探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

大河内松平家~大多喜藩とその分家~

こんにちは、勘矢です。
今回は大河内松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 大河内氏

 清和源氏の頼光の孫顕綱が三河国額田郡大河内郷(愛知県岡崎市)に住んで大河内を称し、のち足利義氏に仕えた。顕綱の子の代に政顕と貞顕の二流に分かれる。政顕流は三河国幡豆郡寺津・江原両郡を領し、秀綱のときに徳川家康に仕え、1590年に徳川家が関東移封となると武蔵国内で七百十石余を与えられた。
 秀綱の長男久綱は家康に仕えて地方奉行をつとめ、二男正綱は長沢松平家の正次の跡を継いで松平氏となった。正綱の子孫は上総大多喜藩三河吉田藩、上野高崎藩の3つの大名家を輩出した。
 

(1)旗本 大河内金兵衛家

 久綱の長男信綱は正綱の養子となり、大河内家は久綱の外孫 重綱が養子ととなって相続した。四代信久は1684年に大島義高とともに幕府領となっていた越後国高田に赴き、目付代をつとめた。五代信相のとき、武蔵国内で知行地の変更があった。六代久豊は1726年の小金原の御鹿狩で鹿一頭を賜った。
 
(寛政年間までの当主)
初代 大河内 秀綱(ひでつな)【1546~1618】
 大河内信貞の子。享年73。妻は鳥居掃部介の娘。
 
二代 大河内 久綱(ひさつな)【1570~1646】
 大河内秀綱の長男、母は鳥居掃部介の娘。享年77。
 妻は深井好秀の娘。
 
三代 大河内 重綱(しげつな)【1615~1671】
 酒井親炮の子、母は大河内久綱の娘。
 1646年に32歳で家督相続。御小姓組の番士。享年57。
 妻は岡氏盛の娘。
 
四代 大河内 信久(のぶひさ)【1647~1696】
 大河内重綱の長男、母は岡氏盛の娘。
 1671年に25歳で家督相続。御書院の番士、小十人の番頭。享年50。
 妻は館林徳川家家老 黒田用綱の娘。
 
五代 大河内 信相(のぶすけ)【1683~1713】
 大河内信久の長男、母は黒田用綱の娘。
 1696年に14歳で家督相続。中奥の番士。享年31。
 
六代 大河内 久豊(ひさとよ)【1703~1741】
 大河内信相の長男。1713年に11歳で家督相続。御書院番、中奥の番士。享年39。
 
七代 大河内 豊貫(とよつら)【1727~1770】
 大河内久豊の長男。
 1741年に15歳で家督相続。御小納戸、御小姓。享年44。
 妻は旗本 関永張の娘(離縁)。永張は豊貫の大叔父にあたる。
 
八代 大河内 久雄(ひさお)【1753~?】
 大河内豊貫の長男。
 1770年に18歳で家督相続。西ノ丸御書院の番士。
 妻は旗本 安藤定厚の娘。後妻は旗本 木下利常の娘。
 

大河内氏略系図
 
 

2. 上総大多喜藩 松平家

(1)相模甘縄藩

 大河内秀綱の二男正綱は、1587年に徳川家康の命により長沢松平の正次養子となり、松平を称したことから大河内松平氏がはじまる。正綱は1596年に相模国内で三百八十石余、1602年に山城国内で五百石を与えられて八百八十石余を知行した。1610年に駿府城火災時の措置を賞されて三河国内で三千石を加増され、駿府で近習出頭人兼勘定頭となった。1616年に家康の遺言を受け、久能山で葬儀、翌年の日光山への改葬にあたった。
 その後、二代将軍徳川秀忠のもとで勘定頭をつとめ、1625年に大和・三河・武蔵・相模国内で二万二千石を与えられて相模玉縄藩を立藩した。
 二代正信は兄利綱が早世したため嫡子となり、家督相続時に弟正朝に三千石を分与した。奏者番をつとめた。三代正久は家督相続時に弟正基に新墾田三千石を分与した。その後奏者番となり、1694年に若年寄に転じたが2年後に再度奏者番になった。1703年に上総大多喜二万石へ転封となった。
 
初代 松平 正綱(まさつな)【1576~1648】
 大河内秀綱の二男、母は鳥居掃部介の娘。享年73。
 在職期間:1625年(50)~1648年(73)
 正室は豊臣家の家臣 山口弘定の娘。
 
松平 利綱(としつな)【1620~1644】
 松平正綱の長男。父に先立ち没した。享年25。正室は和泉岸和田藩主 松平康重の娘。
 
二代 松平 正信(まさのぶ)【1621~1692】
 松平正綱の二男、母は側室 饗庭氏。享年72。
 在職期間:1648年(28)~1690年(70)隠居
 
三代 松平 正久(まさひさ)【1659~1720】
 松平正信の子、母は側室 船越氏。享年62。
 甘縄藩主 在職期間:1690年(32)~1703年(45)
 大多喜藩主 在職期間:1703年(45)~1720年(62)
 正室は大和松山藩主 織田長頼の娘。
 

