こんにちは、勘矢です。
今回は清水家家老永井武氏の一族について調べたことをまとめました。
1. 旗本永井家(吉次系)
こちらの永井家は永井吉次を祖とし、永井直勝の一族との関連は不明。吉次は1575年に徳川家康に仕えて近習となり、長久手の戦いで軍功あり。その子忠正は徳川秀忠に仕えて大番となり、その後六百石を賜った。正友のときに正次の二男 正明に二百石を分け与えた(永井平兵衛家)ので、四百石となった。永井平兵衛家はのちに甲府勤番となり、蔵米二百俵となった。
永井吉次の二男吉勝は徳川秀忠に仕え、上総国内で三百石を賜った。その子正勝は父とは別に禄を与えられて三百五十石、三代正清のときに五百五十石となるも、四代賢意のときに蔵米に改められて五百五十俵となった。(永井千助家)
永井吉勝の二男信勝は父の遺領から上総国内で二百石を賜り、のち百俵を加増。その子信晟は父とは別に蔵米二百俵を賜ったが、父より先に没した。孫の信安はその二百俵を相続したのち祖父の家督を相続し、二百石・二百俵となった。(永井鎌五郎家)
永井吉勝の三男宗勝は蔵米二百俵で分家(永井亀次郎家)し、その子治定は加増されて五百五十俵となった。三代治尹のとき、弟定之に百五十俵を分け与えた(永井与右衛門家)ので、四百俵となった。
2. 吉次系旗本永井一族
(1)旗本:永井百之助家
(寛政年間までの当主)
初代 永井 忠正(ただまさ)【1582~1668】
永井吉次の長男。
1590年(9)より徳川秀忠に仕え、1600年(19)の関ヶ原の戦いでは秀忠軍に供奉し、のちに大番となりました。1615年(34)の大坂夏の陣にも供奉し、1625年(44)に武蔵国内で四百石の知行地を賜りました。1632年(51)に御裏門番頭に移り、二百石を加増されて六百石となりました。
妻は旗本 戸田重元の娘。
二代 永井 正次(まさつぐ)【1625~1698】
永井忠正の長男、母は戸田重允の娘。
妻は旗本 斎藤信正の娘。
永井 忠好(ただよし)【?~1687】
永井正次の長男、母は斎藤信正の娘。
1663年に御小姓組に列し、1665年に蔵米三百俵を賜りました。父に先立ち没しました。
三代 永井 正友(まさとも)【1673~1727】
永井忠好の長男。
四代 永井 方正(よしまさ)【1710~1783】
旗本 松平(五井)忠重の三男、母は松平(五井)忠勝の娘。
妻は永井正友の娘。
五代 永井 正春(まさはる)【1743~1775】
永井方正の二男、母は永井正友の娘。
六代 永井 正秀(まさひで)【1753~1780】
永井方正の四男、母は永井正友の娘。
兄正春の養子となり、1775年に23歳で家督相続しました。享年28。
七代 永井 正扶(まさすけ)【1767~?】
旗本 丸毛利教の二男、母は加藤正容の娘。
妻は永井正秀の娘。
(2)旗本:永井平兵衛家
(寛政年間までの当主)
初代 永井 正明(まさあきら)【1659~1729】
永井正次の二男、母は斎藤信正の娘。
1698年(40)に父の領地より武蔵国内で二百石を分け与えられ、小普請となりました。1723年に65歳で隠居しました。享年71。
妻は蜂屋源五兵衛の娘。
二代 永井 正行(まさゆき)【1701~1764】
永井正明の長男、母は蜂屋源五兵衛の娘。
妻は御家人 河村広支の嫡子 河村広政の娘。
三代 永井 正甫(まさすけ)【1727~?】
永井正行の長男、母は河村広政の娘。
妻は甲府勤番 河村広定の娘(離婚)。広定の娘は広政の娘の姪。
四代 永井 正広(まさひろ)【1762~?】
永井正補の二男、母は河村広定の娘。
妻は甲府勤番 芥川元長の娘。
(3)旗本:永井陽次郎家
(寛政年間までの当主)
初代 永井 武生(たけなり)【1655~1719】
永井正次の四男、母は斎藤信正の娘。
甲府徳川家に召されて徳川綱豊に仕えました。1704(50)に綱豊が将軍家に養子入りすると、御家人に加えられ、西ノ丸焼火間に列し、蔵米二百俵を賜りました。1709年(55)に大番に転じ、1711年(57)に辞職し、小普請となりました。享年65。
妻は御家人 松崎正永の娘。
二代 永井 武氏(たけうじ)【1693~1771】
永井武生の長男、母は松崎正永の娘。
1719年に27歳で家督相続し、1724年(32)に大番に列し、1732年(40)に御小納戸となりました。1745年(53)に西ノ丸につとめ、1751年(59)に寄合に列しました。翌年、西ノ丸御広敷の用人となり、1754年(62)に五十宮(十代将軍家治の正室)附属となりました。
