探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

旗本 佐々木氏

こんにちは、勘矢です。
今回は旗本佐々木氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 旗本佐々木氏

 佐々木信綱の長男 重綱の末孫という一正は、はじめ織田信長に仕え、のちに徳川家康に仕えた。その孫の正次のときに六百八十石余となった。正次の子 正茂が相続するときに故あって五百石となり、その後蔵米四百俵を加増され、さらにその子 正富のときに蔵米を知行に変更されて九百石となった。
 四つの分家があり、佐々木一正の二男 一勝からはじまる佐々木三蔵家は蔵米四百俵、佐々木正次の養子 正成からはじまる佐々木五郎右衛門家は七百石、佐々木正次の二男 正信からはじまる佐々木伝右衛門家は蔵米二百俵、佐々木正次の四男 正由からはじまる佐々木利兵衛家は蔵米二百俵。

 

(1)旗本:佐々木庄左衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 佐々木 一正(かずまさ)【1546~1621】
 佐々木重正の長男。
 1588年(43)に子の元次と共に徳川家康に仕えました。その後、関東において知行を賜りました。享年76。
 
二代 佐々木 元次(もとつぐ)【1560~1608】
 佐々木一正の長男。
 1588年(29)に父とともに徳川家康に仕えました。その後、父の隠居によって家督を継ぎ、関ヶ原の戦い後に信濃国内で知行を賜りました。享年49。
 妻は旗本 永田久琢の娘。
 
三代 佐々木 正次(まさつぐ)【1587~1645】
 佐々木元次の長男、母は永田久琢の娘。
 1608年に22歳で相続しました。1625年(39)に武蔵国内で新田を合わせて四百八十石余を賜り、のちに大番となりました。1633年(47)に二百石の加増がありました。享年59。
 妻は京都祇園の社人 山本大蔵の娘。
 
四代 佐々木 正茂(まさしげ)【1644~1683】
 佐々木正次の三男、母は山本大蔵の娘。
 父正次が没したとき、長兄正成は別家し、次兄正信が病のため大番を辞職していたことから1646年にわずか3歳で相続しました。父の遺領の内、武蔵・上野国内において五百石を賜りました。1655年(12)に大番に列し、1679年(36)に組頭に進み、蔵米二百俵を加えられ、さらに1682年(39)に蔵米二百俵を加えられました。享年40。
 妻は義兄佐々木正成の娘。
 
五代 佐々木 正富(まさとみ)【1660~1730】
 旗本 宮崎政泰の五男、母は安部信孝の養女。政泰の妹(正富の叔母)が正茂の義兄正成の妻。
 正茂の婿養子となり、1683年に24歳で相続し、小普請となりました。1684年(25)に桐間番に列し、翌年大番に移りました。1697年(38)に蔵米から知行に変更となり、下総国内で四百石を賜り、合わせて九百石となりました。1724年(65)に御先鉄砲頭に進み、1728年(69)に盗賊追捕役をつとめました。享年71。
 妻は佐々木正茂の養女(旗本 篠山資友の娘)。資友の母は三好為三の娘。
三好為三についてはこちらをご覧ください。(リンク)
 
六代 佐々木 正武(まさたけ)【1693~1747】
 佐々木正富の長男、母は佐々木正茂の養女。
 1730年に38歳で相続しました。1735年(43)に御小姓組の番士となりました。享年55。
 妻は旗本 田村顕当の養女(旗本 夏目直重の娘)、後妻は紀州藩の家臣 三井高明の娘。
 
七代 佐々木 正孝(まさたか)【1729~1760】
 分家 佐々木正友の二男、母は伴部氏の娘。
 正武の婿養子となり、1747年に19歳で相続しました。1752年(24)に大番に列しました。享年32。
 妻は佐々木正武の娘。
 
八代 佐々木 正屋(まさいえ)【1759~?】
 佐々木正孝の長男、母は佐々木正武の娘。
 1760年にわずか2歳で相続しました。1784年(26)に西ノ丸御納戸番に列しました。1786年(28)より本丸に勤めました。
 妻は旗本 彦坂良真の娘。
 
佐々木 正恒(まさつね)
 佐々木正屋の長男、母は彦坂良真の娘。
 妻は旗本宅間憲熈の娘。
 

旗本佐々木氏略系図(1)
 
 

(2)旗本:佐々木五郎右衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 佐々木 正成(まさなり)【?~1674】
 中野氏の子、母は豊田氏。
 佐々木正次の養子となり、1620年に召されて二代将軍 徳川秀忠に仕え、蔵米三百俵を賜り、のちに大番に列しました。1633年に二百石を加えられ、蔵米をあらためて陸奥国内に五百石を賜りました。その後、大坂城の守衛をつとめ、1660年に組頭にすすみ、翌年に蔵米二百俵を加えられました。
 妻は旗本 宮崎泰次の娘。
 
