こんにちは、勘矢です。
今回は高家大沢家とその分家について調べたことをまとめました。
1. 高家大沢民部大輔家
高家大沢家は藤原北家の公家持明院家の一族といい、南北朝時代の頃に基秀が遠江国敷知郡(静岡県浜松市)に移って堀江城を築城し、その子基久のときに基秀が領していた丹波国多紀郡大沢(兵庫県篠山市)に因んで大沢を称したという。
戦国時代の基胤は今川氏真に属し、1569年に徳川家康の家臣となり本領を安堵された。その子基宿は家康に従って各地で戦い、1590年の小田原攻めのときは本多忠勝に属して岩槻城を攻めた。その後も忠勝に従って上総国小滝にいた。1600年の関ヶ原の戦い後に遠江国敷知郡で千五百五十石を賜った。1603年家康の将軍宣下のときに摂家・門跡・諸公家往来等のことを扱う勤めを仰せつかり、高家の初任者となった。
二代基重は1605年に遠江国内で千石を与えられ、大坂の両陣に供奉した。1640年に父の遺領と合わせて二千五百五十石となった。五代基隆のときに遠江国内で千石加増されて三千五百五十石となった。
明治維新のときの当主基寿は、浜名湖の埋め立て予定地と合わせて一万石余と詐称し、堀江藩を立藩した。1872年の廃藩置県では堀江県となり、基寿も華族となったが、同年に再調査が行われて詐称が発覚したため、士族に落とされ、一年半の禁固刑となった。
初代 大沢 基宿(もといえ)【1565~1640】
妻は武田家の家臣 一条信達の娘。
二代 大沢 基重(もとしげ)【1602~1650】
大沢基宿の長男、母は一条信達の娘。享年49。
妻は旗本 近藤季用の娘。
三代 大沢 基将(もとまさ)【1619~1678】
大沢基重の長男、母は近藤季用の娘。
妻は旗本 大島光親の娘。
四代 大沢 基恒(もとつね)【1656~1697】
伊勢津藩主 藤堂高次の四男。
妻は出羽山形藩主 松平(奥平)忠弘の娘。
五代 大沢 基隆(もとあき)【1688~1730】
分家大沢基明の二男、母は本庄宗資の娘。
六代 大沢 基朝(もととも)【1718~1791】
大沢基隆の長男、母は松平清照の娘。
1730年に13歳で家督相続、1752年に35歳で隠居。奥高家。享年74。
七代 大沢 定寧(さだやす)【1741~1776】
大沢基朝の二男。初名基典。
八代 大沢 基之(もとゆき)【1760~1822】
旗本 近藤英用の六男、母は米津政容の娘。右京大夫。
妻は大沢定寧の娘。
大沢 基栄【?~?】
大沢基之の子。
妻は伊勢津藩主 藤堂高嶷の娘。
九代 大沢 基昭【?~1853】
大沢基之の子。初名基條ヵ。民部大輔、右京大夫。
十代 大沢 基暢【?~1862】
大沢基昭の子。乙次郎、民部大輔、右京大夫。
十一代 大沢 基寿(もととし)【?~?】
大沢基暢の子。右京大夫。
1860年に高家となり、1862年に家督相続。1866年に高家肝煎。
2. 旗本大沢家
(1)旗本:大沢仁十郎家
基重の三男基哲は1650年に召されて別家し、蔵米三百俵を賜った。その後、蔵米三百俵を加増され、1682年に上野・下野国内で五百石の加増があり、1686年に長崎奉行となり、下野国内で五百石を加増された。その子基躬は奥高家となり、1697年に蔵米を改められて武蔵・伊豆国内で六百石を賜った。1705年に武蔵・上野国内で千石の加増があり、合わせて二千六百石を知行した。
初代 大沢 基哲(もとのり)【1623~1687】
大沢基重の三男、母は近藤季用の娘。享年65。
妻は旗本 佐野公当の養女(公家二条家の家臣 大宮俊重の娘)。
二代 大沢 基躬(もとみ)【1659~1728】
大沢基哲の長男、母は佐野公当の養女。
後妻は山城淀藩主 永井尚政の娘。
後々妻は公家 持明院基時の養女。
三代 大沢 定時(さだとき)【1694~1766】
大沢基連の長男。1728年に35歳で家督相続。御使番。享年73。
四代 大沢 定良(さだよし)【1719~1782】
大沢定時の長男。
1766年に48歳で家督相続し、1771年に53歳で隠居。享年64。
妻は旗本 梶正胤の養女(公家 五辻広仲の娘)。
