探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

浅草歴史散歩〜蔦重ゆかりの地などをめぐって〜

こんにちは、勘矢です。

今回は、今年の初詣で浅草周辺にある寺社と蔦重ゆかりの地などをめぐってきましたので、そのことについて書きたいと思います。

 

 

1. 浅草駅から牛嶋神社

 散歩の出発地は東武線の浅草駅北口で、改札付近に今年の大河ドラマにちなんで「蔦重ゆかりの地」の幟がありました。

 

蔦重ゆかりの地の幟



 改札を出て右に曲がると国道6号線(旧日光街道)があり、それを渡って隅田公園へ向かいました。左に曲がって東武線の高架をくぐると、右手にすみだリバーウォークがあります。これで隅田川を渡って対岸の隅田公園に向かいました。階段を上るとき、ちょうど浅草駅を出発したスペーシアXが通り過ぎていきました。右手に吾妻橋アサヒビールの金色のオブジェを眺めながら橋を歩いていきますが、電車が通るたびに橋が揺れました。

 橋を渡り終わって道路を渡ると墨田区隅田公園が広がっていて、ここは江戸時代に水戸藩蔵屋敷があったところにでした。明治時代になるとこの地が水戸徳川家の本邸となり、小梅邸とよばれました。明治天皇が1875年(明治8年)に行幸され、そのときの御製が石碑に刻まれています。

 

明治天皇行幸所 水戸徳川邸舊阯

 

 隅田公園を北に進むと牛嶋神社があります。浅草駅からここまで約20分。牛嶋神社には撫牛があります。牛嶋神社は元々ここより約600m北にある弘福寺の西隣に所在していましたが、関東大震災後に現在地に遷座しました。

 

牛嶋神社の撫牛

 

2. 牛嶋神社から待乳山

 牛嶋神社を後にし、言問橋を渡って対岸に向かいました。言問橋西詰交差点から来た道を振り返ると、正面にスカイツリーが見えます。言問通りを西に少し進むと旧・浅草猿若町と書かれた案内があり、その付近に旧町名由来案内もあります。旧町名由来案内のある交差点を右に曲がって旧猿若町を進みました。まずは左手に「中村座跡」の案内があり、その先の左手に市村座跡の石碑があります。道路を挟んだその先の右手には「守田座跡」の案内がありす。

 

旧・浅草猿若町の案内

旧町名由来案内

 少し道を戻り、隅田川方面に歩いて行き、旧日光街道を渡ると左手に待乳山が見えます。待乳山の標高は9.7mで、階段を上り待乳山聖天に向かいました。待乳山聖天は正式には待乳山聖天本龍院(まつちやましょうでん・ほんりゅういん)といい、浅草寺一山支院のひとつです。起源は推古天皇の時代初期の頃といわれ、浅草寺よりも草創の伝承が古いとのことです。牛嶋神社から旧猿若町経由で約20分。

 

待乳山聖天

 

3. 待乳山から今戸神社

 待乳山を下りて隅田川方面へ歩き、道路を渡って左に曲がり、台東リバーサイドスポーツセンター方面に向かいました。その手前の広場の入口を入った右手に「平成中村座発祥の地」の石碑があり、そこからちょっと川側に行くと「竹屋の渡し跡」の石碑があります。通りに戻って進むと「今戸橋跡」があり、欄干と案内があります。更に進むとY字路となるので、左の道を進みました。すると左手に今戸神社が見えます。待乳山から約10分。

 

今戸橋跡

 今戸神社は元は今戸八幡で、1063年(康平6年)に源頼義・義家父子が奥州の安倍氏を討伐する際に、京都の石清水八幡宮を勧請して創建したと伝えられています。1937年に白山神社を合祀して今戸神社と改称しました。招き猫発祥の地といわれており、招き猫をモチーフとしたお守りや置物などが授与品としてあります。また、新選組沖田総司の終焉の地と言われています。

 

 お昼近くに行ったので多くの参拝客がおり、参拝までに20分くらい並びました。

 

今戸神社

 

4. 今戸神社から正法寺

 今戸神社の西側から出ると都立浅草高校があり、左に曲がって間もなく「聖天橋跡」があります。左に曲がって山谷堀公園に入ると今戸焼の人形が飾られています。奥にはスカイツリーも見えます。聖天橋跡に戻り、道路を挟んだ反対側には猪牙舟の案内があり、再現した猪牙舟があります。

