探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

久松松平家~康元系~

こんにちは、勘矢です。
今回は康元系の久松松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 久松松平家

 徳川家康の生母於大の方尾張国阿久比城(愛知県阿久比町)の久松俊勝に再嫁し、そこで生まれた康元、康俊、定勝は家康の異父弟にあたるということで、松平姓を与えられた。
 康元は下総関宿(千葉県野田市)で二万石の大名となったが、江戸中期の忠充のときに除封となり、以降は交代寄合として幕末まで続いた。勝俊の系統は初め旗本であったが、江戸中期に加増されて下総多古(千葉県多古町)で一万二千石の大名となった。
 定勝は1607年に伏見城代となり、1617年に伊勢桑名(三重県桑名市)で十一万石の大名となった。嫡流は伊予松山(愛媛県松山市)に移封され、三男定綱の系統は桑名、越後高田、陸奥白河を経て伊勢桑名に復帰した。五男定房は伊予今治愛媛県今治市)三万五千石となった。
 
 

2. 康元系久松松平家

(1)関宿藩から大垣藩を経て小諸藩

 康元は1562年に三河西郡城主となり、三方ヶ原の戦い長篠の戦いなどに出陣して戦功を立て、徳川家が関東に移封されると下総関宿で二万石を与えられた。1591年の九戸政実の反乱の鎮圧で先陣をつとめ、その後二万石を加増されて四万石となった。1600年の関ヶ原の戦いでは江戸城を守備した。
 二代忠良は関ヶ原の戦いに供奉し、1603年に家督相続した。大坂の両陣に出陣して戦功を立て、美濃大垣五万石に転封となった。忠良の弟政良は駿河大納言家、康久は尾張家、良助は紀伊家に仕えた。
 三代忠憲は幼少で家督相続したため、信濃小諸へ転封となり、このとき庶兄忠利に五千石を分与したので四万五千石となった。1647年に嗣子なく没したため除封となった。
 
初代 松平 康元(やすもと)【1552~1603】
 久松俊勝の二男、母は水野忠政娘 於大の方。享年52。
 関宿藩主在職期間:1600年(49)~1603年(52)
 
二代 松平 忠良(ただよし)【1582~1624】
 松平康元の長男。享年43。
 関宿藩主在職期間:1603年(22)~1616年(35)
 大垣藩主在職期間:1616年(35)~1624年(43)
 正室は越後高田藩主 酒井家次の娘。
 
三代 松平 忠憲(ただのり)【1620~1647】
 松平忠良の二男、母は酒井家次娘。初名憲良。享年28。
 小諸藩主在職期間:1624年(5)~1647年(28)
 正室は山城淀藩主 永井尚政の娘。
 
 

(2)再興するも再び除封

 忠憲が没した翌1648年、弟の康尚は下野那須一万石を賜って名跡を相続した。1649年に伊勢長島へ転封となった。その子忠充は1702年に重臣三人を切腹させ、その子四人を死罪に処したが、遺族の訴えにより調査した結果、乱心とされ除封となった。
 
四代 松平 康尚(やすひさ)【1623~1696】
 松平忠良の三男。初名良尚。享年74。
 那須藩主在職期間:1648年(26)~1649年(27)
 長島藩主在職期間:1649年(27)~1685年(63)隠居
 正室は山城淀藩主 永井尚政の娘、兄忠憲没後に康尚の正室となった。
 
五代 松平 忠充(ただみつ)【1651~1729】
 松平康尚の二男。享年79。
 在職期間:1685年(35)~1702年(52)除封(狂気殺害)
 正室丹波篠山藩主 松平(形原)典信の娘。
 
松平 忠章(ただあき)【1672~1735】
 松平忠充の長男、母は松平典信の娘。病により母の実家形原松平家の領地である丹波篠山に住んだ。享年64。
 

久松松平氏系図(康元系)
 
 

