探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

形原松平家~丹波亀山藩とその分家~

こんにちは、勘矢です。
今回は形原松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 形原松平家

 形原松平氏は、松平信光の四男与副(ともすけ)が三河国宝飯郡形原(愛知県蒲郡市)に住んだことからはじまる。四代家広は1547年に今川氏に所領を没収され、追われた。その後今川氏に従い、1561年に徳川家康に仕えた。五代家忠は武田氏との戦いで遠江国馬伏塚城を守り、1575年の長篠の戦いでは酒井忠次の元で鳶巣山を攻めたという。
 六代家信は1582年の甲斐・信濃攻めで酒井忠次の配下として参陣し、その後は徳川の水軍の将として活躍し、1592年に肥前名護屋へ家康が発向する際に船を仕立てた。また、1590年徳川家の関東移封の際に上総国市原郡五井(千葉県市原市)で五千石を与えられ、1601年に旧領の三河形原(愛知県蒲郡市)五千石となり、1618年に安房国内で五千石が加増されて諸侯に列し、三河形原藩一万石を立藩した。
 その後は譜代大名として各地への転封を繰り返し、また加増もされて丹波亀山(京都府亀岡市)五万石となった。五代信庸と十二代信義は老中をつとめた。
 
松平 家広(いえひろ)【?~1571】
 松平親忠の子。妻は水野忠政の娘。
 
松平 家忠(いえただ)【1547~1582】
 松平家広の長男、母は水野忠政の娘。享年36。妻は酒井正親の娘。
 

2. 丹波亀山藩松平家

(1)形原から転封を重ね篠山へ

 関ヶ原の戦い後、家信は旧領三河形原で五千石を与えられた。大坂冬の陣には出陣したが、夏の陣では病気のため、二男康信を代陣させた。1618年に留守居に任ぜられ、安房国内で五千石を加増されて一万石となり、形原藩を立藩した。翌年摂津高槻に二万石を与えられ、そのうち五千石を康信に分与した。1635年に加増されて下総佐倉四万石となった。
 二代康信は家督相続時に弟氏信と信忠にそれぞれ二千石を分け与えた。信忠は約2年後に嗣子なく没し断絶した。1640年に摂津高槻に再度入封し、1649年に一万四千石を加増されて丹波篠山五万石となった。康信は隠居後、子の典信、孫の信利・信庸の後見役をつとめた。
 康信の三男英信は1652年に蔵米千俵を与えられたが、1656年に嗣子なく断絶した。
 五代信庸は兄信利の養子となり家督相続し、1697年に京都所司代、1714年に老中に就任したが、1716年に辞職した。
 
初代 松平 家信(いえのぶ)【1565~1638】
 松平家忠の子、母は酒井正親娘。享年74。
 形原藩主 在職期間:1618年(54)~1619年(55)
 高槻藩主 在職期間:1619年(55)~1635年(71)
 佐倉藩主 在職期間:1635年(71)~1638年(74)
 正室松平康忠の娘。継室は太田輝資の娘。
 
松平 信忠(のぶただ)【?~1640】
 松平家信の四男。
 
二代 松平 康信(やすのぶ)【1600~1682】
 松平家信の二男、母は太田輝資娘。享年83。
 佐倉藩主 在職期間:1638年(39)~1640年(41)
 高槻藩主 在職期間:1640年(41)~1649年(50)
 篠山藩主 在職期間:1649年(50)~1669年(70)隠居
 正室紀州藩付家老 水野重仲の娘。継室は若狭小浜藩酒井忠勝の娘。
 
三代 松平 典信(すけのぶ)【1629~1673*】
 松平康信の長男、母は水野重仲娘。享年44。
 在職期間:1669年(41)~1672年(44)
 正室は下総関宿藩主 板倉重宗の娘。
 
松平 英信(ふさのぶ)【1634~1656】
 松平康信の三男、母は水野重仲の娘。享年23。
 
四代 松平 信利(のぶとし)【1659~1677*】
 松平典信の二男、母は板倉重宗娘。享年18。
 在職期間:1673年(15)~1676年(18)
 
五代 松平 信庸(のぶつね)【1666~1717】
 松平典信の三男、母は板倉重宗娘。享年52。
 在職期間:1677年(12)~1717年(52)
 正室は上野前橋藩酒井忠清の娘。継室は加賀大聖寺藩主 前田利明の娘。
 

