探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本岡野氏~板部岡江雪斎の子孫・その2~

こんにちは、勘矢です。
今回は前回<旗本岡野氏~板部岡江雪斎の子孫・その1~ - 探検!日本の歴史>に引き続き旗本岡野氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 房次系岡野氏

 江雪斎の二男房次の家系(岡野孫一郎家)は千五百石の旗本となり、この家系から3家の分家がわかれた。
 岡野金十郎家は、英明の三男友明が四百十石余を分知されて分家した。友明は田中を称し、子の信明のときに岡野に改めた。その後、加増されて九百十石余となった。
 岡野権次郎家は、田中友明の二男 規明が1697年に父の遺領の内三百俵を分け与えられ分家した。岡野彦五郎家は、岡野英明の五男 重明が1665年蔵米三百俵を賜ったことによる。
 

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旗本岡野氏略系図
 
 

2. 旗本岡野氏(房次系)

(1)旗本:岡野孫一郎家

初代 岡野 房次(ふさつぐ)【1573~1611】
 板部岡江雪斎の二男、母は中村氏。
 武蔵岩槻城主 北条氏房に仕え、一字を与えられて房次と称しました。1590年(18)に後北条氏が滅びると氏直に従って高野山にのぼりました。氏直没後は氏直の従弟氏盛に仕え、1604年(32)に徳川家康に拝謁し、家康の十男頼宣に附属されました。享年39。
 妻は大友某の娘。
 
二代 岡野 英明(ひであきら)【1600~1663】
 岡野房次の長男、母は大友某の娘。
 1604年(5)に祖父江雪斎に従って伏見城徳川家康に拝謁しました。弱年の間は徳川頼宣に仕え、1623年(24)に摂津国内で五百十石余を賜りました。1626年(27)に小十人組の番頭となり、相模国内で二百石を加増されました。1633年(34)に御書院の組頭に転じ、近江国内で七百石を加増され、合わせて千四百十石余を知行しました。1650年(51)より西ノ丸に勤仕し、翌年御先鉄砲頭に移りました。1663年(64)に四代将軍徳川家綱が日光社参するとき、病にかかっていましたが御供しました。享年64。
 妻は本家 岡野房恒の娘。
 
岡野 孝明(たかあきら)【1620~1650】
 岡野英明の長男、母は岡野房恒の娘。
 1636年(17)に御書院番となりました。父に先立ち没しました。享年31。
 
三代 岡野 貞明(さだあきら)【1622~1690】
 岡野英明の二男、母は岡野房恒の娘。
 1638年(17)に御書院番に列し、1658年(37)より進物役をつとめました。
 1663年に42歳で家督相続し、四百十石余を弟友明に分知して千石を知行しました。1666年(45)に御使番、1672年(51)に長崎奉行になり、武蔵国内で五百石を加増され、千五百石となりました。1680年(59)に辞職し、寄合に列しました。1689年に68歳で隠居し、隠居料として蔵米三百俵を賜りました。享年69。
 妻は本家 岡野成明の娘。成明は房恒の子。
 
四代 岡野 宗明(むねあきら)【1654~1712】
 岡野貞明の長男、母は岡野成明の娘。
 1678年(25)に御小姓組に列し、1689年に36歳で家督相続しました。1691年(38)に御使番となり、1693年(40)に美濃国郡上城を井上正任が賜うときに現地に赴き厳命を伝えました。1702年(49)に城引渡役を承って、上総国大多喜、下野国烏山などに赴きました。1704年(51)に辞職して寄合に列しました。享年59。
 妻は旗本 大岡忠高の娘。大岡忠相の姉にあたる。
 
五代 岡野 敬明(たかあきら)【1683~1754】
 岡野宗明の長男、母は大岡忠高の娘。
 1712年に30歳で家督相続し、小普請となりました。1719年(37)に御小姓組に列し、1724年(42)より二ノ丸に勤仕し、翌年西ノ丸御書院番となりました。1752年(70)に老年により辞職しました。享年72。
 妻は旗本 早川重好の娘。
 
六代 岡野 春明(はるあきら)【1720~1767】
 一族岡野成勝の四男。
 従兄敬明の養子となり、1754年に35歳で家督相続しました。翌年に西ノ丸御書院番となり、1764年(45)に辞職しました。1765年に46歳で隠居しました。享年48。
 妻は旗本 石川政常の娘。
 