3. 康元系の旗本家

(1)交代寄合:松平中務少輔家

 忠充の乱心により除封となったが、久松松平氏の宗家ということから家名存続を許されて上級旗本として存続した。忠充の四男康顕に信濃国内で五千石、五男尚慶に信濃国内で千石を与えられたが、尚慶は康顕の養子となって康郷と改名して相続したため千石は収められた。
 二代康郷は1716年に中奥御小姓となり、御書院番などを経て1739年に駿府城代となった。1765年に千石加増され、知行地を武蔵・上総・下総国内に移されて六千石となった。1836年に四代康盛は交代寄合となり、1842年に下総飯笹に陣屋をつくった。六代康正は京都見廻役をつとめた。
 
初代 松平 康顕(やすあき)【1691~1712】
 松平忠充の四男。1702年に12歳で名跡相続。享年22。
 
二代 松平 康郷(やすさと)【1693~1789】
 松平忠充の五男。初名は尚慶。1702年に10歳で分家して寄合。
 1713年に21歳で兄康顕の養子となり家督相続。1772年に80歳で隠居。享年97。
 
三代 松平 康真(やすまさ)【1718~?】
 松平康郷の二男。1772年に55歳で家督相続。御小姓組番頭格奥詰、御側。1790年に73歳で隠居。
 妻は旗本 土岐頼郷の娘。
 
四代 松平 康盛(やすもり)【1760~1839】
 松平康真の五男。1790年に31歳で家督相続。御小姓、御側。
 妻は播磨小野藩主 一柳末栄の娘(離婚)、後妻は交代寄合 山崎義俊の娘。
 
五代 松平 康豊 【?~1857】
 松平康盛の子。通称中務。1839年家督相続。駿府加番在任中に没した。
 
六代 松平 康正 【?~?】
 松平康豊の子。通称禎之丞、出雲守、因幡守。1857年に家督相続。大番頭、大目付京都見廻役
 
 

(2)旗本:松平但馬守家

 松平忠利は1624年に父の遺領より信濃国内で五千石を分け与えられて分家した。二代忠勝は長男忠昌に先立たれたため、肥前福江藩主五島盛勝の四男盛延を養子に取るも故あって実家に戻ったため、旗本形原松平家から忠盈を婿養子に迎えた。
 
初代 松平 忠利(ただとし)【1605~1688】
 松平忠良の長男。1624年(20)に分家。寄合。1678年に74歳で隠居。享年84。
 
二代 松平 忠勝(ただかつ)【1639~1718】
 旗本 大河内久綱の五男。
 忠利の婿養子となり、1678年に40歳で家督相続した。定火消、御持筒頭。享年80。
 妻は松平忠利の娘、後妻は公家 樋口信康の娘。
 
松平 忠昌(ただまさ)【1678~1701】
 松平忠勝の長男、母は松平忠利の娘。父に先立ち没した。享年24。
 
三代 松平 忠盈(ただみつ)【1689~1755】
 旗本松平(形原)氏辰の四男、母は松平(形原)典信の娘。
 1718年に30歳で家督相続。御小姓組番頭、御書院番頭、西ノ丸御側。享年67。
 妻は松平忠勝の娘、後妻は武蔵岡部藩主 安部信峯の娘。
 
四代 松平 忠庸(ただつね)【1725~1789】
 松平忠盈の二男、母は安部信峯の娘。
 1755年に31歳で家督相続。定火消、御小姓組番頭。享年65。
 妻は岡山新田(生坂)藩主 池田政晴の娘。
 
五代 松平 忠幸(ただゆき)【1760~1804】
 松平忠庸の長男、母は池田政晴の娘。通称主膳。1789年に30歳で家督相続。享年45。
 妻は旗本 土屋與直の娘。
 
六代 松平 忠侃(ただかた)【?~1841】
 陸奥磐城平藩主 安藤信馨の子。通称晴三郎、求馬、但馬守。
 1804年に家督相続。中奥御小姓、御書院番頭、大番頭、御側。
 
七代 松平 忠愛 【?~1858】
 松平忠侃の子。通称采女。旗本百科事典では采女忠受とあり。
 1841年に家督相続。火消役、小普請組支配。
 
八代 松平 忠武 【?~?】
 備中岡田藩主伊東長寛の子長之の子。通称栄之助。旗本百科事典では栄之助忠栄とあり。
 1858年に家督相続。火消役。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林
 大成武鑑[3]慶応3(https://dl.ndl.go.jp/pid/2547109/1/68:出雲寺万次郎 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。