こんにちは、勘矢です。
前回に続き大河内松平家について調べたことをまとめました。
1. 三河吉田藩松平家
(1)武蔵忍藩~武蔵川越藩~下総古河藩
三河吉田藩の松平家は、大河内久綱の長男信綱が叔父松平正綱の養子となり、別家して独立したことからはじまる。信綱は徳川家光の誕生に伴って御近習のちに御小姓組番頭となり、1620年に五百石を与えられて以降、数回の加増により1627年に相模国内で一万石となって諸侯に列し、1633年に六人衆となり武蔵忍三万石となった。
1635年に老中に就任し、1637年に島原の乱が起こると上使として下向し、九州の諸大名を指揮して一揆勢の籠る原城を落城させた。その後、加増されて武蔵川越六万石となり、老中筆頭として幕政を担当した。1647年に一万五千石を加増され、七万五千石となった。
初代 松平 信綱(のぶつな)【1596~1662】
大河内久綱の長男、母は深井好秀の娘。享年67。
忍藩主 在職期間:1633年(38)~1639年(44)
川越藩主 在職期間:1639年(44)~1662年(67)
二代 松平 輝綱(てるつな)【1620~1671】
在職期間:1662年(43)~1671年(52)
三代 松平 信輝(のぶてる)【1660~1725】
松平輝綱の四男、母は板倉重宗の娘。享年66。
川越藩主 在職期間:1672年(13)~1694年(35)
古河藩主 在職期間:1694年(35)~1709年(50)隠居
(2)三河吉田藩(前期)
四代信祝は父信輝が耳が不自由であったため、しばしば父の名代をつとめた。1712年に三河吉田七万石へ転封となり、1714年に奏者番、1729年に大坂城代になるとともに遠江浜松へ転封となり、さらに翌年老中に就任し、在職中に没した。五代信復は1749年に三河吉田へ再封し、藩校時習館を創設した。また、久能山東照宮の修築普請手伝などをつとめた。
七代信明は1784年に奏者番となり、側用人を経て老中となり、松平定信とともに寛政の改革に携わった。定信が老中を辞職すると、「寛政の遣老」の一人として政治路線を踏襲した。1803年に病により老中を辞職したが、3年後に再任し、在職中に没した。
四代 松平 信祝(のぶとき)【1683~1744】
松平信輝の長男、母は井上正任の娘。享年62。
古河藩主 在職期間:1709年(27)~1712年(30)
吉田藩主 在職期間:1712年(30)~1729年(47)
浜松藩主 在職期間:1729年(47)~1744年(62)
五代 松平 信復(のぶなお)【1719~1768】
松平信祝の長男、母は側室 小林氏。享年50。
浜松藩主 在職期間:1744年(26)~1749年(31)
吉田藩主 在職期間:1749年(31)~1768年(50)
六代 松平 信礼(のぶうや)【1737~1770】
松平信復の子、母は側室 岸田氏。享年34。
在職期間:1768年(32)~1770年(34)
七代 松平 信明(のぶあきら)【1763~1817】
松平信礼の長男、母は側室 村雨氏。享年55。
在職期間:1770年(8)~1817年(55)
(3)三河吉田藩(後期)
九代信宝はわずか2年弱で没したため、一族の信璋を婿養子に迎えたが5年で没したため、越前鯖江藩主 間部詮勝の二男信古を婿養子として迎えた。1859年に寺社奉行、1862年に大坂城代に転じたが、1865年に大坂城代を免ぜられた。鳥羽伏見の戦い後、藩論は佐幕から勤王に改められ、松平から大河内に復姓した。1869年に版籍奉還して吉田藩知事に任ぜられ、豊橋藩と改称し、1871年に廃藩置県を迎えた。
八代 松平 信順(のぶのり)【1793~1844】
松平信明の子、母は側室 久須美氏。享年52。
在職期間:1817年(25)~1842年(50)隠居