後妻は大和新庄藩主 永井直円の娘。
後々妻は旗本 竹中定矩の娘(離婚)。
五代 大沢 定矩(さだのり)【1749~1793】
大沢定良の長男、母は永井直円の娘。
1771年に23歳で家督相続。中奥番士。享年45。
妻は旗本 曽根長員の娘。
六代 大沢 定儔(さだとも)【1777~1810】
大沢定矩の長男。弾正。
妻は高家 六角広籌の娘。
大沢 乗哲【?~?】
大沢定儔の子。仁十郎。
1810年に家督相続。長崎奉行、一橋家家老、御留守居などを勤めた。1866年に隠居。
大沢 顕一郎【?~?】
旗本 松平(大給)近直の子。
乗哲の養子となり、1866年に家督相続。中奥番、歩兵頭並。
(2)旗本:大沢帯刀家
大沢基哲の二男基連は1687年に召されて御小姓組に列し、蔵米三百俵を賜った。はじめ母方の佐野を称し、のちに大沢に改めた。1689年に表高家となった。三代時賑は御小納戸をつとめ、四代時庸は西ノ丸御書院番をつとめた。
大沢 基連(もとつれ)【1659~1725】
大沢基哲の二男、母は佐野公当の養女。享年67。
(3)旗本:大沢政之助家
大沢政之助家は大沢基重の二男尚親からはじまる。1651年に遠江国内で二千石を賜った。二代基明は奥高家をつとめた。三代基実が早世したため領地は収められた。基実の大伯母桂昌院の望みにより、基実の従弟英晴(旗本内藤信常の二男、母は尚親の娘)に名跡相続が認められ、蔵米三百石を賜った。
初代 大沢 尚親(なおちか)【1624~1681】
大沢基重の二男、母は近藤季用の娘。享年58。
妻は姫路藩主松平(奥平)忠明の娘。後妻は津田某の娘。
二代 大沢 基明(もとあきら)【1668~1691】
大沢尚親の長男、母は津田某の娘。
妻は松平宗資の娘。
三代 大沢 基実(もとざね)【1687~1700】
大沢基明の長男、母は松平宗資の娘。
1691年にわずか5歳で家督相続。享年14。
(4)旗本:大沢斎宮家
大沢斎宮家は大沢基宿の三男基成からはじまる。1640年に召されて御書院番に列し、のち蔵米三百俵を賜った。歴代の当主は御書院番や御小姓組などをつとめた。
(5)旗本:大沢勘右衛門家
大沢勘右衛門家は大沢基宿の養子基賀からはじまる。はじめ館林藩主の綱吉に仕え、1680年に御家人に加えられて蔵米四百五十俵を賜った。二代基武は嗣子なく妻の弟定雄が養子となって相続し、定雄の跡は実弟定隆が相続した。五代定良は大沢仁十郎家からの養子。歴代の当主は御書院番などをつとめた。
(6)旗本:大沢金十郎家
大沢金十郎家は、大沢基胤の二男基雄からはじまる。二代基洪は1633年に武蔵国内で七百石を賜り、御小姓をつとめた。三代基房は弟基則に二百石を分与したので五百石を知行した。1698年、四代基政のときに知行地が上総国内に移された。歴代の当主は御書院番をつとめることが多い。
(7)旗本:大沢甚九郎家
大沢甚九郎家は大沢金十郎家からの分家で、基洪の二男基則からはじまる。1658年に父の遺領から武蔵国内で二百石を分け与えられ、1660年に蔵米百俵を賜った。二代中基は元則の妹の子で、その孫の甚九郎が1746年に逐電して絶家。
(8)旗本:大沢吉蔵家
大沢吉蔵家は大沢金十郎家からの分家で、基雄の二男基之からはじまる。1640年に大番に列し、1642年に蔵米二百俵を賜った。二代基能は元之の甥で、新番をつとめて五十俵を賜り二百五十俵となった。歴代の当主は大番をつとめることが多い。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
華族類別譜 上巻 皇別(柴山典 編 / 屏山書屋 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
続徳川実紀 第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻、第5巻(東洋書林)
日本人名大辞典(講談社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。