探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

桜井松平家~摂津尼崎藩とその分家~

こんにちは、勘矢です。
今回は桜井松平家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 桜井松平家

 桜井松平家は、松平長忠の三男信定が三河国碧海郡桜井(愛知県安城市)に住んだことからはじまる。この地は叔父親房が領していて、嗣子がいないためその遺領を信定が継いだとされる。尾張織田家(信長の家系)と婚姻関係があり、信定は兄信忠が失脚したとき、甥の清康と松平宗家の当主の座を争った。清康横死後に一時岡崎城に入って惣領の立場に立った。
 家次は三河一向一揆一揆方に与したが平定後に赦された。その子忠正は掛川城攻めや姉川の戦いなどに従った。忠正が没したとき、子の家広は生まれたばかりであったため、弟の忠吉が相続した。高天神城攻めに従い、尾張品野で二千石を賜った。忠正・忠吉は家康の異父妹多劫君を妻とし、家広・信吉・忠頼は家康の甥となる。
 1590年徳川家の関東移封で家広は武蔵松山(埼玉県東松山市)一万石を領した。家広の跡は忠頼が継いで遠江浜松五万石となったが、1609年に横死したため所領は没収された。その子忠重が1622年に上総佐貫一万五千石で再興した。その後、1633年に駿河田中二万五千石、1635年に遠江掛川四万石、1639年に信濃飯山、1706年に再び掛川に移り、1711年に摂津尼崎へ移って幕末まで存続した。明治維新後に桜井に改姓した。
 
松平 信定(のぶさだ)【?~1538】
 松平長忠の三男(または二男)。
 
松平 清定(きよさだ)【?~1543】
 松平信定の長男。妻は織田信貞の娘(織田信長の叔母)。
 
松平 家次(いえつぐ)【?~1563】
 松平清定の長男。
 
松平 忠正(ただまさ)【1544~1577】
 松平家次の長男。享年34。
 妻は久松俊勝の娘 多劫君。忠正の没後は忠正の弟忠吉の妻となる。
 
松平 忠吉(ただよし)【1559~1582】
 松平家次の二男。享年24。
 妻は久松俊勝の娘 多劫君。忠吉の没後は保科正直に嫁ぐ。
 
松平 家広(いえひろ)【1577~1601】
 松平忠正の長男、母は久松俊勝の娘 多劫君。享年25。
 

桜井松平氏系図

2. 摂津尼崎藩松平家

(1)遠江浜松藩

 松平忠頼は義兄家広が病のため代わりに会津征伐に出陣し、関ヶ原の戦いでは岡崎城を守衛した。翌年加増されて遠江浜松で五万石となった。1609年に大番頭の水野忠胤との酒宴の席で忠胤の家臣の論争に巻き込まれて刺殺され、浜松五万石は没収となった。
 
初代 松平 忠頼(ただより)【1582~1609】
 松平忠吉の二男、母は久松俊勝の娘 多劫君。享年28。
 在職期間:1601(20)~1609(28)除封
 正室は摂津味舌藩主 織田長益の娘。
 

(2)上総佐貫から転封を重ね信濃飯山へ

 松平忠重は父の横死の翌年に武蔵深谷で八千石を与えられ、1622年に加増されて上総佐貫で一万五千石となり諸侯に列した。1633年に加増されて駿河田中二万五千石に転封となった。1635年に加増されて遠江掛川四万石となり、その後奏者番となった。
 三代忠俱はわずか6歳で家督相続し、幼少のため信濃飯山四万石へ転封となった。1658年から1695年の間に6回大坂加番をつとめた。その子忠継は病により廃嫡となり、孫の忠敏が嫡孫となるも祖父に先立ち没し、その弟の忠喬が祖父の跡を継いだ。1706年に再度遠江掛川に転封となり、さらに1711年に摂津尼崎に転封となった。忠喬はたびたび朝鮮通信使の饗応役をつとめた。
 
