探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

下総三浦家と旗本佐原家

こんにちは、勘矢です。
今回は三浦重成と旗本佐原氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 下総三浦家

 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将三浦義連は佐原流三浦氏の祖で、その義連から十数代の子孫と伝わる義成は徳川家康に仕えて1590年の小田原の役に供奉し、岩槻城攻めにおいて戦死した。
 義成の子重成も家康に仕えて御小姓となり、仰せによって旧称三浦に改め、下総国佐倉領(千葉県北部)において一万石を賜り、1602年に三千石を加増された。
 跡継ぎのなかった重成は甥の重次を婿養子に迎えたが、その後実子重勝が生まれた。重成は大坂夏の陣のときに病気であったため、重次が名代として出陣した。1625年に重次は近江国内で三千石を与えられて別家し、時期は不明であるが、重成の家督重勝が継いだ。
 1627年、幕府の命により領内にあった法華宗の寺院、宝立山方墳寺を焼き払った。1628年に別家の重次は実家の阿部家の世子となったため、阿部姓に復した。1631年、重勝が嗣子なく没したため絶家となった。
 
 重次が阿部家に戻ってから約10年、重次に二男正春が生まれると正春に三浦を称させた。正春は1651年に父の遺領から新墾田一万六千石を分与され大多喜新田藩主となった。重次の義弟重勝が没してから約20年経ち三浦家は再度大名となりましたが、1659年に正春は岩槻藩阿部家を相続して阿部を称した。
 
 
三浦 重成 【?~?】
 三浦義成の長男。下総国内一万石の初代。
 
三浦 重勝 【1605~1631】
 三浦重成の長男。下総国内一万石の二代。嗣子なく絶家。享年27。妻は但馬出石藩主 小出吉英の娘。
 
三浦 重次(しげつぐ)【1598~1651】
 阿部正次の二男、母は佐原義成の娘。三浦重成の婿養子。1625年(28)に別家。1628年(31)に実家阿部家の世子→ 阿部 重次。
 
三浦 正春(まさはる)【1637~1716】
 阿部重次の二男、母は松平定勝の娘。はじめ三浦を称し、のちに大多喜新田藩一万六千石。1659年に岩槻藩の阿部家を相続。その後、再別家して上総佐貫藩阿部家一万六千石→ 阿部 正春。
 

三浦氏・佐原氏の略系図
 
 

2. 旗本 佐原三右衛門家

 寛政重修諸家譜には、三浦重成の弟佐原延次(佐原義成の四男)についての詳細はなく、その子延影以降について記載がある。影之のときに下野国内で二百五十石を与えられた。延影・影之父子は国廻役をつとめた。影之はのちに代官となった。
 三代景治は八代将軍 徳川吉宗の日光社参に扈従した。四代高音、六代義行は大番をつとめた。
 
(寛政年間までの当主)
初代 佐原 延影(のぶかげ)【?~1657?】
 佐原延次の子。
 
二代 佐原 影之(かげゆき)【1630~1690】
 佐原延影の長男、母は阿部対馬守家臣佐原重連の娘。
 1657年に28歳で家督相続した。享年61。
 妻は甲府の家臣 都筑法重の娘。後妻は旗本 小林重堅の娘。
 
三代 佐原 景治(かげはる)【1678~1740】
 旗本 多田正春の長男、母は佐原影之の娘。
 外祖父影之の養子となり、1691年に14歳で家督相続した。享年63。
 妻は旗本 稲垣豊政の娘。
 
四代 佐原 高音(たかおと)【1703~1758】
 佐原景治の長男、母は稲垣豊政の娘。
 1740年に38歳で家督相続した。享年56。
 妻は伊予西条松平家家臣 菅沼定俊の娘。
 
五代 佐原 義久(よしひさ)【1734~1790】
 佐原高音の二男、母は菅沼定俊の娘。
 1758年に25歳で家督相続した。享年57。
 妻は水戸家の侍女梅野井の養女。
 
六代 佐原 義行(のりゆき)【1761~?】
 佐原義行の四男、母は梅野井の養女。
 1790年30歳で家督相続しました。
 妻は御勘定 杉江政之の娘。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 大網白里町史(大網白里市大網白里市デジタル博物館)
 大阿部家展ーその流れと武家文化の粋ー(福山城博物館)
 日本人名大辞典(講談社
 最新版 角川新版 日本史辞典(角川学芸出版
 江戸大名家事典(川口素朗 著/新紀元社
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。