七代 岡野 融軽(とおやす)【1739~?】
 一族岡野成常の四男。
 叔父春明の養子となり、1765年に27歳で家督相続しました。1766年(28)に西ノ丸御小姓組に列し、翌年より進物役をとなりました。1779年(41)より本丸に移りました。
 妻は岡野春明の養女(旗本松平(大河内)正武の娘)。
 
八代 岡野 融暉(とおてる)【?~1821】
 岡野融軽の長男、母は岡野春明の養女。通称吉十郎、孫一郎。
 1813年に御書院番より御使番、1819年に西ノ丸御目付。
 妻は高家 大友義珍の娘。
 
九代 岡野 融政(とおまさ)
 通称孫一郎。西ノ丸御小姓組
 1821年に家督相続。1831年隠居し江雪。
 
 勝小吉(勝海舟の父)は1830年に岡野家の借家人になった。
 

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岡野孫一郎家屋敷跡
 
十代 岡野 融貞(とおさだ)
 通称孫一郎。小普請。1831年家督相続。
 妻は麻布市兵衛町の伊藤権之助の娘。
 
 1845年孫一郎の養女という形で砥目民が勝海舟に嫁ぐ。
 
十一代 岡野 克明(よしあきら)
 岡野孫一郎の子。通称平次郎。
 1864年に小普請より御小姓組
 「海舟日記」に岡野平次郎の名が出てくる。
 
 

(2)旗本:岡野金十郎家

(寛政年間までの当主)
初代 田中 友明(ともあきら)【1625~1699】
 岡野英明の三男、母は岡野房恒の娘。
 1650年(26)に西ノ丸御小姓組に列し、のち蔵米三百俵を賜りました。1658年(34)より進物役をつとめました。1663年(39)に四代将軍徳川家綱の日光社参に御供し、父友明が病のため、仰せを受けて父の与力同心等を指揮しました。その後、父の遺領より近江・相模国内にて四百十石余を分知され、これまでの蔵米は収められました。
 1671年(47)に小十人の番頭となり、三百俵を加増されました。1679年(55)に御目付に移り、1681年(57)に酒井忠能が改易となると駿河国田中へ赴き、城請取役をつとめました。翌年、上野・下野国内で五百石を加増されました。
 1685年(61)に御持筒の頭となり、1687年(63)に大目付に進みましたが、故あって出仕を停められ、その後小普請に貶されました。1697年に73歳で隠居しました。享年75。
 妻は旗本 春田直次の娘。
 
二代 岡野 信明(のぶあきら)【1661~1705】
 田中友明の長男、母は春田直次の娘。
 1683年(23)に御小姓組に列し、1685年(25)より進物役をつとめ、1697年(37)に桐間番に転じました。同年家督相続し、弟矩明に三百俵を分け与えたので九百十石余を知行しました。1698年(38)に御小納戸となり、1700年(40)に務めをゆるされ、翌年御小姓組に復しました。享年45。
 妻は旗本 阿倍重旧の娘。
 
三代 岡野 将明(まさあきら)【1695~1757】
 岡野信明の長男、母は阿倍重旧の娘。
 1705年に11歳で家督相続しました。1718年(24)に御小姓組に列しました。1746年に52歳で隠居しました。享年63。
 妻は旗本 竹川明苓の養女(離婚)。
 
四代 岡野 尚明(なおあきら)【1726~1778】
 岡野将明の長男。通称孫十郎。
 1746年に21歳で家督相続し、御小姓組の番士となりました。1748年(23)に辞職し、1755年(30)に西ノ丸御小姓組に列し、1761年(36)より本丸に移りました。1771年(46)に西ノ丸御徒頭となりましたが、翌年辞職して寄合に列しました。1776年に51歳で隠居しました。享年53。
 妻は旗本 三木自朗の娘。
 
五代 岡野 盛明(もりあきら)【1758~1790】
 岡野尚明の長男、母は三木自明の娘。通称孫十郎。
 1776年に19歳で家督相続しました。1780年(23)に西ノ丸御書院番となり、1790年(33)より本丸に移りました。享年33。
 妻は旗本 川勝広勝の娘(離婚)、後妻は旗本 大久保豊教の娘。
 