二代 松平 忠重(ただしげ)【1601~1639】
 松平忠頼の長男、母は織田有楽斎の娘。享年39。
 佐貫藩主 在職期間:1622年(22)~1633年(33)
 田中藩主 在職期間:1633年(33)~1635年(35)
 掛川藩主 在職期間:163年5(35)~1639年(39)
 正室は豊後日出藩主 木下延俊の娘。
 
三代 松平 忠倶(ただとも)【1634~1696】
 松平忠重の長男、母は木下延俊の娘。享年63。
 飯山藩主 在職期間:1639年(6)~1696年(63)
 正室伊予松山藩主 松平(久松)定行の養女(武蔵岩槻藩阿部重次の娘)。
 
松平 忠継(ただつぐ)【1652~1715】
 松平忠倶の長男、母は松平(久松)定行の養女。享年64。
 正室は摂津膳所藩主 本多康将の娘。
 
松平 忠敏(ただとし)【1672~1695】
 松平忠継の長男、母は本多康将の娘。享年24。
 
四代 松平 忠喬(ただたか)【1683~1756】
 松平忠継の二男、母は本多康将の娘。享年74。
 飯山藩主 在職期間:1696年(14)~1706年(24)
 掛川藩主 在職期間:1706年(24)~1711年(29)
 尼崎藩主 在職期間:1711年(29)~1751年(69)隠居
 正室は下野宇都宮藩主 戸田忠真の娘。
 

(3)摂津尼崎藩

 五代忠名は1753年に将軍家の名代として日光社に参拝し、1764年に朝鮮通信使の饗応役をつとめた。六代忠告も1791年に将軍家の名代として日光社に参拝した。また、藩財政の危機打開のため、鶏卵専売制などの藩専売制を図った。
 九代忠栄は1837年の大塩平八郎の乱のとき、大坂城代 土井利位の命に従って出動した。1854年にロシア艦隊が大阪湾に侵入したときには藩兵を海岸警備に派遣し、大坂城代 土屋寅直の指揮下に入って西宮を守衛した。1860年には江戸三田の済海寺がフランス人の宿舎となり警護した。
 十代忠興は父の隠居により相続し、引き続き済海寺を警護した。1868年の鳥羽伏見の戦いのとき、新政府側につき、桜井に改姓した。1869年に版籍奉還下尼崎知藩事となり、1871年廃藩置県を迎えた。
 
五代 松平 忠名(ただあきら)【1715~1766】
 松平忠喬の二男、母は戸田忠真の娘。享年52。
 在職期間:1751年(37)~1766年(52)
 正室対馬府中藩主 宗義誠の娘。
 
六代 松平 忠告(ただつぐ)【1743~1805】
 松平忠名の三男、母は宗義誠の娘。享年63。
 在職期間:1767年(25)~1805年(63)
 正室信濃松本藩主 松平(戸田)光雄の娘。
 
七代 松平 忠宝(ただとみ)【1770~1829】
 松平忠告の二男、母は松平光雄の娘。享年60。
 在職期間:1806年(37)~1813年(44)隠居
 正室常陸土浦藩主 土屋篤直の娘。
 
八代 松平 忠誨(ただのり)【1803~1829】
 松平忠宝の二男、母は土屋篤直の娘。享年27。
 在職期間:1813年(11)~1829年(27)
 正室丹波篠山藩主 青山忠裕の娘。
 
九代 松平 忠栄(ただなか)【1804~1869】
 松平忠告の九男、母は松平光雄の娘。享年66。
 在職期間:1829年(26)~1861年(58)隠居
 正室豊前小倉藩主 小笠原忠固の娘。
 継室は丹後宮津藩主 松平(本庄)宗発の娘。
 
十代 松平 忠興(ただおき)【1848~1895】
 松平忠栄の七男、母は松平宗発の娘。享年48。
 在職期間:1861年(14)~1871年(24)<1869年から尼崎藩知事>
 正室信濃松本藩主 松平(戸田)光則の娘。
 継室は豊前小倉藩主 小笠原忠幹の娘。
 
 

