本 松平(形原)信房の娘。
 
六代 松平 親房(ちかふさ)【1718~?】
 交代寄合 松平義堯の五男。
 1743年に26歳で家督相続。西ノ丸御小姓組。1771年に54歳で隠居。
 
七代 松平 貴強(たかます)【1742~1799】
 松平親賢の二男。
 兄親房の養子となり、1771年に30歳で家督相続。長崎奉行在任中に現地にて没した享年58。
 妻は旗本 小坂雄税の娘。
 
八代  松平 善宝(よしとみ)【?~1820】
 松平貴強の長男、母は小坂雄税の娘。通称亀五郎。
 1799年に家督相続。御小姓組、使番。
 
幕末の頃の当主
松平 清秀【?~?】
 通称登之助、次郎兵衛。1847年に御書院番から御使番。1861年に禁裏附。
 

旗本竹谷松平氏系図
 

(3)松平登之助家の分家

 松平登之助家からは4つの分家がある。
 松平金之丞家は初代清信の二男清武からはじまり、蔵米二百五十俵。二代清之、三代茂清、四代清行は大番をつとめ、清行は甲府勤番となった。
 
(寛政年間までの歴代当主)
初代 松平 清武(きよたけ)【1628~1686】 松平清信の二男。享年59。
二代 松平 清之(きよゆき)【1668~1716】 松平清武の長男。1686年(19)に家督相続。享年49。
三代 松平 茂清(しげきよ)【1705~1737】 松平清武の二男。1716年(12)に家督相続。享年33。
四代 松平 清行(きよゆき)【1733~1798】 交代寄合 松平義堯の八男。1737年(5)に家督相続。享年66。
五代 松平 清盈(きよみつ)【1766~?】 旗本 庵原忠当の三男。1792年(27)に相続。 
 
 松平信房家は初代清信の四男からはじまり、蔵米三百五十俵。信房ははじめ館林時代の徳川綱吉に仕え、1680年に綱吉の子徳松の西ノ丸入りに従い幕臣となった。三代清高から甲府勤番となり、五代清時のとき駿府勤番となった。
 
(寛政年間までの歴代当主)
初代 松平 信房(のぶふさ)【?~1707】 松平清信の四男。
二代 松平 清定(きよさだ)【?~1719】 松平信房の長男。1700年に家督相続。。
三代 松平 清高(きよたか)【1708~1783】 松平清定の長男。1719年(12)に家督相続。1749年(42)に家隠居。享年76。
四代 松平 清安(きよやす)【1725~1789】 松平清高の長男。1749年(25)に家督相続。享年65。
五代 松平 清時(きよとき)【1751~?】 松平清安の長男。1789年(39)に家督相続。
 
 松平清春家は初代清信の五男清春からはじまる。三代将軍徳川家光の子亀松の附属となり、その後御書院番となって蔵米三百俵を与えられ別家した。二代清緝は御小姓組などをつとめた。四代安次郎のとき無嗣断絶。
 
初代 松平 清春(きよはる)【1639~1701】 松平清信の五男。享年63。
二代 松平 清緝(きよつぐ)【1662~1702】 旗本 筒井忠景の二男、母は松平清信の娘。1701年(40)に家督相続。享年41。妻は松平清春の娘。
三代 松平 源十郎【1696~1714】 松平清緝の長男。1702年(7)に家督相続。享年19。
四代 松平 安次郎【1704~1716】 松平清定の二男。1714年(11)に家督相続。享年13。
 
 松平甲斐守家は三代清親の養子誠成(のりなり)からはじまる。清親ははじめ弟清方を養子に取るが先立たれ、旗本長谷川重賢の四男誠成を養子に迎えた。誠成の母は松平清信の娘であるので、清親とは従兄弟となる。誠成は五代将軍綱吉の御近習番となり、蔵米三百俵を与えられた。のちに綱吉より仁賀保姓への改姓を命じられた。仁賀保は実父長谷川重賢の実家の姓である。1700年に蟄居を命ぜられて改易となった。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 続徳川実紀 第1篇第2篇、第3篇、第4篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林
 日本人名大辞典(講談社
 増補改訂版 日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本(中経出版
 家康と松平一族(安城市歴史博物館)
 大成武鑑4巻[2]文化元(千鐘房須原屋茂兵衛 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 大成武鑑4巻[3]文政10(千鐘房須原屋茂兵衛 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。