六代 岡野 文明(ふみあきら)【1774~?】
 岡野盛明の長男、母は大久保豊教の娘。通称金十郎。
 1790年に17歳で家督相続しました。
 
(寛政年間以降の当主)
岡野 融明(とおあきら)【?~?】
 岡野孫十郎の子。通称孫十郎。
 1811年に西ノ丸御書院番から中奥番に移り、1820年小十人頭となりましたが、翌年病のため辞職しました。
 
岡野 貞蔵(ていぞう)【?~1864】
 岡部因幡守の子。孫十郎の養子。
 1848年に家督相続、小普請。1848年に西ノ丸御書院番、1853年に本丸御書院番となりました。
 
岡野 某【?~?】
 1864年家督相続、小普請。
 

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旗本岡野氏略系図
 
 

(3)旗本:岡野権次郎家

(寛政年間までの当主)
初代 岡野 規明(のりあき)【1668~1731】
 田中友明の二男、母は春田直次の娘。
に 1697年(30)に父の遺領の内三百俵を分け与えられて小普請となりました。1698年(31)に御小姓組に列し、1703年(36)に桐間番、1704年(37)に御小納戸に移りました。1709年(42)に御小姓組に復帰し、1719年(52)に小十人頭となり、1728年(61)に辞職して寄合に列しました。1730年に63歳で隠居しました。享年64。
 妻は旗本 本多重時の娘。
 
二代 岡野 定明(さだあき)【1702~1768】
 岡野規明の長男、母は本多重時の娘。
 1730年に29歳で家督相続しました。1737年(36)に西ノ丸の御小姓組に列し、1749年(48)に西ノ丸御膳奉行となり、1751年(50)に本丸に移りました。1763年(62)に西ノ丸御納戸頭に転じ、1766年(65)に浄岸院(徳川吉宗の養女・島津継豊室)の用人に移りました。享年67。
 妻は旗本 松村元好の娘。
 
岡野 常明(つねあき)【1724~1754】
 岡野定明の長男。父に先立ち没しました。享年31。
 妻は旗本 神忠聴の娘、後妻は旗本 水野勝満の娘。
 
三代 岡野 久明(ひさあき)【1749~?】
 岡野常明の長男、母は水野勝満の娘。
 1768年に20歳で祖父より家督相続しました。1769年(21)に西ノ丸御小姓組に列し、1779年(31)に本丸に移り、1781年(33)に西ノ丸に復帰しました。1796年(48)に将軍世子徳川家慶の附属となりました。
 妻は原正峯の娘、後妻は旗本 稲富直喜の娘。
 
 

(4)旗本:岡野彦五郎家

(寛政年間までの当主)
初代 岡野 重明(しげあき)【1637~1692】
 岡野英明の五男、母は岡野房恒の娘。
 1663年(27)に御書院番となり、1665年(29)に蔵米三百俵を賜りました。享年56。
 妻は旗本 小田切昌快の娘。
 
二代 岡野 重仍(しげより)【1687~1721】
 旗本 高尾信仍の二男、母は河村広俊の娘。信仍は岡野英明の六男。
 伯父重明の養子となり、1692年にわずか6歳で家督相続し、小普請となりました。享年35。
 妻は尾張家の家臣 浅井某の娘。
 
三代 岡野 辰明(よしあき)【1700~1743】
 堀内直能の二男。
 重仍の婿養子となり、1721年に22歳で家督相続しました。1724年(25)に御書院番に列し、1743年(44)に駿府勤番中に没しました。享年44。
 妻は岡野重仍の娘。
 
四代 岡野 明従(あきより)【1729~1793】
 岡野辰明の長男、母は岡野重仍の娘。
 1743年に15歳で家督相続しました。1748年(20)に御小姓組に列し、1789年(61)に辞職しました。享年65。
 妻は旗本 久世広氐の娘(離婚)、後妻は尾張家の家臣 浅井伊兵衛の娘。
 
五代 岡野 明肥(あきとも)【1762~?】
 旗本 稲生正敷の三男、母は稲生正甫の娘。
 先代明従には明好という子がいましたが出奔して行方不明となり、旗本 土岐朝貞の二男明喬を養子としましたが、病により実家に戻りました。その後養子に迎えられたのが明肥で、1793年に32歳で家督相続しました。
 妻は旗本 村上義方の娘。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 家紋・旗本八万騎 高橋賢一著(秋田書店
 寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻(東洋書林
 文化財調査・普及員通信 さねさし 第22号、第35号(相模原市文化財調査・普及員広報グループ)
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 続徳川実紀 第2篇、第3篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
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それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。