3. 旗本桜井松平家

(1)旗本:松平万三郎家

 松平忠頼の二男忠直は1612年に召し出されて近習となり、新知五百石を与えられた。以後、御小姓組の番頭にすすみ安房国内で加増されて合わせて二千石となった。その子忠氏は弟忠治に五百石を分与した。御小姓組の番頭となったが、1671年に人を殺害したことにより改易となった。
 その子忠明は1675年に召し返されて御書院番となり、蔵米千俵を与えられた。1697年に蔵米を知行地に改められ、武蔵・相模国内で千石を知行した。
 
(寛政年間までの当主)
初代 松平 忠直(ただなお)【1602~1646】
 松平忠頼の二男、母は織田長益の娘。
 1612年(11)に召し出し。享年45。
 
二代 松平 忠氏(ただうじ)【?~?】
 松平忠直の長男。
 1646年に家督相続し、1671年に改易。
 妻は常陸笠間藩主 浅野長重の娘。
 
三代 松平 忠明(ただあきら)【1651~1716】
 松平忠氏の長男、母は浅野長重の娘。
 1676年(26)に召し返される。1708年に58歳で隠居。享年66。
 妻は武蔵岡部藩主 安部信之の娘。
 
四代 松平 忠福(ただよし)【1674~1725】
 旗本 稲垣正英の二男。
 忠明の婿養子となり、1708年に35歳で家督相続。御書院番の番士。享年52。
 妻は松平忠明の娘。
 
五代 松平 忠存(ただあり)【1708~1770】
 松平忠福の長男、母は松平忠明の娘。
 1725年に18歳で家督相続。御小姓組の番士、御書院番。1765年に58歳で隠居。享年63。
 妻は旗本 青木信祐の娘。
 
六代 松平 忠義(ただよし)【1740~?】
 松平忠存の長男。
 1765年に26歳で家督相続。御小姓組、西ノ丸御徒頭。
 

旗本桜井松平氏系図
 

(2)旗本:松平左門家

 松平忠直の二男忠治は1646年に父の遺領のうち、安房国内で五百石を分与されて別家した。翌年、将軍世子家綱の御小姓となり、1679年に御徒頭に進み、蔵米三百俵を加えられ、1682年に上野内で五百石を加増された。その子忠郷は弟忠輝に三百俵を分与し、千石を知行した。忠郷は徳川吉宗の日光社参に供奉した。
 
(寛政年間までの当主)
初代 松平 忠治(ただはる)【?~1690】
 松平忠直の二男。1646年に別家。
 
二代 松平 忠郷(たださと)【?~1735】
 松平忠治の三男。
 1690年に家督相続。御書院の番士、御小姓組の組頭、御先鉄砲頭。
 妻は旗本 森川氏知の娘。
 
三代 松平 忠陣(ただつら)【1689~1736】
 松平忠郷の長男、母は森川氏知の娘。
 1735年に47歳で家督相続。御書院番。享年48。
 妻は旗本 森重正の娘。この森家は森可成の弟の子孫。
 
四代 松平 忠暁(ただあきら)【1720~1767】
 松平忠陣の長男、母は森重正の娘。
 1736年に17歳で家督相続。御書院番。享年48。
 妻は旗本 松平(大給)乗南の娘。
 
五代 松平 忠如(ただゆき)【1746~1772】
 旗本 小栗徳政の三男、母は松平忠陣の娘。
 忠暁の婿養子となり、1767年に22歳で家督相続。御書院番。享年27。
 妻は松平忠暁の娘。
 
六代 松平 忠光(ただみつ)【1747~?】
 旗本 佐野仲行の四男。
 忠如の婿養子となり、1772年に26歳で家督相続。御使番。
 妻は松平忠如の養女(松平忠暁の娘)。
 

(3)旗本:松平駒次郎家

 松平忠治の五男忠輝は、父の遺領のうち三百俵を分与されて別家した。四代忠順の子忠寛(通称外記)は西ノ丸の書院番士をつとめ、1823年に城中書院番所の控室において同僚3人を脇差で殺害し、2人に重軽傷を負わせる刃傷を起こして、自身は切腹した。父忠順は差控に及ばず、西ノ丸御小納戸を辞して寄合となり、家名は存続した。
 