九代 松平 信宝(のぶたか)【1826~1844】
松平信順の子、母は側室 満知子。享年19。
在職期間:1842年(17)~1844年(19)
十代 松平 信璋(のぶあき)【1827~1849】
同族松平信敏の子。享年23。
在職期間:1844年(18)~1849年(23)
正室は松平信宝の養女 貞(松平信順の娘)。
十一代 松平 信古(のぶひさ)【1829~1888】
2. 旗本大河内松平家
(1)旗本:旗本松平八十八家
初代 松平 信定(のぶさだ)【1627~1716】
妻は上総久留里藩主 土屋利直の娘。
二代 松平 信望(のぶもち)【1671~1754】
松平信定の五男、母は下條氏。
妻は上野館林藩徳川家の家臣 本庄道高の娘。
松平 信晴(のぶはる)【?~?】
交代寄合 溝口直道の二男。信望の婿養子となるも病により廃嫡。妻は松平信望の娘。
三代 松平 信直(のぶなお)【1717~1756】
松平信晴の長男、母は松平信望の娘。
妻は宗家松平信祝の五女、後妻は信祝の十女。
四代 松平 信睦(のぶちか)【1752~1773】
松平信直の長男、母は福島氏。
1756年にわずか5歳で家督相続。中奥小姓。享年22。
五代 松平 信譲(のぶよし)【1753~1779】
上総大多喜藩主 松平正温の四男、母は岡本氏。
1773年に21歳で家督相続。中奥小姓。享年27。
妻は旗本 伊東祐峯の娘。
六代 松平 信敬(のぶたか)【1770~1788】
一族松平信行の二男、母は松平信成の娘。
1779年にわずか10歳で家督相続。享年19。
七代 松平 信弥(のぶみつ)【1779~1825】
松平信譲の二男、母は伊東祐峯の娘。享年47。
妻は丹波篠山藩主 青山忠高の娘。
八代 松平 信宝 【?~1827】
松平信弥の子。八十八。1825年に家督相続。火消役。
九代 松平 信庸 【?~?】
十代 松平 伊勢守 【?~?】
(2)旗本:松平舎人家
堅綱の跡は従兄弟大河内重綱の三男信義が相続した。三代信連は信義の妻の甥で、信義の養子となりその姪と結婚した。四代信應は初代堅綱の甥にあたる。五代信成は信應の兄信望の孫。
六代信行は二代信義の兄信久の曾孫で信成の婿養子。御先鉄砲頭、小普請奉行、勘定奉行公事方、西ノ丸旗奉行などをつとめた。
(寛政年間までの当主)
初代 松平 堅綱(かたつな)【1641~1665】
松平信綱の六男。享年25。
二代 松平 信義(のぶよし)【1651~1694】
大河内重綱の三男、母は関氏盛の娘。
堅綱の養子となり、1665年に15歳で家督相続。御書院の番士、御徒頭。享年44。
妻は旗本 天野長重の娘。
三代 松平 信連(のぶつら)【1678~1704】
旗本 天野長頼の二男、母は青山幸通の娘。
信義の養子となり、1694年に17歳で家督相続。寄合。享年27。
妻は旗本 大河内信久の娘。
四代 松平 信應(のぶまさ)【1697~1745】
一族松平信定の十三男。
信連の養子となり、1704年にわずか8歳で家督相続。寄合。享年49。
妻は旗本 浅野正氏の娘。正氏は甘縄藩主松平正綱の孫。
五代 松平 信成(のぶなり)【1719~1783】
一族松平信晴の二男、母は松平信望の娘。
妻は松平信應の養女(旗本 関永張の娘)。後妻は旗本 平岡頼雄の娘。後々妻は旗本 稲葉通周の娘。
六代 松平 信行(のぶゆき)【1746~1821】
旗本 関盛時の二男。
妻は松平信成の娘。
(寛政以降の人物)
松平 信敏 【?~1849】
通称兵庫頭、舎人。
松平 鎌之丞 【?~?】
松平信敏の子。通称舎人。1849年に家督相続。御使番。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。