1757年(65)に清水万次郎(のち重好)の傅役(のち清水家の家老)となり、三百石を賜り、蔵米をあらためて常陸国内で五百石を賜りました。1762年(70)に将軍家治が清水家の館に渡御したとき、重好の鎗術を台覧された。武氏は真当流の鎗術を修めていたということを賞されて時服二領を賜りました。享年79。
妻は旗本 青木当高の娘。
永井 武進(たけゆき)【?~1741】
永井武氏の養子。旗本 岩田定勝の二男。父に先立ち没しました。
永井 武信(たけのぶ)【1725~1753】
永井武氏の養子。旗本永井百之助家:永井正友の二男。
武氏の婿養子となりました。1747年(23)に西ノ丸の御小納戸に列し、1751年(27)に寄合に列しました。父に先立ち没しました。享年29。
三代 永井 氏恵(うじよし)【1741~1782】
永井武信の長男、母は永井武氏の娘。
妻は白須政賢の養女(旗本 岡村直昌の娘:離婚)、後妻は旗本 川口恒寿の娘。
四代 永井 氏俊(うじとし)【1765~1796】
永井氏恵の長男、母は川口恒寿の娘。
妻は旗本 榊原友就の娘。
五代 永井 氏伸(うじのぶ)【1781~?】
永井氏俊の長男、母は榊原友就の娘。
1796年に16歳で家督相続しました。
(4)旗本:永井千助家
(寛政年間までの当主)
初代 永井 吉勝(よしかつ)【?~1644】
永井吉次の二男。
1599年より徳川秀忠に仕え、1600年の関ヶ原の戦いでは秀忠軍に供奉し、のちに大番となりました。1615年の大坂夏の陣にも供奉しました。1623年に徳川家光に仕え、1632年に奥方の番頭となり、加増されて上総国内で三百石を賜りました。のちに勘気を蒙り、1641年にゆるされました。1644年に没し、二百石は二男信勝に与えられました。
二代 永井 正勝(まさかつ)【1614~1697】
永井吉勝の長男。
1630年(17)より三代将軍 徳川家光に仕えて大番に列し、蔵米百五十石を賜りました。1633年(20)に二百石を加増され、蔵米をあらためられ武蔵国内で三百五十石となりました。1643年(30)に新番となり、のちに小普請となりました。1674年に61歳で隠居しました。享年84。
三代 永井 正清(まさきよ)【1644~1716】
旗本 青木義頼の二男、母は青木正定の娘。
正勝の養子となり、1674年に31歳で家督相続しました。1675年(32)に大番に列しました。1685年(42)に御蔵奉行をつとめ、1690年(47)に大番組頭に進みました。1694年(51)に蔵米二百石加増され、1697年(54)に、蔵米をあらためられ武蔵国内で五百五十石となりました。1710年(67)に辞職しました。享年73。
四代 永井 賢意(やすもと)【1687~1730】
永井正清の長男、母は丹羽長吉の娘。
1709年(23)に御小姓組に列し、1716年に30歳で家督相続しました。1724年(38)より二ノ丸に勤仕し、翌年に西ノ丸の御書院番となり、1726年(40)に知行地から蔵米に改められて五百五十俵。享年44。
妻は医家 杉浦安重の娘。
五代 永井 佳達(よしみち)【1714~1767】
永井賢意の長男、母は杉浦安重の娘。
1730年に17歳で家督相続しました。1739年(26)に大番に列し、1765年(52)組頭に進みました。享年54。
妻は旗本 加藤忠久の娘。
六代 永井 佳孝(よしたか)【1743~?】
永井佳達の長男。
妻は医家 井上方正の娘。
七代 永井 佳武(よしたけ)【1771~?】
旗本 小川真円の二男、母は河島国実の娘。
妻は永井佳孝の娘。
(5)旗本:永井鎌五郎家
(寛政年間までの当主)
初代 永井 信勝(のぶかつ)【?~1706】
永井吉勝の二男。
1640年に大番に列し、1642年に蔵米二百俵を賜りました。1644年に父の遺領から上総国内の二百石を賜りました。先の蔵米は弟 宗勝に与えられました。1672年に御天守番頭に転じ、1682年に蔵米百俵を加えられました。1689年に小普請となりました。
永井 信晟(のぶあきら)【1654~1703】
永井信勝の長男。
1672年(19)に大番に列し、1674年(21)に蔵米二百俵を賜りました。1689年(36)に御金奉行に転じ、1697年(44)に百俵を賜りました。父に先立ち没しました。享年50。