(寛政年間までの当主)
初代 松平 忠輝(ただてる)【1670~1718】
 松平忠治の五男。
 1690年(21)に別家。御書院番。享年49。
 妻は佐藤氏。
 
二代 松平 忠恒(ただつね)【1699~1769】
 松平忠輝の長男、母は佐藤氏。
 1719年に21歳で家督相続。御小姓組の番士、のち西ノ丸に勤仕。享年71。
 妻は多賀半左衛門の娘。
 
三代 松平 忠香(ただか)【1725~1775】
 筑前福岡藩黒田家家臣水野直具の子、母は同家家臣 太田伊右衛門の娘。
 忠恒の養子となり、1769年に45歳で家督相続。御書院番の番士。享年51。
 
四代 松平 忠順(ただゆき)【1765~?】
 壺井長敦の四男、母は中根可厚の養女。
 忠香の養子となり、1775年に11歳で家督相続。御小姓組の番士。
 妻は旗本 八木貴豊の養女(磐城平藩 安藤家家臣 村上貞暢の娘)。
 後妻は鈴木茂銀の娘。
 
松平 忠寛(ただひろ)【1791~1823】
 松平忠順の長男、母は八木貴豊の養女。
 松平外記として知られている。
 

(4)旗本:松平三郎左衛門家

 松平忠頼の四男忠久は1621年に徳川忠長に附属され、新知二千石を与えられた。忠長の改易後、丹波篠山に配流された。その子忠周は1663年に赦され、1667年に蔵米五百俵を与えられ寄合となった。その後、目付などを経て大坂町奉行となり、近江国内で五百石を加増された。1697年に蔵米を改められて近江国内で千石を知行した。
 
(寛政年間までの当主)
初代 松平 忠久(ただひさ)【1605~1676】
 松平忠頼の四男、母は織田長益の娘。享年72。
 
二代 松平 忠周(ただちか)【1645~1711】
 松平忠久の三男。御書院番の番士、御徒頭、御目付、大坂町奉行。享年67。
 
三代 松平 忠敦(ただあつ)【1676~1746】
 松平忠周の三男。
 1711年に36歳で家督相続。御書院番の番士。享年71。
 妻は旗本 石丸定勝の娘。
 
四代 松平 忠直(ただなお)【1709~1775】
 松平忠敦の二男。
 1746年に38歳で家督相続。御書院番。享年67。
 妻は旗本 三枝守信の娘。
 
五代 松平 忠菊(ただきく)【1746~1783】
 旗本 徳永昌寛の三男、母は中島盛昌の娘。
 忠直の養子となり、1775年に30歳で家督相続。西ノ丸御小姓組の番士。享年38。
 妻は旗本 三枝守知の娘、先代忠直の妻の姪。
 後妻は旗本 村上正恒の娘。
 
六代 松平 忠鎮(ただつね)【1767~?】
 松平忠菊の長男、母は村上正恒の娘。
 1783に17歳で家督相続。御書院番の番士。
 妻は旗本 丹羽長裕の娘、二本松藩丹羽家の分家。旗本 太田好行の娘。
 

(5)旗本:松平壹岐守家

 1625年(19)に召し出されて近習となり、蔵米五百俵を与えられた。その後千石を加増されて御書院番となり、その後さらに加増されて千七百石となった。1656年に御小姓組の番頭にすすみ、さらに千俵を加増されたが嗣子なく断絶。
 
初代 松平 忠利(ただとし)【1607~1657】
 松平忠頼の六男、母は織田長益の娘。享年51。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川将軍家・松平一族のすべて(新人物往来社
 寛政譜以降 旗本百科事典 第5巻(東洋書林
 日本人名大辞典(講談社
 増補改訂版 日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本(中経出版
 家康と松平一族(安城市歴史博物館)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。