 

今戸焼の人形

猪牙舟スカイツリー

 山谷堀公園を上流方面へ進むと旧日光街道に出ます。右に曲がり旧日光街道を千住方面に進むと左手にビル型寺院の誠向山 正法寺があります。お寺の入口の左横に2024年(令和6年)10月に設置された案内があります。このお寺は蔦屋重三郎ゆかりの日蓮宗のお寺で、1582年(天正10年)に開山されたといいます。本堂に入ると毘沙門天立像が安置され、「江戸三大毘沙門天」の一つとされています。他の二つは神楽坂の全国善國寺、芝の正傳寺とのことです。本堂に向かって左手の外墓地には再建された蔦屋の墓石と石川雅望、太田南畝による墓碑銘があります。今戸神社から正法寺まで約10分。

 

蔦屋 重三郎【1750~1797】

 喜多川氏(蔦屋)の養子。本姓丸山、名は柯丸(からまる)、号は耕書堂。享年48。

 

正法寺

正法寺蔦屋墓碑

 

 

5. 正法寺から吉原神社へ

 正法寺を出てお寺の北側を西に進むと「正法寺橋跡」があります。右に曲がり、山谷堀公園を吉原方面に進むと「山谷堀橋跡」があり、そこから土手通りという広い通りを進みました。ここにはかつて日本堤と呼ばれる堤防がありました。隅田川の水があふれたときに江戸市中が守られる仕組みだったといいます。この堤は関東大震災後に取り崩されました。

 日本堤は幕府公認の遊郭である吉原への通い道としても栄えました。遊興の客たちは舟で山谷堀を進むか、陸路で日本堤を歩いて吉原に向かいました。しばらく道を進むと左手にガソリンスタンドがある吉原大門交差点があり、その角に柳の木があります。吉原で遊んだ客がこのあたりで名残を惜しんで振り返ったということから「見返り柳」と呼ばれました。

 

見返り柳

 土手通りから左に曲がりるとS字カーブがあり、最後のカーブを過ぎるた左側の歩道に「吉原大門と耕書堂」の案内があります。新吉原は東西180間(約327m)、南北135間(約245m)の広さで、周囲に鉄漿溝がめぐらされていました。新吉原のエリアは周囲と比べて少し高い場所となっています。仲之町通りを進み、千束四丁目交差点に「耕書堂」を模した施設が2025年1月18日(土)から約1年の期間で開館するそうです。

 

江戸新吉原耕書堂

taito-tsutaju.jp

 

江戸新吉原耕書堂



 更に通りを進むと右手に吉原神社があります。吉原神社は、かつての吉原遊廓にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊廓に隣接する吉原弁財天の合計6つの神社がおまつりされています。正法寺から吉原神社まで約25分。

 

吉原神社

 

6. 吉原神社から浅草神社

 吉原神社を出て仲之町通りを進むとまもなく左手に新吉原花園池(弁天池)跡があります。ここには、関東大震災の殉難者を慰霊する観音像と吉原弁財天の本宮があります。

 

吉原弁財天

 

 参拝後、一葉・小松橋通り、千束通りを通って浅草ひさご通りに入りました。アーケード街に入ってまもなく右手に「江戸たいとう伝統工芸館」があります。ここでは伝統工芸品の常設展示がされています。吉原神社から江戸たいとう伝統工芸館まで約15分。

 

江戸たいとう伝統工芸館

craft.city.taito.lg.jp

 

 浅草ひさご通りから六区エリアに入ると、右手に浅草ビューホテルANNEX六区が見えます。エントランスには木組みが用いられています。浅草演芸ホールまで進んだら奥山おまいりまちに入りました。浅草寺に近づくにつれて人が多く賑わっていました。浅草寺には多くの露店が出店されていて、浅草寺本堂の裏を通って最後の目的地浅草神社(三社様)に向かいました。浅草神社をお参りしたら馬道通りを歩いて、東武浅草駅へ戻りました。

 

浅草神社の御神輿

 

参考文献:

 浮世絵でたどる!江戸の凸凹地形散歩(渡邉 晃 / 山川出版社

 切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩(人文社)

 日本人名大辞典(講談社

 

それでは、今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。