こんにちは、勘矢です。
1. 高次系京極氏
室町幕府の四職の一つの京極家は応仁の乱後に没落したが、高次が豊臣秀吉に仕えて再興した。秀吉が没すると徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に与して大津城に籠城したが、西軍に囲まれて開城し高野山に隠退した。戦後、家康に召し出されて若狭小浜(福井県小浜市)八万五千石を与えられた。
高次の子 忠高は1634年に出雲松江(島根県松江市)二十六万四千石へ加移封さらたが、1637年に跡継ぎがなく断絶した。その後、忠高の甥高和が播磨龍野(兵庫県たつの市)六万石で再興し、1658年に讃岐丸亀(香川県丸亀市)に転封となった。
2. 丸亀京極家
初代 京極 高次(たかつぐ)【1563~1609】
1600年(38)の関ケ原の戦いで大津城に籠城し、西軍を引き付けて美濃へ向かわせなかったことを評価され、若狭小浜八万五千石を与えられました。さらに翌年に近江国内で七千石を加増され、合わせて九万二千石となりました。享年47。
二代 京極 忠高(ただたか)【1593~1637】
京極高次の長男、母は側室 山田氏。
1624年(32)に越前国内で二万千五百石を加増され、1634年(42)に出雲松江へ加移封され二十六万四千二百石を領しました。1637年(45)に甥高和を末期養子としましたが、幕府に認められず無嗣除封となりました。享年45。
三代 京極 高和(たかかず)【1619~1662】
京極高政の子、母は本庄惟済の娘。
1637年(19)に伯父忠高が嗣子なく断絶となりましたが、高次の勲功と忠高の忠勤により高和に播磨龍野六万石を与えられて、京極家を再興しました。1658年(40)に讃岐丸亀六万石余に転封となりました。未完だった丸亀城を完成させ、城下町の整備と新田開発に尽力しました。享年44。
正室は伊勢津藩主 藤堂高次の娘。
四代 京極 高豊(たかとよ)【1655~1694】
京極高和の二男、母は側室 林氏。
1662年にわずか8歳で讃岐丸亀藩を相続し、義兄高房に三千石を分与して五万七千石余となりました。1664年(10)に近江国内で千四百石を加増されました。また、このとき所領の一部の交換があり、京極氏先祖の墓所がある地域を領することになりました。1677年(23)に高房が没すると三千石は返還され、六万千五百石余となりました。享年40。
京極 高房(たかふさ)【1644~1677】
家臣多賀常良の子、母は京極忠高の娘 伊知子。
京極高和の養子となり、1662年(19)に父の遺領から三千石を分け与えられて寄合に列しました。嗣子なく絶家しました。享年34。
妻は出羽矢島藩主 生駒高俊の娘。
五代 京極 高或(たかもち)【1692~1724】
京極高豊の四男、母は酒井忠挙の娘。
六代 京極 高矩(たかのり)【1718~1763】
京極高或の長男、母は伊達宗利の娘。
京極 高迢(たかとお)【1741~1762】
京極高或の三男 高綏の子、母は留塚氏。
1754年(14)に伯父高矩の養子となりましたが、義父に先立ち没しました。享年22。
七代 京極 高中(たかなか)【1754~1811】
京極高矩の長男、母は側室 露木氏。
1763年にわずか10歳で讃岐丸亀藩を相続しました。1790年(37)に備荒貯蓄米の法を制定・実施しました。享年58。
八代 京極 高朗(たかあきら)【1798~1874】
京極高中の四男、母は側室 山田氏。
1811年に14讃岐丸亀藩を相続しました。1825年(28)に藩校敬止堂を創設して領民に開放し、江戸藩邸に集義館を開きました。また藩の産業として、藩士に団扇製造を奨励しました。1832年(35)に新堀湛甫を新造し、金比羅参詣の発着所として栄えました。1845年(48)に江戸町奉行を罷免された鳥居耀蔵を預かりました。1850年に53歳で隠居しました。享年77。
京極 高美(たかよし)【1818~1845】
九代 京極 朗徹(あきゆき)【1828~1882】
丸亀藩御連枝 京極高周の五男、母は側室 塚本氏。
1844年(17)に高朗の養子となり、1850年に23歳で讃岐丸亀藩を相続しました。1863年(36)に禁裏警護のために上京しました。1868年(41)に朝廷の命により朝敵となった高松藩を討伐するため、多度津藩兵とともに参加しました。1869年(42)に版籍奉還して丸亀藩知事に任じられ、1871年に(44)廃藩置県を迎えました。享年55。
正室は京極高朗の娘 十。
3. 多度津京極家
初代 京極 高通(たかみち)【1691~1743】
京極高豊の子、母は側室 塩津氏。
二代 京極 高慶(たかよし)【1718~1756】
京極高通の長男、母は継室 山崎義方の娘。
三代 京極 高文(たかぶみ)【1753~1796】
京極高慶の子、母は黒田直純の娘。
四代 京極 高賢(たかかた)【1776~1838】
京極高文の長男、母は側室 舛屋氏。
1796年に21歳で讃岐多度津藩を相続しました。1802年(27)に駿府加番をつとめました。1827年(52)幕府に多度津に陣屋を建設することを願い出て許可されました。1833年に58歳で隠居しました。享年63。
五代 京極 高琢(たかてる)【1811~1867】
京極高賢の二男、母は側室 菅氏.
1833年に23歳で讃岐多度津藩を相続しました。翌年から5年余の歳月を費やして多度津湛甫を完成させ、金刀比羅宮参詣の船客や北前船の中継地となって繁栄し、藩財政を潤した。ペリー来航以降、洋式大砲や小銃を積極的に採用していった。1859年に49歳で隠居しました。享年57。
六代 京極 高典(たかまさ)【1836~1906】
京極高宝の二男、母は側室 伊勢屋勘兵衛の娘。
伯父高琢の養子となり、1859年に24歳で讃岐多度津藩を相続しました。軍事調練に力を注ぎ、1864年(29)に朝廷から御所日之御門警衛を命じられ、1868年(33)の鳥羽伏見の戦いでは錦旗奉行 四条隆謌の護衛の任につきました。また、朝敵となった高松藩征討の先鋒をつとめました。1869年(34)に版籍奉還し、多度津藩知事に任じられ、1871(36)に廃藩置県を迎えました。享年71。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本人名大辞典(講談社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。