形原松平氏系図

(2)丹波亀山藩

 六代信岑は1735年に奏者番寺社奉行をつとめた。1748年に丹波亀山に転封となった。七代信直は伯父信直の養子となった。八代信道は禁裏御所警衛役、奏者番寺社奉行を兼務した。
 十代信志は分家から養子に入った。十一代信豪はわずか4歳で家督相続し、外戚松平定信が後見役となった。藩校邁訓堂の整備・充実を図った。
 十二代信義は分家から養子に入り、1846年に奏者番となり、のちに寺社奉行を兼任した。1858年に大坂城代となり、1860年に老中に就任し、特に外国御用取扱として生麦事件などの処理にあたった。1863年に辞職した。信義ははじめ養父信豪の子信敏を養子としたが早世したので、その弟信正を養子とした。
 十三代信正ははじめ佐幕派であったが、新政府軍が亀山に接近すると降伏した。1869年に版籍奉還して亀山藩知事となり、伊勢亀山藩との混同を避けるために亀岡藩に改称し、1871年廃藩置県を迎えた。
 
六代 松平 信岑(のぶみね)【1696~1763】
 松平信庸の長男、母は前田利明の娘。享年68。
 丹波篠山藩主 在職期間:1717年(22)~1748年(53)
 丹波亀山藩主 在職期間:1748年(53)~1763年(68)
 正室陸奥磐城平藩主 内藤義孝の娘。継室は義孝の兄内藤義英の娘。継々室は信濃高遠藩主 内藤清牧の娘。
 
七代 松平 信直(のぶなお)【1732~1786】
 一族松平庸倫の二男。享年55。
 在職期間:1763年(32)~1781年(50)隠居
 正室信濃松本藩主 松平(戸田)光雄の娘。
 
八代 松平 信道(のぶみち)【1762~1791】
 松平信直の長男、母は松平光雄の娘。享年30。
 在職期間:1781年(20)~1791年(30)
 正室伊予松山藩主 松平定静の娘。
 
九代 松平 信彰(のぶかた)【1782~1802】
 松平信道の長男、母は松平定静の娘。享年21。
 在職期間:1791年(10)~1802年(21)
 正室は摂津尼崎藩主 松平(桜井)忠告の娘。
 
十代 松平 信志(のぶゆき)【1785~1816】
 分家松平庸孝の長男、母は朽木紀綱の娘。初名庸行。享年32。
 在職期間:1802年(18)~1816年(32)
 正室陸奥白河藩松平定信の養女(伊予大洲藩主 加藤泰候の娘)。
 継室は陸奥白河藩松平定信の娘。
 
十一代 松平 信豪(のぶひで)【1813~1865】
 松平信志の子。享年53。
 在職期間:1816年(4)~1843年(31)隠居
 正室は播磨姫路藩主 酒井忠実の娘。
 
十二代 松平 信義(のぶよし)【1822~1866】
 松平庸熙の長男、母は松平信愛娘。別に信篤。享年45。
 在職期間:1843年(22)~1866年(45)
 正室は太田資熙の娘。
 
十三代 松平 信正(のぶまさ)【1852~1909】
 松平信豪の七男、母は。享年58。
 在職期間:1866年(15)~1871年(20)<1869年から亀岡藩知事>
 正室遠江横須賀藩主 西尾忠受の娘。継室は対馬府中藩主 宗義和の娘。
 

3. 旗本形原松平家

(1)旗本:松平留吉家

 丹波篠山藩主松平信庸の二男庸倫は、1722年に兄信岑から蔵米二千俵を分与された。翌年中奥の御小姓となり、その後西ノ丸の御書院番頭を経て大番頭に進んだ。また、1728年に八代将軍徳川吉宗の日光社参に供奉した。
 
(寛政年間までの当主)
初代 松平 庸倫(つねとも)【1698~1761】
 松平信庸の二男、母は前田利明の娘。
 1722年(25)に分家。享年64。
 
二代 松平 庸孝(つねたか)【1757~?】
 松平庸倫の二男、母は船津氏。
 1761年にわずか5歳で家督相続。
 妻は旗本 朽木紀綱の娘。
 後妻は旗本 内藤忠見の娘。
 