二代 佐々木 正和(まさかず)【?~1701】
 佐々木正成の長男、母は宮崎泰次の娘。
 1663年に御小姓組に列し、1674年に相続しました。1682年に小十人頭に転じました。1688年に故あって小普請に貶され閉門となりました。1690年に赦免され、1697年に蔵米をあらためて下総国内で二百石を賜り、合わせて七百石となりました。
 妻は旗本 稲生正倫の娘。
 
三代 佐々木 正庸(まさつね)【1687~1739】
 佐々木正和の長男、母は稲生正倫の娘。
 1701年に15歳で相続しました。1706年(20)に御小姓組に列し、1708年(22)より進物役をつとめました。1712年(26)に御徒頭に移りました。1714年(28)に御目付に転じ、1726年(40)に御先鉄砲頭にとなり、さらに盗賊追捕のことをつとめました。1728年(42)に八代将軍 徳川吉宗の日光社参に供奉しました。享年53。
 妻は旗本 松平(能見)甫昌の娘。
 
四代 佐々木 正敏(まさとし)【1714~1742】
 宗家 佐々木正富の二男、母は佐々木正茂の養女(篠山資友の娘)。
 1735年(22)に御小姓組に列し、1739年に26歳で相続しました。1741年(28)より進物役をつとめました。享年29。
 妻は佐々木正庸の娘。
 
五代 佐々木 正臣(まさおみ)【1726~1764】
 旗本 松平(能見)光寛の二男、母は長谷川忠国の養女。正臣の大叔母が先々代正庸の妻。
 1742年に17歳で相続しました。1749年(24)に御書院番となりました。享年39。
 妻は旗本 深津正峯の娘、後妻は旗本 羽太正方の娘。
 
六代 佐々木 正武(まさたけ)【1739~?】
 旗本 稲垣昭泰の二男、母は佐々木正庸の娘。三代正庸の外孫。
 1764年に26歳で相続しました。1767年(29)に御小姓組に列し、1771年(33)に進物役えおつとめました。1777年に39歳で隠居しました。
 妻は旗本 稲垣昭庶の養女(昭庶の妹)、後妻は旗本 内藤正武の娘、後々妻は旗本 稲垣昭庶の養女(最初の妻の妹)。
 
七代 佐々木 正応(まさたか)【1761~?】
 旗本 高田政意の三男。
 正武の婿養子となり、1777年に17歳で相続しました。1781年(21)に西ノ丸の御書院番に列し、1790年(30)に本丸つとめとなりました。1796年(36)若君(徳川家慶)に附属となりました。
 妻は佐々木正武の娘、後妻は後妻は旗本 永井白衆の娘。
 
 

(3)旗本:佐々木伝右衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 佐々木 正信(まさのぶ)【?~1669】
 佐々木正次の二男、母は京都祇園の社人 山本大蔵の娘。
 1636年に大番に列し、1638年に蔵米二百俵を賜りました。
 
二代 佐々木 正春(まさはる)【?~1695】
 近藤新五左衛門の子。
 1669年に相続し、1684年に大番となりました。
 
三代 佐々木 定正(さだまさ)【?~1706】
 佐々木正春の長男。
 1695年に相続し、1705年に大番に列しました。
 
四代 佐々木 正友(まさとも)【1704~1745】
 旗本 小俣政英の三男、母は小川康真の娘。祖母が初代政信の娘。
 定正の養子となり1706年にわずか3歳で相続しました。1728年(25)に大番に列し、1734年(31)に御納戸番に移り、1743年(40)に組頭となりました。享年42。
 妻は伴部氏の娘。
 
五代 佐々木 政清(まさきよ)【1729~?】
 佐々木正友の長男、母は伴部氏の娘。
 1745年に17歳で相続しました。1755年(52)に大番となり、1769年(66)に御小納戸に移りました。
 妻は旗本 加藤正儀の娘。寛政譜の佐々木氏の項では正義であるが、加藤氏の項では正儀となっている。
 
佐々木 正周(まさちか)【1769~?】
 旗本 橋本敬惟の四男。
 1790年(22)に大番に列し、1796年(28)に御小納戸に移り、翌年、西ノ丸に移されました。
 妻は和田持澄の養女(持澄の養子持寛の娘)、後妻は旗本 太田快繁の娘。
 

旗本佐々木氏略系図(2)
 

(4)旗本:佐々木利兵衛家

(寛政年間までの当主)
初代 佐々木 正由(まさより)【1641~1693】
 佐々木正次の四男、母は京都祇園の社人 山本大蔵の娘。
 1662年(22)に召されて小十人に列し、月俸十口を賜り、1664年(24)に蔵米百俵を賜りました。1679年(39)に御納戸番に転じ、1683年(43)に百俵を加えられ、合わせて二百俵となり、月俸は収められました。享年53。
 妻は御家人 天野政吉の娘、後妻は鷹匠 蜂屋正列の娘。
 