大河内松平氏大多喜藩系)略系図
 

(2)上総大多喜藩

 四代正貞は家督相続時に弟正佐に新墾田二千石を分与し、奏者番をつとめた。六代正升は1770年、1775年、1780年の3回大坂加番をつとめた。九代正義は兄正敬の子が幼少のため養子となって家督相続した。また、藩校明善堂を設立した。十代正和は叔父正義の養子となって家督相続した。在世中に大多喜城天守閣などが焼失した。1849年に日光祭礼奉行をつとめた。
 十一代正質は越前鯖江藩主間部詮勝の五男で、正和の婿養子となって家督相続した。1864年奏者番となり、1866年に若年寄に進み、翌年老中に就任した。1868年の鳥羽伏見の戦い旧幕府軍を統率して戦ったが敗れ、前将軍徳川慶喜に従って江戸に帰った。老中を罷免され、官位を剥奪されて大多喜城に謹慎した。その後佐倉城に幽閉され領地を没収されたが、数か月後に罪を赦されて領地は回復された。没収された領地は同族の三河吉田藩主松平信古が保管した。1869年に版籍奉還して大多喜藩知事に任ぜられ、1871年廃藩置県を迎えた。また、松平姓を本姓大河内に復した。
 
四代 松平 正貞(まささだ)【1682~1749】
 松平正久の長男、母は側室 中嶋氏。享年68。
 在職期間:1720年(39)~1749年(68)
 正室は下野宇都宮藩主 戸田忠真の娘。
 
松平 久端(ひさなお)【1716~1748】
 松平正貞の長男、母は吉川氏。父に先立ち没した。享年33。
 正室遠江浜松藩主 松平資俊の娘。継室は下総古河藩主 土井利厚の娘。
 
五代 松平 正温(まさはる)【1725~1782】
 遠江浜松藩松平信祝の三男。享年58。
 在職期間:1749年(25)~1767年(43)隠居
 正室は松平正貞の養女(正貞の子 久端の娘)。
 
六代 松平 正升(まさのり)【1742~1803】
 松平正温の長男。享年62。
 在職期間:1767年(26)~1803年(62)隠居
 正室遠江浜松藩主 松平資訓の養女(資訓の養子資順の娘)。
 
七代 松平 正路(まさみち)【1765~1808】
 松平正升の長男。享年44。
 在職期間:1803年(39)~1808年(44)
 正室は豊後岡藩世子 中川久徳の娘。継室は常陸笠間藩主 牧野貞喜の娘。
 
八代 松平 正敬(まさかた)【1794~1832】
 松平正路の長男、母は。享年39。
 在職期間:1808年(15)~1826年(33)隠居
 正室三河吉田藩主 松平信明の娘 厚。
 
九代 松平 正義(まさよし)【1806~1837】
 松平正路の四男。享年32。
 在職期間:1826年(21)~1837年(32)
 正室陸奥守山藩主 松平頼慎の娘 英。継室は伊勢亀山藩主 本多忠升の娘 尚。
 
十代 松平 正和(まさとも)【1823~1862】
 松平正敬の二男。享年40。
 在職期間:1837年(15)~1862年(40)
 正室は上総一宮藩主 加納久儔の娘。
 
十一代 松平 正質(まさただ)【1844~1901】
 越前鯖江藩主 間部詮勝の五男。享年58。
 在職期間:1862年(19)~1871年(28)<1869年から大多喜藩知事>
 正室は松平正和の娘 鋲子。
 
 

3. 旗本大河内松平家

(1)旗本:松平徤吉家

 相模玉縄藩主 松平正綱の五男正朝ははじめ秋元泰朝の養子となり御小姓となった。その後、故あって実家に戻り、兄正信より三河国内で三千石を分与されて分家した。1664年に加増されて三千五百石となった。
 八代正之は1856年に久能山東照宮の修復普請御用をつとめ、1860年1861年和宮縁組御用をつとめた。その後、作事奉行格となり、1862年に修復御用で日光に赴いた。1863年に田安家家老、翌年に大目付留守居格(五千石に足高)、勘定奉行勝手方となり、関東郡代を兼帯した。
 
初代 松平 正朝(まさとも)【1629~1682】
 松平正綱の五男、母は饗庭氏。初名季綱。享年54。
 妻は旗本 大久保幸信の娘。
 
松平 成綱(なりつな)【1658~1678】
 松平正朝の長男。父に先立ち没した。享年21。
 
二代 松平 為政(ためまさ)【1679~1719】
 旗本 浅野正氏の長男。正氏は正朝の二男で浅野氏恒の婿養子。
 祖父正朝の養子となり、1682年にわずか4歳で家督相続。御近習番、御小姓、小普請組支配。享年41。
 妻は相模玉縄藩主 松平(大河内)正信の娘。
 