(寛政以降の人物)
松平 庸理 【?~?】
 父は松平留吉。通称鉄之助、友三郎。1842年に兄信義が宗家の養子に入ったため、家督相続。御小姓組、御使番。

(2)旗本:松平内蔵丞

 摂津高槻藩主松平家信の四男氏信は、1625年に召し出されて中奥小姓となり、蔵米五百俵を与えられた。1638年に父の遺領から二千石を分け与えられ、蔵米は返還された。その後加増を重ねて武蔵・下総港内で六千石を知行した。
 氏信の嫡男氏清は多病のため家督はその弟の氏辰が相続した。氏辰の跡は氏清の子信房が四千石で継ぎ、二千石は氏辰の二男信錦に与えられ別家した。信房の所領は1698年に駿河国内に移された。
 氏辰の三男道庸は宗家の信庸から蔵米三百俵を与えられ別家したが、養子信友が信房の後嗣となったため断絶した。
 幕末の信武は浦賀奉行、大番頭などをつとめ、大坂在番中に没した。
 
初代 松平 氏信(うじのぶ)【1613~1683】
 松平家信の四男。
 御書院番、御小姓組番頭、大番頭。1677年に65歳で隠居。享年71。
 妻は旗本 久貝正世の娘。
 
松平 氏清(うじきよ)【1643~1689】
 松平氏信の長男、母は久貝正世の娘。多病により相続せず。享年47。
 妻は旗本 大井昌義の娘。
 
二代 松平 氏辰(うじとき)【1653~1693】
 松平氏信の四男、母は久貝正世の娘。
 1677年に25歳で家督相続。。享年41。
 妻は丹波篠山藩主 松平典信の娘。
 
三代 松平 信房(のぶふさ)【1675~1737】
 松平氏清の長男。
 1693年に19歳で家督相続。享年63。
 妻は伊予新谷藩加藤泰觚の娘。
 
松平 道庸(みちつね)【1682~1735】
 松平氏辰の三男、母は松平典信の娘。御小姓、御持筒頭。享年54。
 妻は旗本 松平(西福釜)隆欽の娘。
 
四代 松平 信友(のぶとも)【1718~1778】
松平親春の三男。
 松平道庸の婿養子となり、1735年に18歳で家督相続。1736年に(19)信房の養子となり翌年に信房の家督を相続。定火消。1772年に55歳で隠居。享年61。
 妻は松平道庸の娘。
 
五代 松平 信幬(のぶひろ)【1741~1789】
 松平信友の長男、母は松平道庸の娘。
 1772年に32歳で家督相続。定火消、御小姓組番頭。享年49。
 妻は旗本 藪忠久の娘。
 
六代 松平 信愛(のぶひろ)【1763~1802】
 丹波亀山藩主 松平信直の二男、母は松平光雄の娘。
 1789年に27歳で家督相続。新番頭。甲府勤番支配。
 妻は松平信幬の養女(旗本 土岐頼方の娘)。
 
七代 松平 愛之(ひろゆき) 【?~?】
 松平信愛の長男。1802年家督相続。
 
八代 松平 豊五郎 【?~1831】
 1830年に父の隠居により家督相続。
 
九代 松平 信武 【?~1862】
 松平豊五郎の養子。1831年家督相続。甲府勤番支配、浦賀奉行、大番頭。
 
十代 松平 熊之助 【?~1864】
 旗本 石川総登の子。1862年家督相続。御使番、火消役。
 
十一代 松平 内蔵丞 【?~?】
 一族松平藤兵衛の子。熊之助の養子となり、1864年家督相続。御使番。
 

旗本形原松平氏系図

(3)旗本:松平右近家

 松平氏辰の二男信錦は、1693年に父の遺領より武蔵・下総国内で二千石を分与され、1698年に知行地は上総・下総国内に移された。
 
(寛政年間までの当主)
初代 松平 信錦(のぶつら)【1679~1750】
 松平氏辰の二男、母は松平典信の娘。御徒頭、持筒頭、御書院番組頭。享年72。
 妻は旗本 酒井忠正の娘。
 
松平 信辰(のぶとき)【1700~1738】
 松平信錦の長男。父に先立ち没した。享年39。
 妻は高家中條信実の娘(離婚、のち大奥へ仕え老女をつとめた)。
 
二代 松平 氏盛(うじもり)【1711~1771】
 三河田原藩主 三宅康徳の二男、母は三枝氏。
 信辰の養子となり、1750年に40歳で家督相続。御小姓組。享年61。
 妻は松平信綿の養女(松平信辰の娘)。
 