二代 佐々木 正勝(まさかつ)【1672~1714】
 佐々木正由の長男、母は天野政吉の娘。
 1693年に22歳に相続し、小普請となりました。1695年(24)に御納戸番に列しました。享年43。
 妻は御家人 青木重宣娘。
 
三代 佐々木 正信(まさのぶ)【1701~1731】
 佐々木正勝の長男、母は青木重宜の娘。
 1714年に14歳で相続しました。1724年(24)に甲府勤番となり、甲府に移り住みました。享年31。
 妻は旗本 吉井定倫の娘。
 
四代 佐々木 正誼(まさよし)【1716~1740】
 旗本 島田利豊の二男。
 1731年に16歳で相続しました。1735年(20)に甲府勤番となりました。享年25。
 妻は甲府勤番 花形好邦の娘(離婚)。
 
五代 佐々木 正弥(まさみつ)【1725~?】
 旗本島田利豊の四男。
 兄正誼の末期養子となり、1741年に17歳で相続しました。1746年(22)に甲府勤番となりました。1785年に61歳で隠居しました。
 妻は甲府勤番 秋田政房の娘、後妻は先妻の妹、甲府勤番 山田信積の娘、甲府勤番 磯部盛中の養女(甲府勤番 服部政信の娘)。
 
六代 佐々木 正利(まさとし)【1752~?】
 佐々木正弥の長男、母は秋田政房の長女。
 1785年に34歳で相続し、甲府勤番となりました。1796年(45)に辞職しました。
 妻は甲府勤番 竹田定安の娘(離婚)、後妻は甲府勤番 疋田延相の娘。
 
佐々木 正徳(まさのり)
 佐々木正応の長男、母は竹田定安の娘。妻は甲府勤番 大岡直陳の娘。
 
 

(5)旗本:佐々木三蔵家

(寛政年間までの当主)
初代 佐々木 一勝(かずかつ)【1609~1650】
 佐々木一正の二男。
 1626年(18)に召されて小十人をつとめました。1632年(24)に二百俵となり、翌年組頭となりました。享年42。
 妻は出雲松江藩 松平(越前)家家臣 放土為昭の娘。
 
二代 佐々木 一宗(かずむね)【1641~1691】
 佐々木一勝の長男、母は放土為昭の娘。
 1650年にわずか10歳で相続しました。1659年(19)に大番に列しました。1670年(30)に御小納戸の番士に移り、1675年(35)に組頭に進み、後に百俵を加えられました。1682年(42)に百俵を加えられて四百俵となりました。享年51。
 妻は旗本 西川正義の娘。
 
三代 佐々木 一晋(かずます)【1676~1745】
 佐々木一宗の長男、母は西川正義の娘。
 1691年に16歳で相続しました。1700年(25)に大番となり、1714年(39)に新番、1725年(50)に組頭となりました。1736年に61歳で隠居しました。享年70。
 妻は旗本 筒井重白の娘。
 
四代 佐々木 一陳(かずのぶ)【1703~1764】
 山鹿氏の子、母は佐々木一宗の娘。二代一宗の外孫。
 伯父一晋の養子となり、1736年に34歳で相続し、その後、大番に列しました。1764年に62歳で隠居しました。享年62。
 妻は御勘定 山田至鄰の養女(至鄰の弟至郷の娘)。
 
佐々木 一到(かずゆき)【1731~1749】
 神谷久武の五男。一陳の婿養子となるも父に先立ち没しました。享年19。妻は佐々木一陳の娘。
 
五代 佐々木 一徳(かずのり)【1727~?】
 代官 長谷川忠崇の二男、母は矢部重信の娘。
 一陳の婿養子となり、1764年に38歳で相続しました。翌年、大番となりました。1790年に64歳で隠居しました。
 妻は佐々木一陳の娘(元一到の妻)、後妻は旗本 浅羽成純の娘(離婚)。
 
佐々木 一言(かずこと)【1759~1782】
 佐々木一徳の長男、母は佐々木一陳の娘。
 1778年(20)に大番に列しました。父に先立ち没しました。享年24。
 
六代 佐々木 万彦(まひこ)【1751~?】
 旗本 石野広通の二男、母は屋代友昌の娘。
 一徳の婿養子となり、1790年に40歳で相続しました。1797年(47)に大番に列しました。
 妻は佐々木一徳の娘。
 
※旗本各家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 寛政重修諸家譜(國民圖書 /  国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 家紋・旗本八万騎(高橋賢一著/秋田書店
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。