三代 松平 正億(まさやす)【1705~1730】
 松平為政の二男、母は松平正信の娘。
 1719年に15歳で家督相続。中奥小姓。享年26。
 妻は旗本 伊奈忠逵の養女(父忠順の娘)。
 
四代 松平 正方(まさかた)【1714~1768】
 相模玉縄藩主松平正久の七男。
 1730年に17歳で家督相続。中奥小姓、新番頭、御小姓組の番頭。~1768(55)。享年55。
 妻は備中岡田藩主 伊東長救の娘。
 
松平 方政(かたまさ)【1738~1775】
 一族松平正武の二男。正方の婿養子となるも病により廃嫡。享年38。妻は松平正方の娘。
 
五代 松平 正愛(まさよし)【1758~1790】
 松平方政の長男、母は松平正方の娘。
 1768年に11歳で家督相続。御使番、小普請組支配。享年33。
 妻は①旗本 渡邊信綱の娘(離婚)。②旗本 戸田氏之の娘(離婚)。③旗本 大草高方の娘(離婚)。④旗本 牧野惟成の娘。
 
六代 松平 正卜(まさうら)【1777~1823】
 一族松平正明の四男、母は三島政申の娘。
 1790年に14歳で家督相続。御小姓組、新番頭、堺奉行。
 妻は下野壬生藩世子 鳥居忠求の娘。旗本 小堀政明の娘。
 
七代 松平 正則 【?~1841】
 松平正卜の子。1823年に家督相続。中奥小姓。
 
八代 松平 正之 【?~?】
 松平 正則の養子。1841年に家督相続。
 

旗本大河内松平氏大多喜藩系)略系図
 

(2)旗本:松平作左衛門家家

 相模玉縄藩主 松平正信の六男正基は、兄正久より三河国内において新墾田三千石を分与されて分家した。四代正賢は日光奉行、五代正相は西ノ丸留守居をつとめた。
 
初代 松平 正基(まさもと)【1683~1718】
 松平正信の六男。中奥小姓。享年36。
 
二代 松平 正苗(まさみつ)【1709~1774】
 松平正基の長男。1718年にわずか10歳で家督相続。享年66。
 妻は旗本 水谷勝比の娘。
 
三代 松平 正喬(まさたか)【1748~?】
 松平正苗の長男。1774年に27歳で家督相続。1792年に45歳で隠居。
 妻は渡邊進昌の娘。後妻は上総大多喜藩藩主 松平正温の娘。
 
四代 松平 正賢(まさかた)【1777~1816】
 松平正喬の長男。1792年に16歳で家督相続。御小納戸。享年40。
 妻は一族松平正明の娘。
 
五代 松平 正相 【?~1861】
 松平正賢の子。1816年に家督相続。
 
六代 松平 正全 【?~?】
 松平正相の子。1861年家督相続。
 

(3)旗本:松平筑後守家

 相模玉縄藩主 松平正久の三男正佐は、1720年に兄正貞より三河国内において新墾田二千石を分与されて分家した。
 五代正名は西ノ丸小姓などを経て西ノ丸側御用取次となり、1827年に二千石を加増されて五千石となり、1845年に更に二千石を加増されて七千石となった。
 
初代 松平 正佐(まさすけ)【1691~1729】
 松平正久の三男。寄合。享年39。
 
二代 松平 正武(まさたけ)【1710~1758】
 松平正久の六男。
 兄の養子となり、1729年に20歳で家督相続。西ノ丸御小納戸。享年49。
 妻は旗本 石川政常の娘。
 
三代 松平 正屋(まさおく)【1737~1760】
 松平正武の長男、母は石川政常の娘。
 1758年に22歳で家督相続。享年24。
 妻は旗本 本多紀品の娘。
 
四代 松平 正明(まさはる)【1742~1790】
 松平正武の四男、母は石川政常の娘。
 兄の養子となり、1760年に19歳で家督相続。西ノ丸御小姓組の番士。享年49。
 妻は旗本 三島政申の娘。
 
五代 松平 正名(まさな)【1774~1847】
 松平正明の三男、母は三島政申の娘。享年74。
 1790年に17歳で家督相続。1845年に72歳で隠居。
 妻は旗本 平岡頼長の娘。
 
松平 正長 【?~?】
 松平正名の子。中奥小姓、新番頭。父に先立ち没した。
 
六代 松平 正孝 【?~?】
 松平正名の子。1845年に家督相続。小姓番頭、書院番頭。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 続徳川実紀 第3篇、第4篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。