妻は旗本 松平(滝脇)乗久の娘。
二代 永井 信安(のぶやす)【1690~1733】
永井信晟の長男、母は松平(滝脇)乗久の娘。
1703年(14)に父の遺跡二百俵を相続し、1706年に17歳で祖父の家督を相続し、父の遺領百俵を加えて二百石・二百俵となりました。1707年(18)に大番に列し、1719年(30)に組頭に進み、1727年(38)に辞職しました。享年44。
妻は旗本 内藤正好の娘。
三代 永井 安敬(やすあつ)【1716~1747】
永井信安の長男、母は内藤正好の娘。
1733年に18歳で家督相続しました。1737年(22)に大番に列し、1743年(28)に西ノ丸の新番に転じ、翌年に辞職しました。享年32。
妻は旗本 三田守勝の娘。
四代 永井 信秀(のぶひで)【1731~1797】
旗本 松平(滝脇)乗通の二男。乗通は、初代信勝の嫡子信晟の二男。
従兄安敬の婿養子となり、1747年に17歳で家督相続しました。1763年(33)に御納戸番に列し、1766年(36)に新番に移り、翌年に辞職しました。1797年に67歳で隠居し、間もなく没しました。享年67。
妻は永井安敬の娘、後妻は旗本 長義虎の娘。
五代 永井 信宜(のぶよし)【1771~?】
永井信秀の長男、母は長義虎の娘。
1797年に27歳で家督相続しました。
妻は旗本 野村勝和の娘。
(6)旗本:永井亀次郎家
(寛政年間までの当主)
初代 永井 宗勝(むねかつ)【?~1657】
永井吉勝の三男。
1644年に兄信勝の蔵米二百俵を賜り、大番に列しました。
二代 永井 治定(はるさだ)【1656~1735】
永井宗勝の長男。
1657年にわずか2歳で家督相続しました。1678年(23)に大番となり、1684年(29)に新番に転じ、蔵米五十俵を加えられ、1691年(36)に御膳奉行に移りました。1702年(47)に御腰物奉行にすすみ、二百俵、1707年(52)に百俵を加えられて五百五十俵となりました。
1708年(53)に御目付に転じ、1710年(55)に宝永金銀のことをつとめ、1716年(61)に御留守居番に移りました。1718年(63)に八代将軍徳川吉宗の生母浄圓院を紀州まで迎えに行きました。1722年(67)に御広敷のことを兼ねました。1733年(78)に老齢のため務めを辞して寄合となりました。1734年に79歳で隠居し、隠居料三百俵を賜りました。享年80。
妻は旗本 深尾元重の娘。
三代 永井 治尹(はるただ)【1680~1735】
永井治定の長男、母は深尾元重の娘。
妻は旗本 安藤定知の娘。
四代 永井 治元(はるもと)【1713~1735】
永井治尹の長男、母は安藤定知の娘。
1735年に23歳で家督相続するも、約半年後に没しました。享年23
五代 永井 安静(やすちか)【1718~1747】
永井治尹の二男、母は安藤定知の娘。
六代 永井 安清(やすきよ)【1733~?】
永井安静の長男、母は三木忠位の娘。
1747年に15歳で家督相続しました。
(7)旗本:永井与右衛門家
(寛政年間までの当主)
初代 永井 定之(さだゆき)【1722~1784】
永井治定の三男。
1734年(13)に父の蔵米のうち、百五十俵を分け与えられ、小普請となりました。1744年(23)に一橋家の近習番に列し、のち用人に進みました。享年63。
妻は旗本 小河康次の養女(間部家家臣上原某の娘:離婚)、旗本 山崎正次の娘(離婚)。
二代 永井 定宜(さだよし)【1750~?】
永井定之の長男、母は小河康次の養女。
妻は御家人 西兼豊の娘。
永井 定言(さだこと)【?~?】
永井定宜の長男、母は西兼豊の娘。
1788年に十一代将軍徳川家斉に初お目見えし、1795年に逐電しました。
妻は旗本 平田尚義の娘。定言が逐電すると実家に帰り、のち橋本宗九郎に嫁ぎました。
永井 盛之(もりゆき)【?~?】
旗本 間宮盛顕の二男。定宜の婿養子となりました。
妻は永井定宜の娘。はじめ旗本 竹内善明に嫁ぎ、離婚ののち、盛之の妻となりました。
※旗本各家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
寛政譜以降 旗本百科事典 第4巻(東洋書林)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。