三代 松平 信名(のぶな)【1745~1779】
 松平氏盛の長男、母は松平信綿の養女。
 1771年に27歳で家督相続。御小姓組。享年35。
 
四代 松平 信男(のぶお)【1763~?】
 和泉伯太藩主 渡邊信綱の六男、母は久留島光道の娘。
 信名の養子となり、1779年に17歳で家督相続。御小姓組。1796年に34歳で隠居。
 妻は松平信名の養女(松平氏盛の娘)。
 
五代 松平 信知(のぶちか)【1781~?】
 松平信男の長男、母は松平信名の養女。
 1796年に16歳で家督相続。御小姓組
 妻は旗本 安藤惟徳の娘。

(4)松平家房系の旗本家

 松平家房系の旗本家は3家ある。
 松平八左衛門家は石川正重の二男信平から始まり武蔵国内で八百石。石川正重は松平家広の四男家房の二男にあたり、母方の姓石川を名乗った。大番の番士をつとめ、関ヶ原の戦いや大坂の両陣に供奉した。その長男正長は嗣子なく没し断絶した。
 正重の二男信平は武蔵国内で五百石を与えられて別家し、正房のときに加増されて八百石となった。
 
石川 正重(まさしげ)【?~1626】
 松平家房の二男。妻は松平家信の娘。
 
石川 正長(まさなが)【?~1646】
 松平正重の長男、母は松平家信の娘。妻は丹波篠山藩主 松平康信の娘。
 
初代 松平 信平(のぶひら)【?~1642】
 石川正重の二男、母は松平家信の娘。
 
二代 松平 重正(しげまさ)【?~1675】
 松平信平の長男。1643年に家督相続。
 
三代 松平 正房(まさふさ)【1666~1706】
 旗本松平(竹谷)清行の二男。
 1675年に10歳で家督相続。享年41。妻は松平重正の娘。
 
四代 松平 房儀(ふさのり)【1702~1753】
 松平正房の長男。1706年にわずか5歳で家督相続。享年52。
 
五代 松平 房泰(ふさやす)【1732~1773】
 松平房儀の長男。1753年に22歳で家督相続。享年42。
 
六代 松平 房熟(ふさよし)【1747~1791】
 松平房泰の長男。1773年に27歳で家督相続。享年45。
 
七代 松平 信博(のぶひろ)【1770~?】
 松平房熟の長男。1791年に22歳で家督相続。
 
 松平源七郎家は松平家房の三男正成からはじまり、蔵米二百五十俵。
 
初代 松平 正成(まさなり)【1595~1630】
 松平家房の三男。享年36。
 
二代 松平 政善(まさよし)【1627~1704】
 松平正成の長男。享年78。
 
三代 松平 忠隆(ただたか)【1665~1738】
 松平政善の長男。1695年に31歳で家督相続。享年74。
 
四代 松平 隆尚(たかなお)【1704~1784】
 旗本 松平(西福釜)隆欽の六男。
 1738年に35歳で家督相続。1773年に70歳で隠居。享年81。
 妻は松平忠隆の娘。
 
五代 松平 隆年(たかとし)【1729~1790】
 松平隆尚の長男、母は松平忠隆の娘。
 1773年に45歳で家督相続。享年62。
 
六代 松平 隆則(たかのり)【1774~?】
 松平隆年の二男。1790年に17歳で家督相続。
 
 松平九郎左衛門家は松平正成の二男親明ははじめ甲府藩主徳川綱重に仕え、その子親春が家宣の将軍家相続に従って幕臣となり、武蔵国内で五百石を与えられた。
 
松平 親明(ちかあきら)【1630~1682】
 松平正成の二男。
初代 松平 広政(ひろまさ)【?~?】
 松平親明の長男。
 
二代 松平 親春(ちかはる)【1672~1753】
 松平親明の二男。1704年に33歳で家督相続。享年82。
 
三代 松平 親元(ちかもと)【1694~1765】
 松平親春の長男。1753年に60歳で家督相続。享年72。
 
四代 松平 親芳(ちかよし)【1727~1786】
 松平親元の四男。1765年に39歳で家督相続。享年60。
 
五代 松平 親敬(ちかたか)【1753~?】
 松平親芳の長男。1786年に34歳で家督相続。
 

旗本形原松平氏系図
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林
 明治維新人名辞典(吉川弘文館
 日本人名大辞典(講談社
 大成武鑑4巻[3]弘化4(出雲寺万次郎 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 大成武鑑4巻[3]嘉永4(出雲寺万次郎 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。